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第一章 仕組まれた出会い
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「もう、びっくりしたんだから~」
同室のフィーアは、ベッドに腰をかけてため息交じりに言った。
狭い二人部屋に、一人がやっと通れるほどの幅を残して並ぶベッドが二つある。ここは、メリアとフィーアが使っている、宮廷使用人専用の寮部屋だった。
フィーアはふわふわと赤毛を揺らしながら、心配そうに首を傾げた。
いつもは髪を頭上で一つに纏めてヘッドガードをつけている彼女も、今は自室なので自然のままに背中に垂らしている。
「気づいたらいないし、でも探しにいく余裕もなくって。やっとメリアがいないことを侍従長に伝えにいったら、メリアは医務室にいるって言うんだもん」
「昨日は迎えにきてくれてありがとう。仕事、結構遅くまで続いたのに。迷惑かけちゃったわ」
昨夜のパーティには、騎士団の面々が参加していた。
基本的に、平民も入団可能な騎士団は、王城のパーティには参加しない。元より規律が厳しく高潔な騎士団は、欲に塗れた事柄を避けねばならないという暗黙の了解がある。
だが、昨夜は第二王子の騎士団入隊を祝うパーティのため、騎士団の面々も参加可能となっていた。
騎士団員はよく食べてよく飲んでも、ハメを外しすぎて愚かな真似をする者はいないだろう。だが、気位の高い貴族らは、同じ場に平民がいることが気に食わない。
だからといって、王家主催では露骨に不満を言うわけにもいかず、給仕や使用人に苛立ちをぶつける者が現れるのだ。
「私の分も、動いてくれたって聞いたの」
「いいのよ、そんなの! メリアはいつも働きすぎなんだから。でも、真面目なメリアを利用して、庭へ追い詰めるなんて信じられない。レイブランド子爵って、ほんとサイテー」
「ちょっとフィーア! 貴族様の悪口は、やめたほうが……」
慌てて手を振るメリアに、フィーアはぷっくりと頬を膨らませた。
「だって、別の貴族の名前を出してメリアを呼び出したんでしょ?」
フィーアの怒りのこもった視線に苦笑しながら、メリアは頷く。
昨日、『某伯爵が庭でグラスを割った。そのカップを踏めば怪我をする、すぐに片付けてほしい』と年嵩の温厚そうな男爵に言われたのだ。その彼も他者から聞いたふうな口ぶりだったが、そのときは疑問に思わず、言われるまま掃除するために道具を持って向かった。
だが、言われた場所にグラスなどなく、それどころか人払いがされていたのか、招待客の姿もない。
驚くメリアのもとにレイブランド子爵がやってきて、無理やり関係を迫ってきたのだ。言動から察したメリアはすぐに逃げたが、うまく誘導されたと気づいた頃には、庭園で転んでいたというわけだ。
フィーアは、むすっと口をひん曲げて、不快感を露わにした。
「なんてせこい男なのっ。メリアに怪我までさせて」
「これは私が勝手に転んだだけだから」
「もう、全部あいつのせいなの! メリアは何一つ悪くないんだからっ」
身を乗り出して力説するフィーアは、昔からメリアを気遣ってくれる。気さくで優しく、茶目っ気があって、とても明るい子だ。
メリアが男ならば、メリアのような真面目さしか取り柄のない女よりも、フィーアを恋人に望むだろう。
実際、フィーアは来月に結婚することになっている。
フィーアはレイブランド子爵の悪口を一通り並べると、落ち着いたのか、ベッドに転がった。
「でも、メリアのおかげであたし、今日お休み貰えちゃった」
「あら、休みじゃなくて私の付き添いでしょ?」
「むしろご褒美よ!」
ふふん、と笑うフィーアに、思わず笑ってしまう。
完治まで療養すること、が仕事になったメリアは、上司から、今日だけフィーアを傍において身の回りの世話をさせるように命じられたのだ。
てっきり、怪我を負ってしまったことに関して、管理不足で叱責されるかと思ったのだが、貴族に迫られて怖い目にあっただろうと同僚や上司たちは、メリアを暖かく慰めてくれた。
(本当にいい職場だわ)
宮廷使用人という仕事は、厳しいうえに忙しいけれど、人に恵まれた。
泣きたくなることや、腹が立つこともあるが、これまで仕事を続けてこれたのは皆がいたからだ。
だからこそメリアは、レイブランド子爵が報復にくるかもしれないことが怖くて仕方がない。
昨夜のゲオルグとのやり取りは夢のようで、今朝方目が覚めたときには、すべてメリアの妄想だったのではないかと考えたほどなのに、レイブランド子爵の件については、嫌でも現実的な想像をしてしまう。
フィーアと談笑している間も不安は拭えず、嫌な予感に胸がざわざわとした心地で過ごした。
メリアの不安を肯定するかのように直属上司のリズがメリアを訪ねてきたのは、紅茶を垂らしたような陽光が窓から部屋を染める、夕方頃だった。
ちょうど、今夜のパーティの支度で宮廷使用人の主力たちが出払ったすぐあとだ。
いつもおっとりとした笑顔を浮かべているリズは、今日に限って不安そうに表情を曇らせていた。
「メリア、実は今、レイブランド子爵がいらしているのだけれど」
サッと冷水を浴びたように、全身が硬直した。メリアの顔は青くなり、恐怖を覚えてガチガチと歯がなる。
(きた……本当に)
メリアの顔色の悪さと震える身体を見て、リズは気の毒そうに目を伏せた。
「レイブランド子爵が、あなたを呼んでいます」
「リズ様! メリアは昨日とても怖い目にあったんです。なのに、メリアをあの男に会わせるなんて、いくらんでも酷すぎます!」
フィーアが身体を乗り出さん勢いでまくし立てると、リズも頷いた。
「わたくしも、出来ることならばそのようにしたいのですけれど。……今、事実確認という名目でこちらへ来ている間に、アンナが侍従長へ知らせにいっています。形式だけとはいえ、メリアには昨夜のことをもう一度、聞いておかなければなりません」
リズはそう言って、背筋を伸ばした姿勢のままメリアのベッドに腰をかけた。
部屋に椅子がないので、こうして来客がベッドに横座りすることは珍しいことではない。
「あなたに落ち度がないことはわかっています。ですが、ここでは地位や身分のある者が絶対なのです。昨夜、レイブランド子爵はあなたを追いかけて――それから、本当は、何があったのですか」
「隠していることはありません」
「では、昨夜あなたから聞いたことを、もう少し詳細に話してください。追いかけられて、庭園へ誘い込まれたのですね?」
「はい。庭園へ追い立てられて、転んで……動けなくなったので、近くで身を潜めていたんです。そしたらレイブランド子爵が猫なで声で呼びながら探しにきて。その途中で、レイブランド子爵が転んだんです。私自身は見つかりませんでしたが、そのときから、声が剣呑なものになって、暴言を吐きながら戻っていかれました」
リズは、軽く目を見張ったあと、ため息をついた。
「レイブランド子爵は、あなたに怪我をさせられたと訴えていますが。勝手に転んだ、という解釈で合っていますか?」
「はい」
「わたくしはてっきり、あなたがレイブランド子爵を突き飛ばしたのかと。自分で転んでおいて、なんて身勝手な男なのかしら」
リズは頭が痛いといわんばかりに額を押さえて、首を横に振った。
メリアの顔色は益々悪くなる。
悪い予想ほど当たるものだ。昨日の今日で、レイブランド子爵がやってくるなんて、よほど腹に据えかねているに違いない。
「私、行きます。直接会って謝罪をしないと」
「あなたが会ったところで解決するとは思えません」
「ですが、このままでは連帯責任になりかねませんし、もとは私のせいです」
リズは、ちらりとメリアを見て、視線を落とす。
その仕草にメリアは嫌な予感が的中してしまったことを悟ったが、認めたくなくて、震える声でリズに問う。
「既に、子爵が何か……?」
「気にする必要はありません。いくらレイブランド子爵とはいえ、宮廷使用人すべてを解雇など出来はしないのですから」
衝撃に呼吸がつまり、握りしめた拳に力がこもる。
果たしてそうだろうか。本当に不可能なのか。
レイブランド子爵の父は、先代の折に手柄をたて武勲を賜った公爵だという。もし、我が子可愛さに公爵が現王に直談判でもしようものなら、どうなるかわからないのではないか。
「私、レイブランド子爵に謝罪に行きます」
迷いはなかった。
言い終えるまでに、怪我をした足を引きずってベッドから降りる。リズは、やはり気の毒そうな顔をしながら、内心でほっとしている様子が見て取れた。
きっと、レイブランド子爵の怒りは相当なものなのだ。
松葉杖をついて立ち上がると、フィーアが隣に並んで、いつでも支えられるように待機してくれる。
幸い、足は地面につけない限り痛みはなかった。ぶつけないようにしながら、レイブランド子爵が待機しているラウンジへ急いだ。
ラウンジでは、レイブランド子爵が目をつり上げた形相で肘置きつきの一人掛け椅子に座っていた。傍には、彼がいつも連れている従者が二人控えている。
レイブランド子爵はメリアを見つけると、対応していた男性使用人を押しやって、瞳にぎらりとした欲望と怒りを滾らせた。
「ふん、やっと来たか。見ろ、これを」
そう言って、レイブランド子爵が腕を見せる。そこには、何かでひっかけたような傷があった。二センチほどの幅で、僅かに血が滲んだあとが伺える擦り傷に近いものだ。
「お前のせいで、私は大怪我をしたんだ!」
どこをどう見てもメリアのほうが怪我の具合が酷いけれど、そういう問題ではない。ここで、「こいつ馬鹿じゃないのか」といった表情をしたが最後、火に油を注ぐどころか爆発が決定してしまう。
メリアは出来る限りの速さでレイブランド子爵へ歩み寄り、二メートルほど離れた場所で立ち止まった。松葉杖をフィーアに預けて、その場へ跪く。
「申し訳ございません」
「遅いんだよ! ノロノロ歩きやがって!」
怒鳴ると同時に、レイブランド子爵が勢いよく立ち上がる気配がした。フィーアの息を呑む音が聞こえたと思った瞬間、目の前が真っ赤に染まり、世界が揺れた。
気づくと天井を見つめていた。
視界がぐるぐると回っており、その気持ち悪さから吐き気がこみあげてくる。
「……ぁ」
やっとのこと絞り出した声は、くぐもっていて、頬の痛みでうまく顔が動かせない。
(蹴られた、っぽい……痛い)
レイブランド子爵は、メリアの顔面に靴ごと蹴りを入れたのだ。衝撃で脳が揺れて呼吸がままならない。
その衝撃は、顔面に受けた痛みも麻痺してしまうほどに酷いものだった。
「おやめください、子爵」
リズがやんわりと止めにはいるけれど、レイブランド子爵に睨まれて口を噤む。
メリアは床に転がったまま、ゆっくりとレイブランド子爵のほうへ顔を向ける。蹴られた際に真っ赤に染まった視界は徐々に戻り、代わりのように頬の痛みが顕著になっていく。
メリアを蹴ったことで少し落ち着いたのか、レイブランド子爵は嘲笑を浮かべていた。
「このまま蹴り殺してやってもいいんだけどなっ、クソデブが!」
顔が痛い。
目が回る。
ぶつけたらしい足も、激痛でうまく動かせない。
「お前のような平民を相手にしてやってるんだ。それを、私を拒むだと? お前がクズなだけじゃなくて、教育がなってない。宮廷使用人は全員解雇だ!」
宮廷使用人は全員解雇。
その言葉は、痛みで朦朧とするメリアにもはっきりと聞こえた。
「待ってっ、待ってください!」
痛む頭を無理やり動かし、這いずって、なんとか許しを請う。
「私が悪いんです、どうか処罰は私だけに!」
必死に言葉を紡ぐメリアを見下ろして、レイブランド子爵はぎりっと歯を噛みしめた。
メリアの口のから、つつ、と血が伝い落ちる。蹴られたときにどこか切れたらしいが、ジンジンと痛んで感覚がない。
レイブランド子爵が、ゆっくりとメリアの傍へと歩いてきた。
「どうか、どうかご慈悲を!」
「お前ごときに、慈悲だと?」
「わ、私……」
メリアは、必死に頭を動かして――そして、昨夜、ゲオルグに言うように言われた言葉を、告げた。
「婚約者が、いるんです」
もしかしたらレイブランド子爵でも倫理を重んじて、考え直してくれるのではないか。
そんな淡い期待は、一瞬で打ち砕かれた。
「だったらなんだ、売女が! お前ごときが私を馬鹿にして、ただで済むと思うな!」
ヒステリックに叫んだレイブランド子爵が、踵をあげる。
床に這いつくばったメリアからは、右足の靴裏が見えた。薄汚れた灰色の靴裏が、メリアの顔めがけて踏み下ろされて――。
(あ……これ、まずいやつ)
目を閉じることも出来ず、踏み下ろされる踵をただ見つめる。
酷くゆっくりとした時間だった。
突如、踏み下ろされたはずの踵が消えた。
僅かな間のあと、パンパンに膨らんだ豚の腸詰を高い場所から落としたような音が響いた。
「ふごばっ」
続いて、カエルがつぶれたような声がする。
(……え?)
目の前からレイブランド子爵が消えてしまった。
何が起きたのか、理解が追い付かない。
「め、めりあっ!」
呆然としていたメリアは、フィーアに呼ばれてゆっくりと意識を引き戻す。馴染みのある声に誘われるように、顔を向けた瞬間、フィーアとの間に何者かが立ちふさがった。
深緑色のトラウザーズが視界に映る。
「メリア、怪我はないか」
低く心地よい声に、メリアは全身が弛緩するのを感じた。
(……もう、大丈夫)
当たり前のようにそう感じて、ふと笑う。
しゃがみ込んだ軍服姿の男――ゲオルグが、メリアの首の下に腕を差し込んで半身を起こした。
ゲオルグの顔が近くにある。
初めて明るいところで見る彼の表情は、酷く不安げだった。眉は顰められ、瞳は揺れて、結ばれた唇は小さく震えている。
(でも、どうしてここに?)
メリアの疑問を読み取ったように、ゲオルグが口を開いた。
「例の件を進めるために、陛下に許可を取りにいったのだ。そしたら、まずはきみに会わせろと無茶ぶりをされてな。唐突で申し訳ないが、会いにきた」
ゲオルグは、静かに息を吐いた。
「もっと早くくるべきだった。ここ数年、後悔することなどなかった私が、昨夜からこうも後悔に苛まれるとは」
ゴツゴツした軍人らしいゲオルグの手が、メリアの頬に触れる。
途端、痛みで身体が跳ねた。
「っ、すぐに医務室へ連れていく」
「その必要には及ばないよ。すでに医者を呼びに行かせたからね」
ゲオルグがメリアを抱き上げようとした瞬間、第三者の声が割って入った。そのとき、メリアは初めて周辺に集まっている人々が増えていることに気づいた。
リズやフィーア、他の宮廷使用人たちはその場で跪き、メリアを抱き起しているゲオルグがいる他に、騎士副団長ガルーム・ヴィラーが感情を堪えるような無表情で立っている。
その隣に、長い白銀の髪を美しく結い上げた容姿端麗な男が、腕を組んだ不遜な態度でメリアたちを見ていた。
忘れるはずも、間違えるはずもない。
この方こそ、レイゼルゾルト王国のトップにして実権を握るレイゼルゾルト国王、エトヴィン・ブラームス・レイゼルゾルトその人だ。
(ひっ、ひいいいっ、なんで⁉)
夜会でも遠目からしか拝見したことのない麗しい国王が、剣呑な雰囲気を隠しもせずメリアを見据えているのだ。
驚きを通り越して、幻ではないかと現実逃避までしてしまう。
「これは現実だ」
ため息交じりに、ゲオルグが言う。
(グートハイル閣下が私の心を読んだ⁉ やっぱり夢……ううん、閣下なら心くらい読めるのかも)
そんなことを考えるメリアからゲオルグに視線を移したエトヴィンは、長い睫毛に縁どられた怜悧な目を静かに閉じた。
ため息を一つ落とす姿さえ、息を呑むほどに美しい。
とても、十五歳と十三歳の息子がいるとは思えない若々しさだ。
「レイゼルゾルトは貴族社会だ。生まれながらの身分を誇るのは構わない、出自もまた才能同様に、神が授けたものだから。けれど、真に誇れるのは、地位や才能に見合っただけの働きをしたときだと私は考える。……何もしないどころか、権力を振りかざし、私に尽くしてくれる使用人たちを虐げるなど、もってのほか」
滔々と語るエトヴィンの声は、驚くほどによく通る。
国王らしい堂々とした態度で、彼は目を眇めて、別の方角を――カエルがつぶれたような音がした方向を見た。
「レイブランド子爵には相応の処罰を受けてもらおう。とりあえずはフルボッコにしてから、屋敷への謹慎を申し渡す。追って沙汰を待て」
「陛下。すでに団長がやってしまっております」
ガルームが、怒りを堪えた瞳をエトヴィンと同じ方向へ向ける。
エトヴィンは満足そうに頷いた。
「さすが騎士団長。私の望みを汲んでくれるのが早くて助かるよ」
「これは完全なる私怨に思えますがね」
「ならば、止めるかい?」
「いいえ。むしろもっとやればいいと思います」
「同感だよ」
一体何が起きているのか、メリアは質問しようと口を開くけれど、痛みで表情を引きつらせる。
そんなメリアに気づいたゲオルグが、メリアを抱えて、近くのソファに下ろした。足の角度や顔の向きまで、痛みが最小限になるようテキパキと、ゲオルグ自ら手配してくれる。
「あの、ご、ごめんなさい」
「無理にしゃべるな」
ゲオルグがハンカチでメリアの口元を拭う。
(また助けてくれた……あっ)
ハンカチが血に染まったことで、メリアは勢いよく身体を起こした。蹴りつけられた痛みがビキビキと頭にまで響いたが、持ち前の気合で押し殺す。
「申し訳ございません、大切なハンカチをわたくしごときの血で汚してしまっ」
ぺしっ。
額をゲオルグが手のひらで叩いた。
「寝ていろ」
呆れと怒りが含んだ声で低く呟かれて、メリアはヒッと息を呑むと、視線に押されるまま再び寝転がった。
そのとき、老齢の医者が駆けつけてきて、エトヴィンへ跪く。
メリアの見たことがない医者だが、医者の白衣に、蔦と鳥が描かれた腕章を見つけて、彼が王族専用の侍医であることを知る。
蔦と鳥がデザインされた紋章は、現王エトヴィン個人の所有物である証だ。この紋章は軍服の胸飾りにも描かれているため、当然、ゲオルグやガルームも身に着けている。
一方、メリアのお仕着せに描かれている紋章は、王城で仕える者を示す『太陽と鳥』だ。
王族の紋章は不死鳥と決まっているが、王位につくと独自に「何か」と不死鳥を組み合わせ、自分のデザインを作る決まりになっている。
現王エトヴィンは、麗しい見目からは想像がつかないほど地味な『蔦』を選んだ。その謙虚さを美徳と褒め称える者が多い反面、使いやすい蔦のデザインが使用不可となったことに、頭を抱える平民や細工師が多いことをメリアは知っている。
「すまないね、デオ。怪我人を診てほしいんだよ」
「畏まりました。……あの、どちらの方から、診ましょう」
デオと呼ばれた医者は、メリアと、そしてメリアとは別の方向を見て、困惑した表情をした。ソファへ移動したことで、メリアも彼らが気にしていたそちらをばっちりと見てしまう。
先ほどまで威張り散らしていたレイブランド子爵が、床にうつ伏せで倒れている。意識がないようで、周囲には鮮血が飛び散っていた。
どうやら、豚の腸詰が落ちた音とカエルがつぶれたような声は、レイブランド子爵がぶっ飛ばされた際のものだったらしい。
レイブランド子爵のすぐ傍に、背の高い男が立っていた。
背を向けているので顔は見えないが、ゲオルグと同じほどの高身長で深緑の軍服を纏っており、肩に金の紐飾りを幾つも下げるほど身分のある者など決まってくる。
騎士団長、バルバロッサ・ヘリムだ。背中に垂らした灰色の長髪を白いリボンで結んでいる辺りも、彼の特徴と一致している。
「そちらのお嬢さんを見てやってくれ。向こうのは……お前たち」
エトヴィンが声を掛けたのは、レイブランド子爵の傍で怯えて座り込んでいた従者たちだ。主に仕える従者とはいえ、相手が国王では主を庇うわけにはいかないのだろう。いや、元より、レイブランド子爵に心身ともに忠誠を誓った身ではなかったのかもしれない。
「すぐにそれを連れていけ。医者に見せるのは自由だが、謹慎を申し渡した以上、城の医者に対応へ当たらせることを禁じる」
二人の従者は深く頭をさげると、お互いに顔を見合わせて、すぐにレイブランド子爵の肩と足をそれぞれ掴み、荷物のように持ってラウンジを出て行った。
メリアは視線をエトヴィンに向けて、そして、ゲオルグに向けた。
何がどうなっているのだろう。そういえばさっき、ゲオルグは例の件を進めるために、国王へ許可を求めたと言っていた。
例の件とはなんだろうと考えて思い浮かぶことは、一つしかない。
(結婚……の、こと?)
やはり昨夜のことは夢などではなく、メリアは本当に彼から求婚されたのか。
利害のための訳あり結婚とはいえ、本当に妻にしてくれるのか。
そのために、わざわざエトヴィンに許可を求め、ここまで歩みを進めてくれたのか。
メリアのような、ただの使用人のために。
(都合のいい相手なんて、いくらでもいるはずなのに)
昨夜、レイブランド子爵に因縁をつけられたメリアを目撃してしまったがゆえに、ゲオルグはメリアを助けてくれたのだろう。
彼のおかげで、メリアもメリアの大切な同僚たちも無事で済んだ。
王の侍医に診てもらうという贅沢を受けながらも、ゲオルグはメリアの傍にいてくれた。手を強く握り締めていてくれるので、嬉しさや安心などの、ぐちゃぐちゃとした気持ちが胸の奥で渦巻いて、うっすらと涙が滲んでしまう。
「……さて、ゲオルグ。そろそろ紹介してくれないかい?」
エトヴィンの苦笑交じりの言葉に、ゲオルグが心底不快そうに顔を顰めた。
彼はため息を一つ落として立ち上がる。
その際、離れてしまった手が無性に寂しかった。
ゲオルグは露骨に咳払いをすると、ざっと周りを見回してから、はっきりと告げた。
「彼女は、メリア・ヴェーベルン。近々結婚する約束をしている」
ざわっ、とざわめいたのは、騒ぎを聞きつけて集まっていた同僚たちだ。今夜の支度に出向いていた一部の者を除き、侍従長を呼びに行ったアンナも、侍従長もその場にいた。
性別年齢体型身長それぞれ違うのに、皆が一様に、あんぐりと大きく口をひらくものだから、メリアは困ってしまって、そっと目を伏せた。
頬が熱いのは、怪我のせいだと思いたい。
同室のフィーアは、ベッドに腰をかけてため息交じりに言った。
狭い二人部屋に、一人がやっと通れるほどの幅を残して並ぶベッドが二つある。ここは、メリアとフィーアが使っている、宮廷使用人専用の寮部屋だった。
フィーアはふわふわと赤毛を揺らしながら、心配そうに首を傾げた。
いつもは髪を頭上で一つに纏めてヘッドガードをつけている彼女も、今は自室なので自然のままに背中に垂らしている。
「気づいたらいないし、でも探しにいく余裕もなくって。やっとメリアがいないことを侍従長に伝えにいったら、メリアは医務室にいるって言うんだもん」
「昨日は迎えにきてくれてありがとう。仕事、結構遅くまで続いたのに。迷惑かけちゃったわ」
昨夜のパーティには、騎士団の面々が参加していた。
基本的に、平民も入団可能な騎士団は、王城のパーティには参加しない。元より規律が厳しく高潔な騎士団は、欲に塗れた事柄を避けねばならないという暗黙の了解がある。
だが、昨夜は第二王子の騎士団入隊を祝うパーティのため、騎士団の面々も参加可能となっていた。
騎士団員はよく食べてよく飲んでも、ハメを外しすぎて愚かな真似をする者はいないだろう。だが、気位の高い貴族らは、同じ場に平民がいることが気に食わない。
だからといって、王家主催では露骨に不満を言うわけにもいかず、給仕や使用人に苛立ちをぶつける者が現れるのだ。
「私の分も、動いてくれたって聞いたの」
「いいのよ、そんなの! メリアはいつも働きすぎなんだから。でも、真面目なメリアを利用して、庭へ追い詰めるなんて信じられない。レイブランド子爵って、ほんとサイテー」
「ちょっとフィーア! 貴族様の悪口は、やめたほうが……」
慌てて手を振るメリアに、フィーアはぷっくりと頬を膨らませた。
「だって、別の貴族の名前を出してメリアを呼び出したんでしょ?」
フィーアの怒りのこもった視線に苦笑しながら、メリアは頷く。
昨日、『某伯爵が庭でグラスを割った。そのカップを踏めば怪我をする、すぐに片付けてほしい』と年嵩の温厚そうな男爵に言われたのだ。その彼も他者から聞いたふうな口ぶりだったが、そのときは疑問に思わず、言われるまま掃除するために道具を持って向かった。
だが、言われた場所にグラスなどなく、それどころか人払いがされていたのか、招待客の姿もない。
驚くメリアのもとにレイブランド子爵がやってきて、無理やり関係を迫ってきたのだ。言動から察したメリアはすぐに逃げたが、うまく誘導されたと気づいた頃には、庭園で転んでいたというわけだ。
フィーアは、むすっと口をひん曲げて、不快感を露わにした。
「なんてせこい男なのっ。メリアに怪我までさせて」
「これは私が勝手に転んだだけだから」
「もう、全部あいつのせいなの! メリアは何一つ悪くないんだからっ」
身を乗り出して力説するフィーアは、昔からメリアを気遣ってくれる。気さくで優しく、茶目っ気があって、とても明るい子だ。
メリアが男ならば、メリアのような真面目さしか取り柄のない女よりも、フィーアを恋人に望むだろう。
実際、フィーアは来月に結婚することになっている。
フィーアはレイブランド子爵の悪口を一通り並べると、落ち着いたのか、ベッドに転がった。
「でも、メリアのおかげであたし、今日お休み貰えちゃった」
「あら、休みじゃなくて私の付き添いでしょ?」
「むしろご褒美よ!」
ふふん、と笑うフィーアに、思わず笑ってしまう。
完治まで療養すること、が仕事になったメリアは、上司から、今日だけフィーアを傍において身の回りの世話をさせるように命じられたのだ。
てっきり、怪我を負ってしまったことに関して、管理不足で叱責されるかと思ったのだが、貴族に迫られて怖い目にあっただろうと同僚や上司たちは、メリアを暖かく慰めてくれた。
(本当にいい職場だわ)
宮廷使用人という仕事は、厳しいうえに忙しいけれど、人に恵まれた。
泣きたくなることや、腹が立つこともあるが、これまで仕事を続けてこれたのは皆がいたからだ。
だからこそメリアは、レイブランド子爵が報復にくるかもしれないことが怖くて仕方がない。
昨夜のゲオルグとのやり取りは夢のようで、今朝方目が覚めたときには、すべてメリアの妄想だったのではないかと考えたほどなのに、レイブランド子爵の件については、嫌でも現実的な想像をしてしまう。
フィーアと談笑している間も不安は拭えず、嫌な予感に胸がざわざわとした心地で過ごした。
メリアの不安を肯定するかのように直属上司のリズがメリアを訪ねてきたのは、紅茶を垂らしたような陽光が窓から部屋を染める、夕方頃だった。
ちょうど、今夜のパーティの支度で宮廷使用人の主力たちが出払ったすぐあとだ。
いつもおっとりとした笑顔を浮かべているリズは、今日に限って不安そうに表情を曇らせていた。
「メリア、実は今、レイブランド子爵がいらしているのだけれど」
サッと冷水を浴びたように、全身が硬直した。メリアの顔は青くなり、恐怖を覚えてガチガチと歯がなる。
(きた……本当に)
メリアの顔色の悪さと震える身体を見て、リズは気の毒そうに目を伏せた。
「レイブランド子爵が、あなたを呼んでいます」
「リズ様! メリアは昨日とても怖い目にあったんです。なのに、メリアをあの男に会わせるなんて、いくらんでも酷すぎます!」
フィーアが身体を乗り出さん勢いでまくし立てると、リズも頷いた。
「わたくしも、出来ることならばそのようにしたいのですけれど。……今、事実確認という名目でこちらへ来ている間に、アンナが侍従長へ知らせにいっています。形式だけとはいえ、メリアには昨夜のことをもう一度、聞いておかなければなりません」
リズはそう言って、背筋を伸ばした姿勢のままメリアのベッドに腰をかけた。
部屋に椅子がないので、こうして来客がベッドに横座りすることは珍しいことではない。
「あなたに落ち度がないことはわかっています。ですが、ここでは地位や身分のある者が絶対なのです。昨夜、レイブランド子爵はあなたを追いかけて――それから、本当は、何があったのですか」
「隠していることはありません」
「では、昨夜あなたから聞いたことを、もう少し詳細に話してください。追いかけられて、庭園へ誘い込まれたのですね?」
「はい。庭園へ追い立てられて、転んで……動けなくなったので、近くで身を潜めていたんです。そしたらレイブランド子爵が猫なで声で呼びながら探しにきて。その途中で、レイブランド子爵が転んだんです。私自身は見つかりませんでしたが、そのときから、声が剣呑なものになって、暴言を吐きながら戻っていかれました」
リズは、軽く目を見張ったあと、ため息をついた。
「レイブランド子爵は、あなたに怪我をさせられたと訴えていますが。勝手に転んだ、という解釈で合っていますか?」
「はい」
「わたくしはてっきり、あなたがレイブランド子爵を突き飛ばしたのかと。自分で転んでおいて、なんて身勝手な男なのかしら」
リズは頭が痛いといわんばかりに額を押さえて、首を横に振った。
メリアの顔色は益々悪くなる。
悪い予想ほど当たるものだ。昨日の今日で、レイブランド子爵がやってくるなんて、よほど腹に据えかねているに違いない。
「私、行きます。直接会って謝罪をしないと」
「あなたが会ったところで解決するとは思えません」
「ですが、このままでは連帯責任になりかねませんし、もとは私のせいです」
リズは、ちらりとメリアを見て、視線を落とす。
その仕草にメリアは嫌な予感が的中してしまったことを悟ったが、認めたくなくて、震える声でリズに問う。
「既に、子爵が何か……?」
「気にする必要はありません。いくらレイブランド子爵とはいえ、宮廷使用人すべてを解雇など出来はしないのですから」
衝撃に呼吸がつまり、握りしめた拳に力がこもる。
果たしてそうだろうか。本当に不可能なのか。
レイブランド子爵の父は、先代の折に手柄をたて武勲を賜った公爵だという。もし、我が子可愛さに公爵が現王に直談判でもしようものなら、どうなるかわからないのではないか。
「私、レイブランド子爵に謝罪に行きます」
迷いはなかった。
言い終えるまでに、怪我をした足を引きずってベッドから降りる。リズは、やはり気の毒そうな顔をしながら、内心でほっとしている様子が見て取れた。
きっと、レイブランド子爵の怒りは相当なものなのだ。
松葉杖をついて立ち上がると、フィーアが隣に並んで、いつでも支えられるように待機してくれる。
幸い、足は地面につけない限り痛みはなかった。ぶつけないようにしながら、レイブランド子爵が待機しているラウンジへ急いだ。
ラウンジでは、レイブランド子爵が目をつり上げた形相で肘置きつきの一人掛け椅子に座っていた。傍には、彼がいつも連れている従者が二人控えている。
レイブランド子爵はメリアを見つけると、対応していた男性使用人を押しやって、瞳にぎらりとした欲望と怒りを滾らせた。
「ふん、やっと来たか。見ろ、これを」
そう言って、レイブランド子爵が腕を見せる。そこには、何かでひっかけたような傷があった。二センチほどの幅で、僅かに血が滲んだあとが伺える擦り傷に近いものだ。
「お前のせいで、私は大怪我をしたんだ!」
どこをどう見てもメリアのほうが怪我の具合が酷いけれど、そういう問題ではない。ここで、「こいつ馬鹿じゃないのか」といった表情をしたが最後、火に油を注ぐどころか爆発が決定してしまう。
メリアは出来る限りの速さでレイブランド子爵へ歩み寄り、二メートルほど離れた場所で立ち止まった。松葉杖をフィーアに預けて、その場へ跪く。
「申し訳ございません」
「遅いんだよ! ノロノロ歩きやがって!」
怒鳴ると同時に、レイブランド子爵が勢いよく立ち上がる気配がした。フィーアの息を呑む音が聞こえたと思った瞬間、目の前が真っ赤に染まり、世界が揺れた。
気づくと天井を見つめていた。
視界がぐるぐると回っており、その気持ち悪さから吐き気がこみあげてくる。
「……ぁ」
やっとのこと絞り出した声は、くぐもっていて、頬の痛みでうまく顔が動かせない。
(蹴られた、っぽい……痛い)
レイブランド子爵は、メリアの顔面に靴ごと蹴りを入れたのだ。衝撃で脳が揺れて呼吸がままならない。
その衝撃は、顔面に受けた痛みも麻痺してしまうほどに酷いものだった。
「おやめください、子爵」
リズがやんわりと止めにはいるけれど、レイブランド子爵に睨まれて口を噤む。
メリアは床に転がったまま、ゆっくりとレイブランド子爵のほうへ顔を向ける。蹴られた際に真っ赤に染まった視界は徐々に戻り、代わりのように頬の痛みが顕著になっていく。
メリアを蹴ったことで少し落ち着いたのか、レイブランド子爵は嘲笑を浮かべていた。
「このまま蹴り殺してやってもいいんだけどなっ、クソデブが!」
顔が痛い。
目が回る。
ぶつけたらしい足も、激痛でうまく動かせない。
「お前のような平民を相手にしてやってるんだ。それを、私を拒むだと? お前がクズなだけじゃなくて、教育がなってない。宮廷使用人は全員解雇だ!」
宮廷使用人は全員解雇。
その言葉は、痛みで朦朧とするメリアにもはっきりと聞こえた。
「待ってっ、待ってください!」
痛む頭を無理やり動かし、這いずって、なんとか許しを請う。
「私が悪いんです、どうか処罰は私だけに!」
必死に言葉を紡ぐメリアを見下ろして、レイブランド子爵はぎりっと歯を噛みしめた。
メリアの口のから、つつ、と血が伝い落ちる。蹴られたときにどこか切れたらしいが、ジンジンと痛んで感覚がない。
レイブランド子爵が、ゆっくりとメリアの傍へと歩いてきた。
「どうか、どうかご慈悲を!」
「お前ごときに、慈悲だと?」
「わ、私……」
メリアは、必死に頭を動かして――そして、昨夜、ゲオルグに言うように言われた言葉を、告げた。
「婚約者が、いるんです」
もしかしたらレイブランド子爵でも倫理を重んじて、考え直してくれるのではないか。
そんな淡い期待は、一瞬で打ち砕かれた。
「だったらなんだ、売女が! お前ごときが私を馬鹿にして、ただで済むと思うな!」
ヒステリックに叫んだレイブランド子爵が、踵をあげる。
床に這いつくばったメリアからは、右足の靴裏が見えた。薄汚れた灰色の靴裏が、メリアの顔めがけて踏み下ろされて――。
(あ……これ、まずいやつ)
目を閉じることも出来ず、踏み下ろされる踵をただ見つめる。
酷くゆっくりとした時間だった。
突如、踏み下ろされたはずの踵が消えた。
僅かな間のあと、パンパンに膨らんだ豚の腸詰を高い場所から落としたような音が響いた。
「ふごばっ」
続いて、カエルがつぶれたような声がする。
(……え?)
目の前からレイブランド子爵が消えてしまった。
何が起きたのか、理解が追い付かない。
「め、めりあっ!」
呆然としていたメリアは、フィーアに呼ばれてゆっくりと意識を引き戻す。馴染みのある声に誘われるように、顔を向けた瞬間、フィーアとの間に何者かが立ちふさがった。
深緑色のトラウザーズが視界に映る。
「メリア、怪我はないか」
低く心地よい声に、メリアは全身が弛緩するのを感じた。
(……もう、大丈夫)
当たり前のようにそう感じて、ふと笑う。
しゃがみ込んだ軍服姿の男――ゲオルグが、メリアの首の下に腕を差し込んで半身を起こした。
ゲオルグの顔が近くにある。
初めて明るいところで見る彼の表情は、酷く不安げだった。眉は顰められ、瞳は揺れて、結ばれた唇は小さく震えている。
(でも、どうしてここに?)
メリアの疑問を読み取ったように、ゲオルグが口を開いた。
「例の件を進めるために、陛下に許可を取りにいったのだ。そしたら、まずはきみに会わせろと無茶ぶりをされてな。唐突で申し訳ないが、会いにきた」
ゲオルグは、静かに息を吐いた。
「もっと早くくるべきだった。ここ数年、後悔することなどなかった私が、昨夜からこうも後悔に苛まれるとは」
ゴツゴツした軍人らしいゲオルグの手が、メリアの頬に触れる。
途端、痛みで身体が跳ねた。
「っ、すぐに医務室へ連れていく」
「その必要には及ばないよ。すでに医者を呼びに行かせたからね」
ゲオルグがメリアを抱き上げようとした瞬間、第三者の声が割って入った。そのとき、メリアは初めて周辺に集まっている人々が増えていることに気づいた。
リズやフィーア、他の宮廷使用人たちはその場で跪き、メリアを抱き起しているゲオルグがいる他に、騎士副団長ガルーム・ヴィラーが感情を堪えるような無表情で立っている。
その隣に、長い白銀の髪を美しく結い上げた容姿端麗な男が、腕を組んだ不遜な態度でメリアたちを見ていた。
忘れるはずも、間違えるはずもない。
この方こそ、レイゼルゾルト王国のトップにして実権を握るレイゼルゾルト国王、エトヴィン・ブラームス・レイゼルゾルトその人だ。
(ひっ、ひいいいっ、なんで⁉)
夜会でも遠目からしか拝見したことのない麗しい国王が、剣呑な雰囲気を隠しもせずメリアを見据えているのだ。
驚きを通り越して、幻ではないかと現実逃避までしてしまう。
「これは現実だ」
ため息交じりに、ゲオルグが言う。
(グートハイル閣下が私の心を読んだ⁉ やっぱり夢……ううん、閣下なら心くらい読めるのかも)
そんなことを考えるメリアからゲオルグに視線を移したエトヴィンは、長い睫毛に縁どられた怜悧な目を静かに閉じた。
ため息を一つ落とす姿さえ、息を呑むほどに美しい。
とても、十五歳と十三歳の息子がいるとは思えない若々しさだ。
「レイゼルゾルトは貴族社会だ。生まれながらの身分を誇るのは構わない、出自もまた才能同様に、神が授けたものだから。けれど、真に誇れるのは、地位や才能に見合っただけの働きをしたときだと私は考える。……何もしないどころか、権力を振りかざし、私に尽くしてくれる使用人たちを虐げるなど、もってのほか」
滔々と語るエトヴィンの声は、驚くほどによく通る。
国王らしい堂々とした態度で、彼は目を眇めて、別の方角を――カエルがつぶれたような音がした方向を見た。
「レイブランド子爵には相応の処罰を受けてもらおう。とりあえずはフルボッコにしてから、屋敷への謹慎を申し渡す。追って沙汰を待て」
「陛下。すでに団長がやってしまっております」
ガルームが、怒りを堪えた瞳をエトヴィンと同じ方向へ向ける。
エトヴィンは満足そうに頷いた。
「さすが騎士団長。私の望みを汲んでくれるのが早くて助かるよ」
「これは完全なる私怨に思えますがね」
「ならば、止めるかい?」
「いいえ。むしろもっとやればいいと思います」
「同感だよ」
一体何が起きているのか、メリアは質問しようと口を開くけれど、痛みで表情を引きつらせる。
そんなメリアに気づいたゲオルグが、メリアを抱えて、近くのソファに下ろした。足の角度や顔の向きまで、痛みが最小限になるようテキパキと、ゲオルグ自ら手配してくれる。
「あの、ご、ごめんなさい」
「無理にしゃべるな」
ゲオルグがハンカチでメリアの口元を拭う。
(また助けてくれた……あっ)
ハンカチが血に染まったことで、メリアは勢いよく身体を起こした。蹴りつけられた痛みがビキビキと頭にまで響いたが、持ち前の気合で押し殺す。
「申し訳ございません、大切なハンカチをわたくしごときの血で汚してしまっ」
ぺしっ。
額をゲオルグが手のひらで叩いた。
「寝ていろ」
呆れと怒りが含んだ声で低く呟かれて、メリアはヒッと息を呑むと、視線に押されるまま再び寝転がった。
そのとき、老齢の医者が駆けつけてきて、エトヴィンへ跪く。
メリアの見たことがない医者だが、医者の白衣に、蔦と鳥が描かれた腕章を見つけて、彼が王族専用の侍医であることを知る。
蔦と鳥がデザインされた紋章は、現王エトヴィン個人の所有物である証だ。この紋章は軍服の胸飾りにも描かれているため、当然、ゲオルグやガルームも身に着けている。
一方、メリアのお仕着せに描かれている紋章は、王城で仕える者を示す『太陽と鳥』だ。
王族の紋章は不死鳥と決まっているが、王位につくと独自に「何か」と不死鳥を組み合わせ、自分のデザインを作る決まりになっている。
現王エトヴィンは、麗しい見目からは想像がつかないほど地味な『蔦』を選んだ。その謙虚さを美徳と褒め称える者が多い反面、使いやすい蔦のデザインが使用不可となったことに、頭を抱える平民や細工師が多いことをメリアは知っている。
「すまないね、デオ。怪我人を診てほしいんだよ」
「畏まりました。……あの、どちらの方から、診ましょう」
デオと呼ばれた医者は、メリアと、そしてメリアとは別の方向を見て、困惑した表情をした。ソファへ移動したことで、メリアも彼らが気にしていたそちらをばっちりと見てしまう。
先ほどまで威張り散らしていたレイブランド子爵が、床にうつ伏せで倒れている。意識がないようで、周囲には鮮血が飛び散っていた。
どうやら、豚の腸詰が落ちた音とカエルがつぶれたような声は、レイブランド子爵がぶっ飛ばされた際のものだったらしい。
レイブランド子爵のすぐ傍に、背の高い男が立っていた。
背を向けているので顔は見えないが、ゲオルグと同じほどの高身長で深緑の軍服を纏っており、肩に金の紐飾りを幾つも下げるほど身分のある者など決まってくる。
騎士団長、バルバロッサ・ヘリムだ。背中に垂らした灰色の長髪を白いリボンで結んでいる辺りも、彼の特徴と一致している。
「そちらのお嬢さんを見てやってくれ。向こうのは……お前たち」
エトヴィンが声を掛けたのは、レイブランド子爵の傍で怯えて座り込んでいた従者たちだ。主に仕える従者とはいえ、相手が国王では主を庇うわけにはいかないのだろう。いや、元より、レイブランド子爵に心身ともに忠誠を誓った身ではなかったのかもしれない。
「すぐにそれを連れていけ。医者に見せるのは自由だが、謹慎を申し渡した以上、城の医者に対応へ当たらせることを禁じる」
二人の従者は深く頭をさげると、お互いに顔を見合わせて、すぐにレイブランド子爵の肩と足をそれぞれ掴み、荷物のように持ってラウンジを出て行った。
メリアは視線をエトヴィンに向けて、そして、ゲオルグに向けた。
何がどうなっているのだろう。そういえばさっき、ゲオルグは例の件を進めるために、国王へ許可を求めたと言っていた。
例の件とはなんだろうと考えて思い浮かぶことは、一つしかない。
(結婚……の、こと?)
やはり昨夜のことは夢などではなく、メリアは本当に彼から求婚されたのか。
利害のための訳あり結婚とはいえ、本当に妻にしてくれるのか。
そのために、わざわざエトヴィンに許可を求め、ここまで歩みを進めてくれたのか。
メリアのような、ただの使用人のために。
(都合のいい相手なんて、いくらでもいるはずなのに)
昨夜、レイブランド子爵に因縁をつけられたメリアを目撃してしまったがゆえに、ゲオルグはメリアを助けてくれたのだろう。
彼のおかげで、メリアもメリアの大切な同僚たちも無事で済んだ。
王の侍医に診てもらうという贅沢を受けながらも、ゲオルグはメリアの傍にいてくれた。手を強く握り締めていてくれるので、嬉しさや安心などの、ぐちゃぐちゃとした気持ちが胸の奥で渦巻いて、うっすらと涙が滲んでしまう。
「……さて、ゲオルグ。そろそろ紹介してくれないかい?」
エトヴィンの苦笑交じりの言葉に、ゲオルグが心底不快そうに顔を顰めた。
彼はため息を一つ落として立ち上がる。
その際、離れてしまった手が無性に寂しかった。
ゲオルグは露骨に咳払いをすると、ざっと周りを見回してから、はっきりと告げた。
「彼女は、メリア・ヴェーベルン。近々結婚する約束をしている」
ざわっ、とざわめいたのは、騒ぎを聞きつけて集まっていた同僚たちだ。今夜の支度に出向いていた一部の者を除き、侍従長を呼びに行ったアンナも、侍従長もその場にいた。
性別年齢体型身長それぞれ違うのに、皆が一様に、あんぐりと大きく口をひらくものだから、メリアは困ってしまって、そっと目を伏せた。
頬が熱いのは、怪我のせいだと思いたい。
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