一途な執愛に囚われて

樋口萌

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夢じゃなかった

五話

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五話





 
 ベッドから落ちた、と思わせるほどの頭痛で目が覚めた。起き上がろうと思えばなんとか身体を起こすことができるが、今動けば痛みが酷くなりそうだと眩しい朝日をさえぎるように手を目元に置く。二度寝をするか、一時間くらいじっとしておけば治るだろうと目をつぶる。
 しかし、なんだか肌がぞわぞわとして仕方がない。
 上半身裸だからだろうと一番最初はそう思い浮かんだ。けれどこの感覚は、神経質的なもののようでチクチクと刺さる。
 そばに人がいる感覚だ。
 蓮は勢いよく起き上がり、ベッドから降りた。それから反対側に行き、ふっくらと雪玉のようになっている布団をそっとめくった。
 ヒュッと息を切る。
 震える手で口許を押さえながら目を逸らした。しかし、その先で自分から脱いだであろう服が散らばっており、頭を抱えた。寝ぼけてたのかようやく勘違いだったと思い出す。
 改めて昨日家に入れた男の顔をじっくりと見る。はっきりと見るのは初めてだ。
 蓮は一度その場で彷徨さまよい、もう一度見た。
「まじでそっくりだな」
 弟に似て鼻筋が通る整った顔だ、と驚きを通り越して笑えてきたのか口が緩む。そのまま手を伸ばし、ゆらゆらと今にも揺れそうな髪を撫でた。思っていたよりふわふわだった。もともとパーマをしているのかそれとも寝癖か、ぴょん、とはねている。そこを撫でてもぴょん、とまた元に戻る。
 かわいいなと構う手を止められなかった。
 優しそうな印象だったが、こうしてみると目が釣り上がっていて、口も大きい。
 そういえばキスも上手かったしな、と自然に出てきた言葉に顔が熱くなった。
 別の話題でも考えようと首を振るった。その時鎖骨あたりに赤い印が見え、急激に服を着たくなった。
 起き上がったときに身体が痛まなかったなと不思議に思いつつ、そこまでの記憶がないことに嫌な汗が出る。キスだけしてまさか俺が寝落ちたとか。いや、ありえるかも…。もしくは吐いた可能性もあると失態を侵したかもしれないと胸が騒めく。
 うろうろとし始め、気を紛らわせようと落ちていた服を着た。
 そういえば今何時だと時計を見ると、七時半だった。
「確か、学生じゃなかったか? こいつ」
 朝は何時からか知らないが、起こさないとまずいかもしれない。それに、謝らなければいけないと布団を半分までめくった。
 肩を叩こうと目に入ったのは、学生の割に鍛えられた身体と小さな黒子だった。
 鎖骨に、黒子。
「晴、と全く、一緒…」
 動かした舌に潤いがなくなっていく。喉が、痛い。
 蓮はその場にへなへなと座り込んでしまう。
 もう八年も経って、一度も会っていない。けれど、身体の特徴というものは覚えているものだ。全く一緒の人間なんてドッペルゲンガーぐらいだ。蓮はもう一度隅々すみずみまで身体を見渡す。何度見ても黒子の位置は変わらない。
 人より大きめの耳。綺麗な桃色の唇。意外と長い睫毛。
 まさか本物の、晴、なのか。
 蓮は真っ白な顔をして後ずさる。震えている手が止まらず、一人だけ真冬を過ごしているようだった。  
「兄さん…?」
 びくり、とその声に肩が外れそうなほど飛び跳ねた。急激に体温が下がり、顔面蒼白になる。心をむしばむ底深い虚に似た闇が視界を全て覆う。
 怖い。
「ふぁ……おはよう」
 なにもなかったかのように話しかける晴。呑気に欠伸あくびをして、背伸びをしているようだ。
 蓮はまともに目を合わせられず、床に崩れたままうつむいていた。
 顔を見ることも、話すこともできない。
 また、拒絶されたら──。
「お~い、挨拶ぐらい返してよ」
 罵声ばせいを浴びせられると思ったら、返ってきたのは穏やかな声だった。
 心臓が痛い。ギリギリと擦られるような感覚に、ばくばくと破裂しそうな脈。声を出すのも怖い。けれど、悪いのは俺だ。
 全部、俺だ。
「は、晴で、合ってる?」
「えっ、弟の顔忘れちゃったわけ?」
「そうじゃない。あ、いや…一応確認だ」
「ほんと? なんか嘘くさいな」
「…少し疑ったよ。それに関しては悪かった。おまえがいい男に成長して驚いてんだよ」
 嘘はついていない。昔のおまえは笑うとかわいい奴でなにより小さかった。それが今では引き締まった身体に俺を超えた長身。成長しすぎていて、がらがらと音を立てて昔の晴が消えていく。
「変わりすぎるぐらい成長してるってことか。でもその割にはこっち見てくれないじゃん」
 図星ずぼしを突かれ、身体が一瞬だけ揺れた。
 言えるわけがない。怖くて見れないなんて。おまえの、あの泣いた顔が忘れられない。逸らされた横顔が今もべっとりと脳内に焼き付いている。今見たら、同じような顔をして見下しているんじゃないかと思うと目をえぐりたくなる。
 きっと哀れんでる。まだ男が好きなんだと。
 きっと怒ってる。散々迷惑かけたのに懲りないのかと。
 晴とはただ昔のように笑い合っていたいだけなのに——と蓮の頭の中で沈痛ちんつうな声が叫ぶ
 花を折らす行為は、かえって自分を苦しめた。だから二度と間違えてはいけない。
 そうしないともう取り返しがつかない。
「……眩しくて」
 馬鹿だ。
 見え透いた嘘ばっかりだと自分でもわかっている。けれど、それだけ俺はおまえを見るのが怖いんだ。
「ならこれなら見えるでしょ」
 晴はベッドから降りると一緒に床に座り込んだ。そうして俺の長い前髪を掻きわけ、頬に手を寄せて微笑んでいた。
 太陽に挨拶するためカーテンを開くように。
「兄さんは変わらずだね」
 変わってないやと子犬のように笑った。
 目を逸らせられなかった。とっくに晴の手は緩まり、振り切ろうと思えばできたはずだ。けれどそうしなかった。いや、できなかった。
 久しぶりに見た晴の笑顔に、泣きそうになったからだ。ようやく実感が湧いてきた。ここにいるのは俺の弟だと。
「うるせぇ」
 軽口を叩いて、自分の気持ちに知らぬふりをした。また昔のように、告げなかったあの頃に戻ればいい。大丈夫。晴は優しい子でものわかりもいい。会いたくなければわざわざここに来ない。
 蓮は希望的観測で今の状況を飲み込んだ。
(大丈夫、大丈夫)
 瓶の中に想いを閉じ込め、海の中へ放り投げる。
 きっと俺がぼろを出さなければ上手くいくはずだと、このときの俺は昔の面影おもかげに縋っていただけだった。
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