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第三章 歩く死体
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翌日の午前中、住所を書いた紙を持ち、沙賀城家の門前で唖然とした。
今日は、家庭訪問という名の様子見で、沙賀城美咲へ会う約束がある。本来なら担任の南野先生がくるところだが、沙賀城美咲に家庭訪問を打診したところ、美咲本人が、私を指名してきたのだ。
今朝出勤したときの、すまなそうな南野先生の言葉を思い出す。
――『いきなりで申し訳ないんですけど、僕の信頼がないせいで』
と、非常に恐縮した様子の年配教員は、私に沙賀城家の住所を渡した。午前中、授業がなかった私は(勿論、ほかの仕事を予定してはいたのだが)、家庭訪問を引き受けた。
美咲の様子、つまりは、元気か気落ちしているか、などを確認するだけでよいとのことだ。
例の失踪事件から、美咲は登校していない。
それが果たして、本人の意志なのか、厳しいという家庭の言いつけなのかはわからないけれど、本人が元気なのならば、とりあえずはよし、ということらしい。
私は、住所の紙を握り締めた。くしゃりと音がする。
立派な門に、恐れおののいている場合ではない。
いくら町奉行所のような立派な玄関であっても、その向こうに玉砂利の敷き詰められた広大な庭が見えていても、教師としての仕事をまっとうしなければ。
武家屋敷のような巨大な家屋にも、現代風のインターホンはついているもので。
インターホンを押すと、聞いたこともないような洒落た音がなり、すぐに「はい、どちらさまでしょうか」と若い女性の声がきこえた。
私が、名前と家庭訪問の旨を告げると、対応は早かった。
インターホンと同じ声の女性が現れて、私を町奉行所のような門をなかへ通すと、ぐるりと左に迂回して、母屋ではなく離れへ案内した。
応接間だろう和室には、檜で出来た足の低い机と座布団が二つ。
案内されるまま応接間に入ると、女性は「こちらでお待ちください」と言って姿を消した。
お手伝いさん、だろうか。
始終、無口かつ無表情だったけれど。
しばらくして、美咲が応接間へ現れた。普段着姿で、やや痩せたように見えるけれど、顔色は悪くないようだ。
私をみて、美咲はかすかに笑みを浮かべた。
「よかった、本当に先生がきてくれたんだ」
「うん、私も会いたかったし」
美咲は向かい側の座布団に腰をおろすと、傍に置いてあった茶器でお茶をいれはじめた。急須の扱いに慣れたもので、茶葉を入れるところから、スムーズに二人分の茶をいれ、片方を私に差し出した。
「ありがとう。あの、さっき案内してくれた女の人は、えっと、家族のひと?」
「若い人?」
「うん、無口な感じの」
「ああ、ササキさん。今のお父さんの愛人だよ」
口にふくんだお茶を噴き出すところだった。なんとか堪えて飲み込むが、けほけほと咳をする。
「表向きは、使用人さんになってるけどね」
「え、ええっと」
「気を使わなくていいよ。うちは、それが普通だから。ほら、今日だって家庭訪問だって言ったのに、お母さん、朝早く出かけちゃったし。今日はお友達と、有名レストランで素敵なランチですって」
「……そうなんだ」
複雑な家庭、というものは、過去にも見てきたけれど。
美咲の家は、絵に描いたような『地位ある人間の家』だ。
平気で愛人を連れ込む父親に、娘の家庭訪問より友達とのランチを優先する母親。どちらも、幼いころから繰り返されているとすると、美咲はさぞつらい家庭環境で育ったといえるだろう。
「それで、何か用なの。先生」
「学校に来てないから、元気かなって思って」
美咲は、くすりと笑った。
「元気だよ。学校はしばらく休むの。お母さんが、もう激オコでね。実をいうと軟禁状態なんだけど」
「えっ」
「いいの、私も今は、学校へ行きたくないから。お姉ちゃんがいてくれるから、寂しくないし」
ほっとした。
ひとりで家に閉じ込められているわけではないようだ。
それに、家庭環境が難しいと思ったけれど、傍にひとりでも味方がいてくれるのなら、美咲はとても救われるだろう。
「お姉さんは、優しい?」
美咲は、表情をほころばせた。
「うん、すごく。お姉ちゃん、すぐ私の心配するの。……いっぱい心配かけちゃったから、もう、心配かけないようにしなきゃ」
「そうだね、うん」
はにかむ美咲を見て、私は胸を撫で下ろした。
彼女は、もう大丈夫だ。
前を向いて、歩いて行ける。
私は、美咲と少しだけ話をしたあと、彼女の自宅をあとにした。
結局、父親も母親も顔を見せなかったけれど、美咲にとっては日常茶飯事なのだろう。どんな家庭もあるし、事情がある。
踏み込むべき問題もあるが、今回は、そっと見守ろう。
学校へ戻ると、職員室へ入る前に南野先生とばったり会った。沙賀城家の現状と、美咲の様子を報告する。南野先生は、厳しい顔をしたが、美咲が元気である件についてはよかったと笑みをみせた。
今日は、家庭訪問という名の様子見で、沙賀城美咲へ会う約束がある。本来なら担任の南野先生がくるところだが、沙賀城美咲に家庭訪問を打診したところ、美咲本人が、私を指名してきたのだ。
今朝出勤したときの、すまなそうな南野先生の言葉を思い出す。
――『いきなりで申し訳ないんですけど、僕の信頼がないせいで』
と、非常に恐縮した様子の年配教員は、私に沙賀城家の住所を渡した。午前中、授業がなかった私は(勿論、ほかの仕事を予定してはいたのだが)、家庭訪問を引き受けた。
美咲の様子、つまりは、元気か気落ちしているか、などを確認するだけでよいとのことだ。
例の失踪事件から、美咲は登校していない。
それが果たして、本人の意志なのか、厳しいという家庭の言いつけなのかはわからないけれど、本人が元気なのならば、とりあえずはよし、ということらしい。
私は、住所の紙を握り締めた。くしゃりと音がする。
立派な門に、恐れおののいている場合ではない。
いくら町奉行所のような立派な玄関であっても、その向こうに玉砂利の敷き詰められた広大な庭が見えていても、教師としての仕事をまっとうしなければ。
武家屋敷のような巨大な家屋にも、現代風のインターホンはついているもので。
インターホンを押すと、聞いたこともないような洒落た音がなり、すぐに「はい、どちらさまでしょうか」と若い女性の声がきこえた。
私が、名前と家庭訪問の旨を告げると、対応は早かった。
インターホンと同じ声の女性が現れて、私を町奉行所のような門をなかへ通すと、ぐるりと左に迂回して、母屋ではなく離れへ案内した。
応接間だろう和室には、檜で出来た足の低い机と座布団が二つ。
案内されるまま応接間に入ると、女性は「こちらでお待ちください」と言って姿を消した。
お手伝いさん、だろうか。
始終、無口かつ無表情だったけれど。
しばらくして、美咲が応接間へ現れた。普段着姿で、やや痩せたように見えるけれど、顔色は悪くないようだ。
私をみて、美咲はかすかに笑みを浮かべた。
「よかった、本当に先生がきてくれたんだ」
「うん、私も会いたかったし」
美咲は向かい側の座布団に腰をおろすと、傍に置いてあった茶器でお茶をいれはじめた。急須の扱いに慣れたもので、茶葉を入れるところから、スムーズに二人分の茶をいれ、片方を私に差し出した。
「ありがとう。あの、さっき案内してくれた女の人は、えっと、家族のひと?」
「若い人?」
「うん、無口な感じの」
「ああ、ササキさん。今のお父さんの愛人だよ」
口にふくんだお茶を噴き出すところだった。なんとか堪えて飲み込むが、けほけほと咳をする。
「表向きは、使用人さんになってるけどね」
「え、ええっと」
「気を使わなくていいよ。うちは、それが普通だから。ほら、今日だって家庭訪問だって言ったのに、お母さん、朝早く出かけちゃったし。今日はお友達と、有名レストランで素敵なランチですって」
「……そうなんだ」
複雑な家庭、というものは、過去にも見てきたけれど。
美咲の家は、絵に描いたような『地位ある人間の家』だ。
平気で愛人を連れ込む父親に、娘の家庭訪問より友達とのランチを優先する母親。どちらも、幼いころから繰り返されているとすると、美咲はさぞつらい家庭環境で育ったといえるだろう。
「それで、何か用なの。先生」
「学校に来てないから、元気かなって思って」
美咲は、くすりと笑った。
「元気だよ。学校はしばらく休むの。お母さんが、もう激オコでね。実をいうと軟禁状態なんだけど」
「えっ」
「いいの、私も今は、学校へ行きたくないから。お姉ちゃんがいてくれるから、寂しくないし」
ほっとした。
ひとりで家に閉じ込められているわけではないようだ。
それに、家庭環境が難しいと思ったけれど、傍にひとりでも味方がいてくれるのなら、美咲はとても救われるだろう。
「お姉さんは、優しい?」
美咲は、表情をほころばせた。
「うん、すごく。お姉ちゃん、すぐ私の心配するの。……いっぱい心配かけちゃったから、もう、心配かけないようにしなきゃ」
「そうだね、うん」
はにかむ美咲を見て、私は胸を撫で下ろした。
彼女は、もう大丈夫だ。
前を向いて、歩いて行ける。
私は、美咲と少しだけ話をしたあと、彼女の自宅をあとにした。
結局、父親も母親も顔を見せなかったけれど、美咲にとっては日常茶飯事なのだろう。どんな家庭もあるし、事情がある。
踏み込むべき問題もあるが、今回は、そっと見守ろう。
学校へ戻ると、職員室へ入る前に南野先生とばったり会った。沙賀城家の現状と、美咲の様子を報告する。南野先生は、厳しい顔をしたが、美咲が元気である件についてはよかったと笑みをみせた。
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