4 / 44
第一章 はじまりとほくほくコロッケ
さちと父
しおりを挟む
次の日の早朝、さちは実の父である壱郎に呼び出された。使用人たちがまだ眠っている時刻に、さちだけをひっそりと呼んだのだ。
(旦那様、どうしたのかしら。私を呼ぶときは昼間だけなのに)
その日はさちの十七歳の誕生日。ほんのわずかだけ、期待に胸をふくらませてしまう。
「旦那様、さちでございます」
壱郎の書斎の前で、自分が来たことを小声で告げた。
「さち、来たか。音を立てないよう、静かに入りなさい」
「失礼致します」
書斎の扉を開けると、朝日を浴びた壱郎がさちを待っていた。朝の光が眩しいせいか、壱郎の顔がいつになく優しく感じられた。
「さち、こちらへ来なさい」
「は、はい」
戸惑いながら、父である壱郎の近くに歩み寄る。
「大きくなったな、さち。いくつになった?」
さちの目の前に立った壱郎は、さちをじっと見つめている。
「今日で十七歳になりました」
「そうか、十七か。もう小さな子どもではないのだな」
さちを見る壱郎の視線は、宝物を愛おしむように温かく感じられた。愛娘を思う父の姿のように思えて、さちはつい、「お父様」と呼びたくなってしまった。
(一度だけ、一度でいいから、お父様とお呼びしたい)
さちが父と呼ぶよりも前に、壱郎が冷ややかに告げた。
「今日で十七になったのならば、おまえの嫁入りの時がやってきたということだ。さち、役目はわかっているな?」
壱郎はさちの誕生日を祝うつもりなど、まるでなかった。十七歳になった日に呼び出したのは、嫁入りを告げるためだったのだ。壱郎にとってさちは娘であるよりも前に、蓉子の身代わりでしかないという現実を突きつけられた気がした。目に涙がにじんでくるのを感じ、さちは慌てて顔を下に向けた。指先で涙を拭い取ると、懸命に笑顔を浮かべながら顔をあげる。ぎこちない微笑みだったが、今のさちができる精一杯の笑顔だった。
「はい、旦那様。さちは蓉子様の身代わりです。あやかしの総大将である、ぬらりひょん様に嫁入りし、この身を喰らってもらうのが定めです。全ては九桜院家の繁栄のため。さちは喜んでこの身を捧げます」
誰も祝ってくれない誕生日を迎えたさちは、父である壱郎からついに、ぬらりひょんへの嫁入りを告げられた。
「その通りだ。さち、おまえの役目を忘れるな」
「はい、旦那様」
それはこの世に生を受けた、さちの儚き運命。幼き頃より父と姉からくり返し教え込まれ、疑うこともできない少女には、逃げ出すという選択肢さえ考えられないことだった。
「大切なお姉様のためですもの。がんばらなくては」
いよいよ役目を果たす時がきたと、さちは震える体で自らを奮い立たせた。
嫁入りの期日が決まったさちは、女中部屋から秘かに別邸へと移された。数人の家庭教師をつけ、最低限の礼儀作法をたたき込まれる。体の寸法に合わせて白無垢の花嫁衣装が用意され、袖を通したさちは、鏡に映る自分の姿に無邪気な笑顔を見せる。
「なんて上等な白無垢かしら。私は花嫁になるのだわ」
鏡に映る白無垢姿の花嫁は、かすかに震えていた。疑問をもたぬとはいえ、あやかしに喰われる運命に恐怖を感じぬはずがない。
「さち、いいこと。私は蓉子お姉様をお守りするのよ」
ただひとり自分に優しくしてくれる姉の蓉子の身代わりとなる。それが定めなのだ。さちは震える手で自らの体をさすり続ける。
最後に姉との面会を父である壱郎に求めたが、あっさり断れてしまった。
「だめだ。蓉子は婿を迎えて九桜院家を受け継ぐという大事な役目がある。すでに話も決まりつつあるのだ。つまり隠し子である、おまえとはなんの関係もないのだ。おまえは黙ってわたしの命令に従っておれば良い」
「はい、旦那様……」
蓉子はさちが別邸にいることさえ知らぬという。
花のようにあでやかで美しく、しとやかで優しい大好きな姉。蓉子のためならば、この身を犠牲にしようとかまわない。さちは心はそう思っていた。さちにとって姉の蓉子は、それほど大切な存在だった。
ふと視線を感じた。父の壱郎が、さちをじっと見つめているのだ。その眼差しは、これまでの厳しい視線とは何かが違っていた。一度も見たことのない父の様子に、さちも疑問に思った。
「旦那様?」
さちの言葉に、壱郎は我に返ったように厳しい視線に戻ってしまった。
「さち、おまえは良い花嫁となるはずだ。何も考えず、ぬらりひょん様の元へ行くのだ。さぁ、もう行くがいい。わたしも屋敷に戻る」
「あっ、旦那様」
別れの言葉を伝える間もなく、壱郎は背を向けて行ってしまった。
「最後に一度だけ、『お父様』とお呼びしたかったのに……」
父と呼べない父親であっても、さちにとっては、たったひとりの父親だ。最後の言葉だけでも伝えたかった。目頭が熱くなってくるのを感じ、さちは慌てて顔を振る。
「大丈夫、いつものように笑っていよう。あやかしに喰われたら、天にいらっしゃる母様にお会いできるかもしれないもの」
にっこりと無邪気に笑ったさちは、ようやく落ち着くことができた。
人力車に乗ることになったさちは、カラコロと揺れながら、ぬらりひょんの屋敷まで連れていかれた。人力車をひく車夫は壱郎を乗せて、ぬらりひょんの屋敷に何度か行ったことがあるという。
ぬらりひょんの屋敷は、九桜院家の離れほどの大きさであったが、落ち着いた佇まいだった。
「ではあっしはこれで。さちお嬢様、お達者で」
車夫は愛想なく告げると、逃げるように去っていった。
「いってしまったわ」
改めて、ぬらりひょんの屋敷を見上げてみた。豪奢でもなく、簡素でもない造りは不思議な落ち着きがあった。
(なんだか、不思議なお屋敷ね)
たったひとりの花嫁となったさちは、慣れぬ花嫁衣装を引きずりながら、屋敷の戸を叩く。
「ごめんくださいませ。九桜院さちでございます。こちらお嫁に参りました。ごめんくださいませ!」
こうしてさちはたったひとりで、ぬらりひょんの元にやってきた。ひとりぼっちの花嫁となった少女の数奇な運命が今始まる。
(旦那様、どうしたのかしら。私を呼ぶときは昼間だけなのに)
その日はさちの十七歳の誕生日。ほんのわずかだけ、期待に胸をふくらませてしまう。
「旦那様、さちでございます」
壱郎の書斎の前で、自分が来たことを小声で告げた。
「さち、来たか。音を立てないよう、静かに入りなさい」
「失礼致します」
書斎の扉を開けると、朝日を浴びた壱郎がさちを待っていた。朝の光が眩しいせいか、壱郎の顔がいつになく優しく感じられた。
「さち、こちらへ来なさい」
「は、はい」
戸惑いながら、父である壱郎の近くに歩み寄る。
「大きくなったな、さち。いくつになった?」
さちの目の前に立った壱郎は、さちをじっと見つめている。
「今日で十七歳になりました」
「そうか、十七か。もう小さな子どもではないのだな」
さちを見る壱郎の視線は、宝物を愛おしむように温かく感じられた。愛娘を思う父の姿のように思えて、さちはつい、「お父様」と呼びたくなってしまった。
(一度だけ、一度でいいから、お父様とお呼びしたい)
さちが父と呼ぶよりも前に、壱郎が冷ややかに告げた。
「今日で十七になったのならば、おまえの嫁入りの時がやってきたということだ。さち、役目はわかっているな?」
壱郎はさちの誕生日を祝うつもりなど、まるでなかった。十七歳になった日に呼び出したのは、嫁入りを告げるためだったのだ。壱郎にとってさちは娘であるよりも前に、蓉子の身代わりでしかないという現実を突きつけられた気がした。目に涙がにじんでくるのを感じ、さちは慌てて顔を下に向けた。指先で涙を拭い取ると、懸命に笑顔を浮かべながら顔をあげる。ぎこちない微笑みだったが、今のさちができる精一杯の笑顔だった。
「はい、旦那様。さちは蓉子様の身代わりです。あやかしの総大将である、ぬらりひょん様に嫁入りし、この身を喰らってもらうのが定めです。全ては九桜院家の繁栄のため。さちは喜んでこの身を捧げます」
誰も祝ってくれない誕生日を迎えたさちは、父である壱郎からついに、ぬらりひょんへの嫁入りを告げられた。
「その通りだ。さち、おまえの役目を忘れるな」
「はい、旦那様」
それはこの世に生を受けた、さちの儚き運命。幼き頃より父と姉からくり返し教え込まれ、疑うこともできない少女には、逃げ出すという選択肢さえ考えられないことだった。
「大切なお姉様のためですもの。がんばらなくては」
いよいよ役目を果たす時がきたと、さちは震える体で自らを奮い立たせた。
嫁入りの期日が決まったさちは、女中部屋から秘かに別邸へと移された。数人の家庭教師をつけ、最低限の礼儀作法をたたき込まれる。体の寸法に合わせて白無垢の花嫁衣装が用意され、袖を通したさちは、鏡に映る自分の姿に無邪気な笑顔を見せる。
「なんて上等な白無垢かしら。私は花嫁になるのだわ」
鏡に映る白無垢姿の花嫁は、かすかに震えていた。疑問をもたぬとはいえ、あやかしに喰われる運命に恐怖を感じぬはずがない。
「さち、いいこと。私は蓉子お姉様をお守りするのよ」
ただひとり自分に優しくしてくれる姉の蓉子の身代わりとなる。それが定めなのだ。さちは震える手で自らの体をさすり続ける。
最後に姉との面会を父である壱郎に求めたが、あっさり断れてしまった。
「だめだ。蓉子は婿を迎えて九桜院家を受け継ぐという大事な役目がある。すでに話も決まりつつあるのだ。つまり隠し子である、おまえとはなんの関係もないのだ。おまえは黙ってわたしの命令に従っておれば良い」
「はい、旦那様……」
蓉子はさちが別邸にいることさえ知らぬという。
花のようにあでやかで美しく、しとやかで優しい大好きな姉。蓉子のためならば、この身を犠牲にしようとかまわない。さちは心はそう思っていた。さちにとって姉の蓉子は、それほど大切な存在だった。
ふと視線を感じた。父の壱郎が、さちをじっと見つめているのだ。その眼差しは、これまでの厳しい視線とは何かが違っていた。一度も見たことのない父の様子に、さちも疑問に思った。
「旦那様?」
さちの言葉に、壱郎は我に返ったように厳しい視線に戻ってしまった。
「さち、おまえは良い花嫁となるはずだ。何も考えず、ぬらりひょん様の元へ行くのだ。さぁ、もう行くがいい。わたしも屋敷に戻る」
「あっ、旦那様」
別れの言葉を伝える間もなく、壱郎は背を向けて行ってしまった。
「最後に一度だけ、『お父様』とお呼びしたかったのに……」
父と呼べない父親であっても、さちにとっては、たったひとりの父親だ。最後の言葉だけでも伝えたかった。目頭が熱くなってくるのを感じ、さちは慌てて顔を振る。
「大丈夫、いつものように笑っていよう。あやかしに喰われたら、天にいらっしゃる母様にお会いできるかもしれないもの」
にっこりと無邪気に笑ったさちは、ようやく落ち着くことができた。
人力車に乗ることになったさちは、カラコロと揺れながら、ぬらりひょんの屋敷まで連れていかれた。人力車をひく車夫は壱郎を乗せて、ぬらりひょんの屋敷に何度か行ったことがあるという。
ぬらりひょんの屋敷は、九桜院家の離れほどの大きさであったが、落ち着いた佇まいだった。
「ではあっしはこれで。さちお嬢様、お達者で」
車夫は愛想なく告げると、逃げるように去っていった。
「いってしまったわ」
改めて、ぬらりひょんの屋敷を見上げてみた。豪奢でもなく、簡素でもない造りは不思議な落ち着きがあった。
(なんだか、不思議なお屋敷ね)
たったひとりの花嫁となったさちは、慣れぬ花嫁衣装を引きずりながら、屋敷の戸を叩く。
「ごめんくださいませ。九桜院さちでございます。こちらお嫁に参りました。ごめんくださいませ!」
こうしてさちはたったひとりで、ぬらりひょんの元にやってきた。ひとりぼっちの花嫁となった少女の数奇な運命が今始まる。
0
あなたにおすすめの小説
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
黒騎士団の娼婦
イシュタル
恋愛
夫を亡くし、義弟に家から追い出された元男爵夫人・ヨシノ。
異邦から迷い込んだ彼女に残されたのは、幼い息子への想いと、泥にまみれた誇りだけだった。
頼るあてもなく辿り着いたのは──「気味が悪い」と忌まれる黒騎士団の屯所。
煤けた鎧、無骨な団長、そして人との距離を忘れた男たち。
誰も寄りつかぬ彼らに、ヨシノは微笑み、こう言った。
「部屋が汚すぎて眠れませんでした。私を雇ってください」
※本作はAIとの共同制作作品です。
※史実・実在団体・宗教などとは一切関係ありません。戦闘シーンがあります。
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
エリート警察官の溺愛は甘く切ない
日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。
両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉
靴屋の娘と三人のお兄様
こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!?
※小説家になろうにも投稿しています。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる