不機嫌な先生は、恋人のために謎を解く

如月あこ

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第一章 初恋は実るもの

6-3

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 さっきまで気まずかったのに、そう理解した瞬間、無性に離れるのが惜しくなってきた。
「バンソーコくらいならありますけど。どこか、怪我をしたんですか?」
「……はぁ」
「えっ、なんですか」
 露骨にため息をつかれて、何かまた、叱られるのかと身構える。
 姫島屋先生は、視線を落として、顎をしゃくった。
 視線をたどると、私の手にたどりつく。さっき、ゴミ袋を獲物のように掲げた手だ。
 ド田舎の、かなり間隔をあけて立っている電灯の下で見たところ、私の手の甲に糸がくっついていた。
 毛糸だろうか、黒っぽい。
 変な虫だったら嫌だな、と思いながら手を振り払うけれど、糸は取れなかった。仕方なく反対の手でつまんで取ろうとして、初めてそれがゴミではなく、切り傷だと気づく。
 血がにじんで、糸のように見えていたのだ。
「痛たた」
「遅い! 今の今まで、気づいていなかったのか」
「暗くてよく見えなかったので――」
「暗くて危険な場所へ立ち入ったすえの事故だ、自覚するんだな」
 事故って、そこまで大袈裟な言い方をしなくても。
 でも、一歩間違えばもっと悲惨なことになっていたかもしれないことは、事実だ。私は、ほんの少し不満に思いながらも、はい、と頷いた。
「言っておくが、他意はないし、下心もないからな」
「はい?」
「玄関で待て、救急箱を持ってくる」
 姫島屋先生はそう言うと、さっさと自宅の玄関を押し広げて入って行った。
 このドアが開く所を初めて見た。じゃ、なくて。
 入っていいの? 私が、姫島屋先生の自宅に?
 ごくり、と喉がなる。
 新鮮な思いで、これまで素通りしてきた一戸建て民家の庭を横切り、玄関のドアをくぐった。
 玄関は、我が家と同じく上がり框まで少し高い。靴を履く用なのか、玄関に一脚の折りたたみ椅子が置いてある。傍には、靴ベラもあった。
 靴箱はなく、男性用の靴が四足そろえてある。運動靴、通勤用の靴二足、さらにほかに、外出用だろうかやや高級な靴がある。
 上がり框の手前には、つっかけ草履がきちんとそろえて置いてあった。
 玄関だけでも、姫島屋先生らしい几帳面さが見てとれる。
 ひと気がないと思ってはいたけれど、やはり、姫島屋先生は一人暮らしなのだろうか。
 高校卒業から、十年近くが経った。
 当時、姫島屋先生は独身だったけど、今はどうか、知らない。既婚者で子どもがいてもおかしくはないから、わざと知ろうとしなかった。
「痛むのか」
 奥から、救急箱――ザ、救急箱と言った見た目の箱――をもってきた姫島屋先生は、俯く私をみて、眉間に皴をよせた。
「……いえ、なんでも」
「そうは見えないが。気分が悪くなってきたか」
「大丈夫です」
 姫島屋先生は腑に落ちない様子だったけれど、私を座らせると、てきぱきと手当をはじめた。まるで壊れ物でも扱うように、優しく手に触れられる。
 ふわりと香る、ブラックコーヒーと、アルコールの香り。
 長い指が器用にうごき、私の手の甲の傷を消毒していく。
「先生も、変わりませんね」
 思わず、口からでた。
「どういう意味だ」
「昔と同じ。優しいままです」
 ぴく、と先生の手が、止まる。だがそれも一瞬で、すぐに動き始めた。
「当時のことを、覚えているのか」
「当たり前じゃないですか」
 少しだけ、むっとしたように言う。
 姫島屋先生は、苦笑して、「そうか」と言った。
 そのたった一言で。
 私は、改めて気づいた。
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