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【21】教主

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 アリアドネは、夢を見ていた。
 不治の病を抱える少年が悪魔と契約し、魂と引き換えに『五十歳までの命』と『病気や怪我を治癒する力』を得る話だ。

 ――「私は満足だ。この歳まで生きながらえた。そして、多くの人から感謝の言葉を貰った……多くの人の心に残った」

 人々が彼の名を――クイントゥスと――呼びかける。
 嘆きと感謝に見守られ、男、クイントゥスは微笑みながらこの世を去った。

 魂は契約のもと悪魔の手に渡り、そして『終宴』が起こる。

 フッ、とアリアドネは夢から覚めた。
 カタンと馬車が揺れたのである。

 窓の外に、フューリア教本部棟が見えて、ぼんやりしていた記憶が鮮明になっていく。

 リィナの魂を浄化したアリアドネは、その後すぐに気を失ってしまった。
 半日が経ち目覚めたのだが、そのときすでにステュアートの姿は無く、見知らぬ護衛が六人もアリアドネを囲むように立っていた。
 彼らの代表が言うには、現在、アリアドネの処遇を決める会議が開かれているという。
 アリアドネはステュアートの屋敷で待機を命じられ、さらに一日が経過した。

 会議は無事に終わったという知らせがくると同時に、アリアドネに本部棟へくるよう命令が届いた。
 そうして現在、六人の護衛に囲まれながら馬車で本部棟に向かっているのである。

(ステュアート様、大丈夫かしら)

 誰に聞いても、ステュアートがどこにいるのか教えてくれない。
 彼が処罰を受けていなければよいけれど。

(もしかしたら、私のことが嫌になった……とか)

 評判に傷をつけたのだ。
 ステュアートはプライドの高い男だから、アリアドネを恨んでいる可能性もある。
 ぎゅっと膝の上で握りしめた拳が震えた。
 もしそうだとしても、仕方がない。

 アリアドネ自身、悪魔と契約していることを知らなかった――そんなもの、言い訳にしかならないことを知っている。
 事実がすべてなのだ。

 馬車が本部棟の前で停車すると、アリアドネは深呼吸をして、案内役の神官に続いて回廊を進んだ。
 通されたのは、以前に案内された教主の部屋とは異なる客間だった。
 部屋の中央に一対のソファがあって、片方に教主が座っている。
 彼はアリアドネに座るよう促した。

「先日の件、すべて聞いた」

 厳かな声だ。
 教主は厳しい顔をしている。
 日差し避けに窓を覆うカーテンが、風にふわりと大きく膨らむ。
 しん、と静寂が部屋に降りた。

「悪魔は甘い言葉で人をたぶらかす。本来ならば被害が出ておらずとも、早期契約満了を契約者に促し、悪魔を返すよう説得するところだが……」

 教主は言葉を切ると、溜息をついた。

「――お前にいくつか聞きたいことがある」
「はい」

 少しでも誠実であろうと、大きく頷いた。
 教主が続ける。

「お前は何を対価に悪魔と契約をした? また、なぜ契約することになったのか、状況を説明せよ」

 幼少期のアリアドネの身に起きたことを、順序を追って最初から話すことにした。
 最後に、リィナの魂の浄化を悪魔に手伝って貰った話をする。
 教主はまた黙した。

「……まず話さなければならないのは、お前の持つ『魂を浄化する力』についてだ。これは過去どこまで遡っても、前例がない」

 え、とアリアドネは目を見張る。

「人は、穢れた魂を見つけることも、悪魔の出生を止めることもできない。だが、お前の力は終宴を迎えることになる魂を見つけ出し、予め浄化することができる。これは、どういうことかわかるか?」
「どういう……?」

 首を傾げるアリアドネに、教主は神妙に告げる。

「種族を増やすことを目的に人の魂を穢している悪魔たちにとって、お前の力は天敵といえるのだ」
「私が?」

 思わず自分の身体を見る。

(……そうなの? あなたは、天敵の私と契約してまで、人として生きた記憶を取り戻したいの……?)

 種族を増やす本能は、人が食事をするくらい当然のことだと言っていたのに、どうして。

「ゆえに、その悪魔もまたかなり稀有な存在といえる。……人であった頃に、よほどの善行を積んだのか」
「善行を積むと、何か変わるんですか?」
「ただの推測だがね。この世には『穢れ』がある。悪事を働くと溜まっていくとされるものだ。ならば逆に、功徳を積むことで溜まるものもあるのでは無いか、と私は考えるのだ。仮に『晴れ』としよう」

 教主の考えはこうだ。
 穢れの反対に、晴れというものがある。
 穢れと晴れは決して交わらず、相殺することもない。
 さらにいえば、穢れは自らが招くものだが、晴れは他者によって齎されるものという考え方だという。

 つまり善行を積んで感謝されると、その気持ちが晴れとなって、悪魔に堕ちたあとも魂そのものに影響を与えるのだ。
 アリアドネに取引を持ち掛けた悪魔が、悪魔らしくない自我を持っているのは、晴れを多く持っているゆえのことだと推測できる――と、教主は言う。

「……だから、善行を積んだとおっしゃったのですね」
「そうだ。だが、それほどの者が悪魔に堕ちることがあるのか……? やはり仮説に過ぎんか」

 ぶわり、とカーテンが大きく膨らみ、バタバタと風に揺れる。
 部屋を駆け抜ける風から顔を庇うように横を向いたとき、初めて壁に掛かっていた大きな絵画を見た。

 中性的な姿の男が描かれた絵だ。
 絵画に描かれた美しくも儚い雰囲気を醸す男に、見覚えがあった。

(この人、どこかで……あ!)

 蘇る記憶は、幼い頃のもの。
 孤児院での幸福が終わりを告げ、絶望のなか新たな希望の光を見た瞬間。

 悪魔の手を取ったときに、ただの黒い棒のようだった『手』が人の姿に変貌した。
 あのとき見た悪魔の姿こそ、絵画に描かれた者と同じ姿をしているのだ。

「あの、こちらの絵はどなたなのですか?」
「フューリア教の始祖であるお方だ」

 驚きで目を見張る。
 その瞬間、どくんと大きく鼓動が跳ねた。
 ハッと自分の身体を見下ろす。

(悪魔……?)

 悪魔が、何かを感じている。
 そっと胸に手を当てた。

 頭のなかに、光景が流れ込んできた。
 つい先程馬車で見た夢と同じ光景である。

 クイントゥス、と呼ばれる男が亡くなった場面から始まり、どんどん光景が逆行していく。
 大勢の人を助けた彼は、五十で悪魔に魂を捧げた。
 そんな彼が悪魔と契約したのは、十一の歳だ。

 奇病を患った彼は、人々に迫害されて一人で森のなかで生きてきた。
 だが奇病が全身に回り、その命を落とそうとした瞬間、悪魔が現れて取り引きをする。

 憐れな少年が見返りに望んだことは、五十までの命と圧倒的な治癒力だった。

 ――「多くの人から感謝の言葉を貰った……多くの人の心に残った」

 死に際に彼が残した言葉は、彼の最たる望みだったのだ。
 孤独に死ぬのは嫌だ、生きていたことを誰かに知っていてほしい。
 その願いを望みだけで終わらせないために、人生すべてをかけて人々を救い続けた――。

「名前は……クイントゥス……?」

 悪魔にそっと呼びかける。
 流れ込んできた光景が、悪魔が『人であった頃』の生き様ならば、名前はクイントゥスのはずだ。

「その名をどこで聞いた?」

 教主がぎょっと答えた。

「始祖の名前は、ステュアートも知らぬはずだ。いや、私以外には教皇しか……」

 ぞわりと大きく空気が揺れた。
 冷気が肌を撫でたが、決して嫌な心地ではない。
 教主も感じ取ったようで、大きく目を見張っている。

 ――いつの間にか、部屋が暗くなっていた。

 床に、ゆらゆらと夜より暗い漆黒の闇が影として落ちた。
 その陰が、ゆっくりと絵画のほうに移動する。

『……そうか。私の名前は、クイントゥス・フューリア・リウス……』

 フッ、と辺りの闇が霧散して、昼の時間が帰ってきた。
 アリアドネと教主は顔を見合わせて、しばらく固まっていた。

 沈黙を破ったのは、勢いよく蹴破られたドアである。

「アリアドネさん、大丈夫ですか!?」

 飛び込んできたステュアートはアリアドネに駆け寄ると、ぴったりと体をくっつけるようにソファに座った。
 たくましい胸に顔を押し付けられて、腕にすっぽりと包まれる。
 恋しくてたまらなかったステュアートの匂いを鼻孔いっぱいに吸い込んで、彼の心地よい体温を感じ取るためにアリアドネからも身体を寄せた。

 涙がこみ上げてきて、隠すためにぐりぐりと胸に顔を押し付ける。

「何もされていませんか? エロじじいにどこも触られていませんか?」
「私は大丈夫で……ステュアート様!?」

 エロじじいというのは、教主のことだろう。
 いくらなんでもひどい暴言に慌てるアリアドネを見て、ステュアートは理解したように頷いた。

「視姦された、ということですね。教主、あなたは最低です。どうしようもないハゲだ!」
(ハゲてるけどもっ!)

 なんて言って止めればいいのかわからず、戸惑っていると。

「これはハゲではない、剃髪しているのだ!」

 教主が怒鳴った。

「ハゲを隠すための剃髪など、詐欺もいいところです! いえ、問題はそこではありません。アリアドネさん、騙されてはいけませんよ。このエロじじいは、口八丁で人を簡単に騙す最低なじじいです。ここで話したことはすべてじじいの都合の良いように改竄されていると思って下さい!」
「あの……えっと……え?」

 どの辺りのことを言っているのだろうか。
 ただ聞き取りに応じて、教主から意見を聞いていただけなのだが。

「待て、ステュアート。まだ今後についての話はしていない」

 教主がため息交じりに言うと、ステュアートはピタリと動きを止めた。

「そうなのですか? ああ、よかった。ハゲの話は聞かなくて結構です。あなたは私の妻であって、それ以外の何者でもないのですから」

 アリアドネは息を呑む。

(ステュアート様が私を嫌うんじゃないかって……そんなふうに思ってたのに……)

 胸がじんわりと温かくなって、こぼれそうになる涙を懸命に堪えた。

「ステュアート! これは重要なことだ。お前一人の望みを通すわけにはいかん」
「なんと言われようと譲れません! あなたといい古参の重役神官といい、なぜアリアドネさんを私から奪おうとするのですか!」
「ああああっ、うるさいわ! だからお前を軟禁しておいたのに、なぜここにおる!」

 教主が怒りのあまり机を叩いた。
 二人の言葉から察するに、ステュアートが姿を見せなかったのはアリアドネを避けていたからではなかった。
 それどころか、二人でいることが出来るようずっと直訴していてくれたらしい。

「絶対に渡しません。アリアドネさんは、私の妻ですから!」
「それはわかっておると言ってるだろうが! 今後も共に暮らせばよかろう、誰も邪魔せんわ!」
(……あら?)

 感動していた涙が、少し引いた。
 首を傾げてそっとステュアートの胸を押すと、教主を見る。

 怒りで顔を真っ赤にした彼と、いつの間にやってきたのか、そんな教主を哀れみのこもった目で見るアランがいた。

「……ステュアート様」
「アリアドネさんは、何も心配いりませんよ」
「あの、待ってください。私、一度ちゃんと、教主様のお話を聞きたいと思います」

 ステュアートが難色を示した表情をつくり、口を開こうとした。
 だがその前に、教主が大きな咳払いでそれを止める。

「真っ当な嫁を持って何よりだ。さて、本題に入ろう。先程も伝えたようにお前の持つ『魂を浄化する力』はとても希有だ」
「お前ってなんですか! 私の妻に向かって、馴れ馴れしくありません!?」

 アリアドネとしては呼び方などなんでも構わなかったが、教主はそれもそうだと思ったようで改めた。

「アリアドネの力は――」
「名前で呼ぶとか、親しすぎません!? ちょっと話しただけで仲良くなった勘違い野郎ですか!? さすがエロじじいですね!」

 教主の目に、一時期消えていたはずの怒りが戻ってくる。
 しかし、先に口を開いたのはアリアドネだった。

「ステュアート様、少し待っていてください。話が進みません」

 途端にステュアートはムッと口を結び、黙り込んだ。
 教主は感心したように頷くと、話を続けた。

「アリアドネの力は悪魔にとって天敵だと話しただろう? その力を先日、悪魔と契約しているリィナに使った。その際、悪魔に力のことを知られた可能性が高い」

 記憶を失っていたこともあって、アリアドネは『魂を浄化する力』をクイントゥス以外の悪魔の前で使ったことがなかった。
 しかし、フューリア教にきて事態は大きく変化し、悪魔から敵として認識された可能性があるという。

「フューリア教としても、『魂を浄化する力』は手放したくない。是が非でもフューリア教に置いておくべきだという輩もいたが、私としては、アリアドネの意見が最重要だと考えておる」

 こくりと頷く。
 教主の目は怖いほど真剣で、ともすれば怒っているようにも見える。
 きっと、こういう人なのだ。
 初めて会ったときは嫌われていると思ったが、そうではなかったのだろう。

「よって、アリアドネに今後の選択肢をいくつか提示したい。一つ目、フューリア教に帰依する。この場合、希有な力があることや狙われている可能性も考えて、大巫女の地位についてもらう。ただの巫女というのは受け入れられない。二つ目、フューリア教を去り『協力者』という形を取る。自身が前線に立つことは望まぬが人を助けたい、という場合だ。当然衣食住の保証はできない。三つ目、フューリア教から去り今後一切の関わりを絶つ」
「四つ目、私の妻としてこれまで通り過ごす」
「……その四つだ」

 ステュアートが付け足した四つ目も、選択肢に入った。
 驚くアリアドネに、教主が苦笑する。

「ステュアートは私にとって息子も同然でな。出来れば願いを叶えてやりたいと思う。口が悪く性格にも問題があるうえに、身勝手な脳内変換をするようなやつだが、こうして愛し合うことができる妻を迎えることが出来たのだ。二度とこのような奇跡はないだろう」

 アリアドネは、提示された四つすべてをじっくり考えた。
 勢いだけで答えてよいことではない気がしたのだ。

 教主を、アランを、そしてステュアートを見る。

「一つ目を選んだ場合も、ステュアート様の妻でいられますか?」
「ああ」
「では、私としては、一つ目を選びたいと思います」

 アリアドネは今後もきっと、穢れに侵された魂を持つ者を放っておけない。
 ならばいっそのこと、彼らを救うための大義名分として、フューリア教に帰依するほうがよいと考えたのだ。

「……アリアドネさん、本気ですか?」

 ステュアートの悲壮感漂う声に、アリアドネは目を瞬く。

「ステュアート様は、反対ですか?」
「当然です! 仕事の間、私以外の男たちと関わることになるのですよ!」

 仕事とはそういうものではないか、と思ったが、ステュアートは不安そうに眉を寄せている。
 今にも泣きそうな彼に、ぎゅっと胸が締め付けられた。

「いけませんか?」
「心配なのです、あなたが可愛いから!」
「……可愛いと言ってくださるのは、ステュアート様だけですよ?」
「嫌です、他の男たちにアリアドネさんを見せるなんて。他の男と恋に落ちたらどうするんですか! 私はショック過ぎて立ち直れませんよ!」
「そんなこと――」

 ありません、と言いかけて、気付く。
 フューリア教本部に来た日、初めて肌を合わせることになったきっかけの会話を思い出したのだ。

 アリアドネがステュアートの妻になろうと決めたのは、そもそもが人助けだった。
 そのまま結婚して今に至っている。

(でも、今は……違うわ)

 ステュアートと会えないと寂しいし、会えると嬉しい。
 ステュアートが他に妻を迎えてもいいかと聞いてきたら、迷うことなく嫌だと言うだろう。

 アリアドネは、とっくにステュアートを愛しているのだ。
 そのことを、ステュアートは知らないままである。

「ステュアート様、私はあなたを愛しています。他の男性なんか目に入らないくらい、好きなんです。……だから、信じて貰えませんか?」

 ピタリ、とステュアートが動きを止めた。
 長い沈黙ののち、ステュアートが首を傾げる。

「好き?」
「はい」
「私を? アリアドネさんが?」
「はい。人として尊敬していますし、男性として愛しています。夫婦になれて、私はこの世の誰よりも幸せ者です。それなのに、他の男性と恋に落ちるなんてありえません」
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