須藤先生の平凡なる非日常

第一章 ３、須藤先生は、ちょっぴり優しい……かも、しれない

８、

「あ、あの」
　長い沈黙の末、私が先に口をひらいた。
「私、パンダじゃないですよ」
「――知っている。だが、そうか。赤子か」
　ふふふ、へへへ、と先生が……先生が、奇怪な笑い声をあげた。こんなに笑い下手な人を見たことがないくらいに、奇怪だ。
「なるほど。そういった意味合いの無垢で受け取ったのか。きみのインスピレーションは美しいな。だから、もともとの敏感さもあって、私の裏の思惑を察したとき、その差異に幻滅したと。……そういう過程があったのならば、納得がいく。無垢な存在に触れたあとは、無垢な気持ちでいたいものだからな」
「つまり、私はどこまでも身勝手だってことですね。自分で勝手に美しさを感じて、接客なら表面上だけにこやかなのは当たり前なのに、心から先生が笑ってくれなかったことが嫌になって」
「その通りだが、きみのことはどうでもいい」
　ぴしゃり、と言い放つと、先生は私の腕を引いたまま歩き出した。真っ直ぐ上っていた三条通りを右にそれて、猿沢池をぐるりと回っていく。
「どこへ行くんですか？」
「五重塔だ」
「え、あっちですよ」
「いい加減、馬鹿にするのはやめろ。あそこにあるのはわかっているが、向こうから見た五重塔の感想を聞きたいんだ」
　はぁ、とあいまいに返事を返した。
　先生のツボは、どこにあるのだろう。そこまで変人奇人ではないし、常識も持ち合わせている人だと思うが、私なんぞに関わろうとする時点で特異だ。
　ふと。
　猿沢池のほとりに設えたベンチに、白いもこもこコートのおばさんが座っているのが見えた。薄暗いなかで、真っ白なコートはお化けのように浮かんで見える。池ではなく道側へ向いて座っていたために、ぼんやりとだが顔も見れた。年齢は五十歳ほどで、化粧っけのない見目をしている。
　こんな時間に一人で、何をしているのだろう。
　持ち物は、鞄がひとつ。近所の人が夕涼みに来ているにしては、衣類が余所行きだ。