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【3】失恋

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「やぁ、迎えにきたよ」

 ショールを羽織って職場を出たアリアドネは、聞き覚えのある声に振り返った。

(ラティス!)

 ラフなチュニックを着ているのはこれまで通りだが、今日は珍しく髪を短く整えている。
 いつも髪型には無頓着なのに、一体どうしたのだろう。

「驚いたわ、どうしてここに?」
「まだ仕事中だろうから、迎えに来てあげたんだ。ねぇ、俺に話ってなに?」

 ラティスはまた格好よくなっていた。
 月に一度は酒を飲む仲なので先月も会っている。しかし、仕事終わりだからか、いつにも増してラティスは精悍で逞しく見えた。

 お礼を言って、二人で歩き始める。
 夕暮れの橙色が二人を包み、地面に長い影を落とす。
 肩を並べて歩くと、ラティスの背がアリアドネより頭一つ分高いことがわかる。
 子どもの頃はアリアドネのほうが高かったのに、ラティスはあっという間に背を追い抜き、兵士となって、アリアドネから遠い人になってしまった。

 アリアドネは、羽織っていたショールを握りしめる。
 ドレスを新調する余裕はなかったので、ショールを買い足したのだ。

 少しでも可愛く見られたいという思いからだが、鈍いラティスはアリアドネの健気な努力に気づかない。

「明日休みだから、俺泊まっていけるよ?」
「えっ!」

 ラティスの唐突な言葉に、アリアドネは驚いた。
 大胆な誘い文句に、耳年増のアリアドネの脳内は大変なことになる。破廉恥な妄想をしてしまう自分と、ずっと好きだった幼なじみからの誘いに、頬が真っ赤になってしまう。

(お、落ち着くのよ私。いつかラティスとそういう関係になったら、全部をあげるって決めてたじゃない!)

 ラティスは兵士になって出世しても、月に一度は会いに来てくれる優しい人だ。
 小さい頃からラティスの笑顔が大好きで、彼が笑ってくれるためならなんだってしたいと思ってきた。

「どうしたの? ぱぁっとお酒を飲もうよ」
「……あ、お酒。うん、飲もう」

 飲み明かしたいという意味だったらしい。
 どうやら男女間の諸々を意識してはいないようだが、男と女がひとつの部屋で過ごすのだから、何か起きる可能性もじゅうぶんある。

 少し早とちりをしてしまって、アリアドネは今度は恥ずかしさから赤くなった。

(……もう告白しちゃおうかしら)

 きっとラティスもアリアドネを憎からず思ってくれているだろう。だから、何も告白されるのを待つことはない。
 それに、アリアドネももう二十歳だ。結婚適齢期が十七歳のカーン帝国において、二十歳というのは婚期ギリギリの年齢だった。

「で、相談って?」
「部屋に着いたら話すわ」

 魔獣について聞いたところで、保護した現物は自宅にある。ならば今は二人で何気ない会話をして楽しみたい。

「ラティスは最近どう?」
「ぼちぼちだよ。あ、そうだ。アリアドネってさ、誕生日に何貰ったら嬉しい?」

 ぎょっとして振り返ると、ほんのり照れた様子のラティスがアリアドネを見下ろしていた。
 ドキリと心臓が跳ねる。
 来月は、アリアドネの誕生日だ。

 しかし、これまでラティスから誕生日を祝ってもらったことは無い。アリアドネからも、おめでとうの言葉くらいしか送ったことがなかった。
 物を贈る余裕がなかったし、何より改めて言葉にして祝うことが、恥ずかしいのだ。

「どうしたのよ、急に。これまで誕生日なんて気にもしなかったのに」

 照れくささから、むっと言い返してしまう。
 ラティスは頬をさらに赤くした。

「俺ら平民と違って、貴族のお嬢様はそういうのに敏感なんだってさ」

 貴族のお嬢様。
 ラティスの返事に違和感を覚えた。
 振り向くと、ラティスの視線は空中を――どこか遠くにいる誰かを見ていた。
 愛おしい人を見つめるかのように、目がとろんと緩んでいる。

 嫌な予感がした。

「俺さ、今度結婚するんだよ」

 聞きたくない。聞いては駄目だ。

「先月の巡回のとき、たまたま助けた令嬢と婚約したんだ。俺、結婚すると同時に騎士位を貰えるんだって。末端だけど、貴族だよ! すごいでしょ?」

 ラティスは思い出したようにアリアドネを振り返ると、無邪気に微笑んだ。
 おもちゃを自慢する幼子のように屈託ない笑顔を向けられて、アリアドネは無理やり笑みを作る。

「すごいじゃないの」
「やっぱり? それで、彼女に何か贈り物をしたくなったんだ。そしたら来月誕生日だって聞いたから」
「へぇ」
「今夜、飲みながら相談乗ってほしい。あ、勿論きみの話が優先だから。手紙を寄越すなんて、よっぽどのことなんでしょ?」

 それからラティスは、婚約者の令嬢のことを話し始めた。
 どうやら心根の優しい女性らしい。

 これまで剣一筋だったラティスが女性を愛し、出世をする。
 めでたいことこの上ないのに、アリアドネの中にある嫉妬や惨めさがじくじくと痛み、笑顔すら作ることが難しい。

(どうして、両想いかもしれないなんて思えたのかしら)

 アリアドネは、ついに足を止めた。

「途中で酒買って帰ろうよ。俺が奢るからさ……どしたの? 」

 俯いたまま立ち尽くしていると、ラティスが訝るように戻ってくる。

「具合が悪い?」
「……婚約者がいるなんて、知らなかったわ」
「今日話そうと思ってたんだ。黙ってたのを怒ってるの? 婚約したのは、つい先月のこと――」
「帰って」
「え?」

 ラティスが心配そうにアリアドネの肩に触れようとした手を、ぱしりと叩く。
 ギリッと奥歯をかみ締めて顔を上げた。
 驚いているラティスを真っ直ぐに見つめる。

「アリアドネ?」
「今日じゃ遅いのよ。あのね、婚約者がいるならうちに呼ばなかったわ。ましてや泊まるなんてダメに決まってるでしょ」
「どうしてさ。アリアドネは友達だろ? これまでもずっと一緒だったのに、なんで今更そんな……」
「ラティス」

 低くはっきりと、窘めるように名前を呼ぶ。
 ラティスは不安そうに顔を顰めたが、アリアドネは構わず続けた。

「ラティスはそうかもしれないけど、婚約者の令嬢の気持ちを考えてあげて。恋愛結婚するんでしょ?」
「それは……でも、アリアドネは友達だから……」
「例え友達でも、異性と二人きりなんてよくないわ。私が原因で婚約がなくなったら嫌よ。あなた、騎士になりたいんでしょ?」

 ぐっ、とラティスは唇を噛む。
 ラティスの瞳は、じっとアリアドネに向いていた。助けを求めるように、真っ直ぐに。

 幼なじみだからこそ、今の言葉を撤回して欲しいのだとわかった。
 ――嘘よ今後とも何も変わらないわ。
 そう言ってほしいのだ。

「突然呼び出してごめんなさい、今後二度としないから」
「二度とって」
「他に誰かいるときに、飲みましょ」
「……手紙にあった話っていうのは? 俺が必要なんだよね?」
「他の人に頼むわよ」

 魔獣について聞きたいのは本当だが、アリアドネにはラティスに会いたいという下心があった。
 改めて魔獣に関しては、ラティスに頼らない方法を模索しよう。

 ラティスは傷ついた表情でアリアドネを見ていた。
 傷ついたのはアリアドネなのに、なぜそんなふうに見てくるのだろう。

「わざわざ来てもらったのにごめんなさいね。それじゃあ、お幸せに。出世もおめでとう」

 ラティスは何かを言いかけたが、結局何も言わなかった。
 アリアドネも振り返らずその場から立ち去った。

 足早に自宅に戻ると、ショールを投げ捨てた。
 少しでも可愛いと思って貰いたかったけれど、ラティスにとってアリアドネはどこまでいっても友達なのだ。

 悔しくて惨めで、涙が溢れた。
 片想いが実らなかった、それだけのことなのにこんなに辛いなんて。

 ずるずるとその場にしゃがみこむ。
 嗚咽が漏れて、口を押えた。
 涙や鼻水が溢れて、胸も痛い。

(両想いかも、なんて……馬鹿みたい)

 とっくに住む世界が違ったのだ。
 アリアドネは声を押し殺して泣いた。

 ◇◇

(あの子……!)

 アリアドネは乱暴に目をこすって、寝室に向かう。
 桶の中に寝かせた魔獣はそこにいて、触れるとやはり人肌のぬくもりがあった。

 弱っているが、まだ生きているらしい。
 ほっと安堵して、またその場にしゃがみ込んだ。

「……あなたがいなかったら、ずっと泣き続けてたわ」

 まだ涙は止まらないけれど、魔獣の命がかかっていると思うと早く動かなければならない。
 魔獣はアリアドネが仕事に出ている間、一人部屋で待っていたのだ。

 食事も水分も取っていないのだから、いつこのまま冷たくなってもおかしくない。

 ごしごしと、袖で目を擦った。
 少しの間とはいえ全力で泣いたからか、気持ちが先程より落ち着いている。

「よし! ごめんね、すぐになんとかするわ。あなたのこと……えっと、呼ぶのに名前が無いと困るわね」

 情が移るかもしれないが、それを言うなら、魔獣を助けようと思った時点で手遅れだ。

「そうね。……リリアン、ってどうかしら?」

 リリアン。
 可愛い名前が、ピンクの魔獣にぴったりである。

 アリアドネは満足して頷くと、完全に涙を拭い、リリアンの今後について考え始めた。

 それから程なくして、やはり専門家に聞くべきだという判断に至った頃。

 部屋のドアをノックする音がした。
 一瞬、ラティスが来たのかと思ったが、ノックの音がラティスよりも早く、そして力強い。
 アリアドネはリリアンが籠の中で眠っているのを確認してから、玄関に向かった。
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