ぬらりひょんのぼんくら嫁〜虐げられし少女はハイカラ料理で福をよぶ〜

蒼真まこ

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第一章 はじまりとほくほくコロッケ

さちと父

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 次の日の早朝、さちは実の父である壱郎に呼び出された。使用人たちがまだ眠っている時刻に、さちだけをひっそりと呼んだのだ。

(旦那様、どうしたのかしら。私を呼ぶときは昼間だけなのに)

 その日はさちの十七歳の誕生日。ほんのわずかだけ、期待に胸をふくらませてしまう。

「旦那様、さちでございます」

 壱郎の書斎の前で、自分が来たことを小声で告げた。

「さち、来たか。音を立てないよう、静かに入りなさい」
「失礼致します」

 書斎の扉を開けると、朝日を浴びた壱郎がさちを待っていた。朝の光が眩しいせいか、壱郎の顔がいつになく優しく感じられた。

「さち、こちらへ来なさい」
「は、はい」

 戸惑いながら、父である壱郎の近くに歩み寄る。

「大きくなったな、さち。いくつになった?」

 さちの目の前に立った壱郎は、さちをじっと見つめている。

「今日で十七歳になりました」
「そうか、十七か。もう小さな子どもではないのだな」


 さちを見る壱郎の視線は、宝物を愛おしむように温かく感じられた。愛娘を思う父の姿のように思えて、さちはつい、「お父様」と呼びたくなってしまった。

(一度だけ、一度でいいから、お父様とお呼びしたい)

 さちが父と呼ぶよりも前に、壱郎が冷ややかに告げた。

「今日で十七になったのならば、おまえの嫁入りの時がやってきたということだ。さち、役目はわかっているな?」

 壱郎はさちの誕生日を祝うつもりなど、まるでなかった。十七歳になった日に呼び出したのは、嫁入りを告げるためだったのだ。壱郎にとってさちは娘であるよりも前に、蓉子の身代わりでしかないという現実を突きつけられた気がした。目に涙がにじんでくるのを感じ、さちは慌てて顔を下に向けた。指先で涙を拭い取ると、懸命に笑顔を浮かべながら顔をあげる。ぎこちない微笑みだったが、今のさちができる精一杯の笑顔だった。

「はい、旦那様。さちは蓉子様の身代わりです。あやかしの総大将である、ぬらりひょん様に嫁入りし、この身を喰らってもらうのが定めです。全ては九桜院家の繁栄のため。さちは喜んでこの身を捧げます」

 誰も祝ってくれない誕生日を迎えたさちは、父である壱郎からついに、ぬらりひょんへの嫁入りを告げられた。

「その通りだ。さち、おまえの役目を忘れるな」
「はい、旦那様」
 
 それはこの世に生を受けた、さちの儚き運命。幼き頃より父と姉からくり返し教え込まれ、疑うこともできない少女には、逃げ出すという選択肢さえ考えられないことだった。

「大切なお姉様のためですもの。がんばらなくては」

 いよいよ役目を果たす時がきたと、さちは震える体で自らを奮い立たせた。



 嫁入りの期日が決まったさちは、女中部屋から秘かに別邸へと移された。数人の家庭教師をつけ、最低限の礼儀作法をたたき込まれる。体の寸法に合わせて白無垢の花嫁衣装が用意され、袖を通したさちは、鏡に映る自分の姿に無邪気な笑顔を見せる。

「なんて上等な白無垢かしら。私は花嫁になるのだわ」

 鏡に映る白無垢姿の花嫁は、かすかに震えていた。疑問をもたぬとはいえ、あやかしに喰われる運命に恐怖を感じぬはずがない。

「さち、いいこと。私は蓉子お姉様をお守りするのよ」

 ただひとり自分に優しくしてくれる姉の蓉子の身代わりとなる。それが定めなのだ。さちは震える手で自らの体をさすり続ける。 

 最後に姉との面会を父である壱郎に求めたが、あっさり断れてしまった。

「だめだ。蓉子は婿を迎えて九桜院家を受け継ぐという大事な役目がある。すでに話も決まりつつあるのだ。つまり隠し子である、おまえとはなんの関係もないのだ。おまえは黙ってわたしの命令に従っておれば良い」
「はい、旦那様……」

 蓉子はさちが別邸にいることさえ知らぬという。

 花のようにあでやかで美しく、しとやかで優しい大好きな姉。蓉子のためならば、この身を犠牲にしようとかまわない。さちは心はそう思っていた。さちにとって姉の蓉子は、それほど大切な存在だった。
 ふと視線を感じた。父の壱郎が、さちをじっと見つめているのだ。その眼差しは、これまでの厳しい視線とは何かが違っていた。一度も見たことのない父の様子に、さちも疑問に思った。

「旦那様?」

 さちの言葉に、壱郎は我に返ったように厳しい視線に戻ってしまった。

「さち、おまえは良い花嫁となるはずだ。何も考えず、ぬらりひょん様の元へ行くのだ。さぁ、もう行くがいい。わたしも屋敷に戻る」
「あっ、旦那様」

 別れの言葉を伝える間もなく、壱郎は背を向けて行ってしまった。

「最後に一度だけ、『お父様』とお呼びしたかったのに……」

 父と呼べない父親であっても、さちにとっては、たったひとりの父親だ。最後の言葉だけでも伝えたかった。目頭が熱くなってくるのを感じ、さちは慌てて顔を振る。

「大丈夫、いつものように笑っていよう。あやかしに喰われたら、天にいらっしゃる母様にお会いできるかもしれないもの」

 にっこりと無邪気に笑ったさちは、ようやく落ち着くことができた。



 人力車に乗ることになったさちは、カラコロと揺れながら、ぬらりひょんの屋敷まで連れていかれた。人力車をひく車夫は壱郎を乗せて、ぬらりひょんの屋敷に何度か行ったことがあるという。
 ぬらりひょんの屋敷は、九桜院家の離れほどの大きさであったが、落ち着いた佇まいだった。

「ではあっしはこれで。さちお嬢様、お達者で」

 車夫は愛想なく告げると、逃げるように去っていった。

「いってしまったわ」

 改めて、ぬらりひょんの屋敷を見上げてみた。豪奢でもなく、簡素でもない造りは不思議な落ち着きがあった。

(なんだか、不思議なお屋敷ね)

 たったひとりの花嫁となったさちは、慣れぬ花嫁衣装を引きずりながら、屋敷の戸を叩く。

「ごめんくださいませ。九桜院さちでございます。こちらお嫁に参りました。ごめんくださいませ!」

 こうしてさちはたったひとりで、ぬらりひょんの元にやってきた。ひとりぼっちの花嫁となった少女の数奇な運命が今始まる。
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