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第三章

十九、

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 その日は、大江山の麓付近にある簡易ホテルに泊まることになった。
 森で迷子になった麻野を気遣ってか、新居崎はあえて、シングルダブルの部屋をとり、今夜も同じ部屋で寝泊まりすることになる。
 ホテルのフロントで、ボーイをやり取りをしている新居崎の声を聞きながら、久しぶりに新居崎の声を聞いたような気がした。
 下山は、予想していたより過酷だった。道がないため、直進で下山しようとしたが、途中で崖やら川やらがあって通れないことも暫しあり、結局、元の大江山の下山ルートに合流すしたのち、日が暮れかけたころに麓まで下りてくることができた。
 下山する途中も、下山してからも、お互いに無言だったのは、気力がなかったからだ。とにかく休みたい。足は重いし、汗で気持ち悪いし、気を抜くと寝てしまいそうになるほどだった。
 ホテルの部屋へつくと、順番に軽くシャワーを浴びて浴衣に着替えた。部屋に入ってすぐにつけたエアコンがきいてきた部屋で、麻野も新居崎も、それぞれのベッドに倒れ込む。
「……ありがとうございます」
 やっと言葉を絞り出したのは、安心感が身体を満たしたからだ。
 遭難から免れ、身体の疲弊も回復しつつ、温度の整った部屋で寝転がることができる。なんと至福なひとときだろう。
 このまま、重力に任せるまま瞼を閉じれば、心地よい眠りに落ちるだろう。早く眠ってしまいたい。あの女の鬼のことや、乗れずじまいになった新幹線とか、明日の帰宅についてとか、考えなければならないことは、後回しにして。
「麻野」
「なんですか」
 新居崎が、うつ伏せで寝ころんだまま、麻野のほうを向いた。一方の麻野は仰向けに寝転んでいて、同じように顔を新居崎に向ける。
「さっきの女は、なんだ」
――あ、きた
 森で出会ってから、新居崎は、あの女について触れなかった。最初は誘拐犯だとか色々と考えたに違いないが、今思うと、不自然なことがありすぎる。麻野の位置情報が一瞬で変わったこと、深い森のなかに草履と浴衣姿の女がたった一人でいたこと、など。
「……鬼だって言ってましたよ」
「きみが信じていると言う、酒呑童子の仲間か」
「酒呑童子の居場所を知りたがってたんで、知り合いだとは思います」
「あの女は、酒呑童子の居場所を聞くために、きみを誘拐したというんだな? 仮に……仮に、だ。きみの言葉がすべて真実だとしよう。真実だと言うことを前提に、聞くことにする。だから、何が起きたのか説明しろ……可能ならば」
 どことなく、遠慮がちな言葉だった。
 麻野は、少しだけ笑う。不器用な優しさが感じられる。本当に優しい人なのだろうと改めて思い、心を温かくした。
「私から、酒呑童子の匂いがしたそうです」
「匂い?」
「小さいころ酒呑童子に出会ったときに、匂いをつけてもらったんです。婚約指輪や犬のマーキングみたいなものらしくて」
「その比喩には、かなりの差があると思うがな」
「……で、あの鬼は、酒呑童子の居場所を教えろと私に迫ってきたんです」
 あの女の姿を、脳裏に浮かべる。ぞっとするほど美しい女だ。そして、着物を着ていた。やや古めかしい無地の着物で、麻野の記憶が正しければ、室町時代に頻繁に使用された生地だろう。
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