上 下
3 / 106
第一章

三、

しおりを挟む
「妖怪と友達になりたいとかいう話でしたら、結構です。いいですか、羽柴さん。妖怪という個人は存在しません。先人たちが、信仰を『妖怪』という名前で表現したに過ぎません。いいですか、羽柴さん。妖怪が人型をしたり生き物として姿を得たのは、絵巻物に空想の生き物として描かれたからです。……いいですか、羽柴さん」
 にっこり、と笑みを浮かべたまま「いいですか、羽柴さん」と繰り返す神田教授に、執務室にいた櫻井助手やゼミの生徒が、ひっと声をあげる。
「でも、教授。実際に見たという人もいるんです。例えば、小豆洗いとか――」
「わわ、羽柴さん! 残りの資料が急に必要になったから、先に頼めるかなっ」
 なぜか慌てた様子の櫻井にぐいぐいと肩を押されて、強引に執務室から出る羽目になる。ぱたんとドアを閉めてから、櫻井は盛大にため息をついた。
「何度も教授に同じことを言わせないでよ。ただでさえ、忙しいときなんだから」
「す、すみません。じゃあ、また改めてお話させてもらいますね」
「いや、そういうことじゃなくて。……きみさ、本当に妖怪が存在して、友達になれると思ってるの?」
 心底疑わし気な櫻井の胸中は、麻野にはわからない。麻野の言葉を疑っているのか、麻野を疑っているのか、それとも妖怪の存在を信じていないのか。
 どれにしても、麻野の返事は決まっていた。
「もちろんです。妖怪は本当にいて、友達になれるってことを証明してみせますよ! じゃ、残りの資料を持ってきますね」
 鼻歌を歌いながら、図書室へ戻る麻野。
 そんな麻野の後姿を見送った櫻井は、また、盛大なため息を落とす。
 そうやって真っ直ぐにぶつかってくるから、神田教授にいいように利用されるのだ。資料の貸し出しが終われば、昨日使ったままになっている別の資料の整理や、講義用に準備された資料印刷という雑用が待っている。
 神田教授の助手になって、三年。温和で柔和に見える神田教授が、実は人使いの荒い自己中心的な大人であると知っている櫻井は、この大学のこの専攻へ属した羽柴麻野を、憐れんだ。
 もっと上手に生きればいいのに、と櫻井は思う。
 羽柴麻野は、どこまでも真っ直ぐで素直で、放っておけないと思わせる愛嬌があるけれど。神田教授のような悪い大人には、どこまでも利用される「奴隷生徒」になるのだ。
 せめてこれ以上利用されないようにと、櫻井はじめ、ゼミの生徒が麻野と相手の間に入るようにしている。先ほども、あれ以上詰め寄っていたら、神田教授はまた無理難題を出しただろう。麻野はそれに飛びついて、必死に難題をこなそうとするはずだ。
「……まぁ、見えるところなら、助けてやれるけど」
 大学は広い。そして悲しきかな、ある特出した分野を研究する人間には、変わり者ないし自己中心的な人間が多い、というのが櫻井の見解だ。つまり、人が良すぎる人間を利用しようとするやつなんて、この大学には大勢いる。
 これ以上、麻野を利用するあくどい人間が増えませんように。
 櫻井は、自らが助手を務める神田教授の微笑みを思い浮かべながら、そっと息をついた。
しおりを挟む

処理中です...