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第三章 父と娘、蓉子の正体

初めての疑念

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(お父様は話し合いではなく、私を連れ戻しに来たの……?)

 父である壱郎の申し出は、さちにとって一番聞きたくない言葉だった。辛い思い出しかない九桜院家にさちを連れ戻す。それはさちにとって地獄のような生活に戻ることを意味している。

「待て、壱郎。それはわしに対しても、さちに対しても、あまりに失礼だろう。わしは何も言わず、さちを受け入れた。それは壱郎への信頼があるからだ。それなのにおまえときたら文よこしただけで、わしへの顔見せもなかったのだぞ? それでもさちを連れ戻すというのか!?」

 日頃は冷静で穏やかなぬらりひょんであったが、さすがに怒りを抑えられないようだ。畳を手で叩き、壱郎を睨にらみつける。

「失礼は十分承知しております。しかしこれは、さちの姉である蓉子の希望であり、心からの願いなのです。さちが嫁いでから、毎日泣いてばかりいます。さちがおらねば生きていく気力さえない、とまで申しております。謝礼はいくらでもお払いしますので、何卒さちを九桜院家にお返しくださいませ」

 言葉遣いは丁寧であったが、壱郎は愛想笑いもせずに頭だけ下げた。

「金の問題ではないっ!!」

 ぬらりひょんが一喝した。その声は屋敷を揺るがすほどの声量で、さすがの壱郎も恐怖を感じたのか、口をつぐんでしまった。
 さちは父の話を、信じられない思いで聞いていた。
 姉の蓉子が自分のことを大事に思ってくれているのは嬉しい。
 しかしその蓉子から、「自分の身代わりとして、ぬらりひょんに嫁いでほしい」とずっとお願いされてきたのだ。敬愛する姉のためなら喜んで犠牲になろうと、悲壮な思いでたったひとり、ぬらりひょんの元に嫁いできた。
 蓉子は良家の子息を婿にもらい、九桜院家を引き継いで幸せに暮らしているだろうと思っていた。
 それなのに今になって、さちを家に連れ戻してほしいという。

(だったらなぜ、お姉様は私が嫁入りする前に反対してくださらなかったの……?)

 愛娘の蓉子の頼みなら、何でも受け入れる壱郎だ。さちをぬらりひょんに嫁がせるな、と一言お願いすれば、あっさり聞き入れたことだろう。本当にさちのことが大切なら、妹を自分の身代わりにしたりしないし、ましてあやかしに嫁がせたりもしない。

(お姉様にとって、私は何なの……?)

 それはさちが姉の蓉子に感じる、初めての疑念だった。

 姉の蓉子は、さちにいつも優しかった。
 時々さちを呼んでは、幼子に与えるように美味しい菓子を分けてやり、「わたくしの可愛い妹」と抱きしめてくれた。
 その温もりは亡き母を思わせるもので、さちにとっては姉の蓉子がただひとりの肉親といってよかった。優しい姉のためならば、喜んでこの身をあやかしに喰わせてやるつもりだった。さちは蓉子に対して常に従順で、なにひとつ逆らってはこなかった。姉の香りにつつまれていると、何も考えられなくなってしまうからでもある。
 全ては敬愛する姉のため。さちは疑うことなく信じていたのだ。

(でもそれって、本当に『お優しいお姉様』の……?)

 思えば蓉子は、さちに菓子を与えることはあっても、ぼろぼろになった着物の替えをくれたことはない。使用人たちに怒鳴られ、虐められる妹の姿を見ても、その使用人たちを咎めたことは一度もない。壱郎がさちを叱責していても、そこに止めに入ったこともない。あやかしに嫁げば、やがて喰われしまうと言いながら、それをさちに、「可愛い妹」に黙って受け入れてほしい、と頼んでいた……。

(お姉様にとって、私は、わたしは……。おそらく本当の意味での『可愛い妹』ではなかったのだわ……)

 さちは姉の蓉子の偽善に、ようやく気付き始めていた。蓉子にとってさちは、自分の身代わりにすぎず、気まぐれのような優しさと菓子を与えるだけの存在。全ては自分に逆らうことなく従わせるため。

(ああ、私に家族なんていなかったんだ……。父も姉も、私をただの道具としか思ってない……)

 真実に気付いたさちの体は震え、涙がとめどなくあふれてくる。幼い頃からずっと、ただひとつの希望と思っていた姉が、自分を家族と思ってはいなかった、と気付いてしまったのだから。

「さち、どうした!?」

 絶望に沈むさちの心を救ったのは、ぬらりひょんの一声だった。

「ぬ、ぬらりひょん様……」

 ぬらりひょんは涙を流すさちの顔を、袂でふいてやり、細い肩をそっと抱きしめた。

「大丈夫だ、さち。わしがいる。何があってもわしだけは、さちの傍にいてやる。だから泣くな」
「ぬらりひょん様……」

 暗黒の闇の中に浮かぶのは、さちの料理を「うまい、うまい」と喜んでくれるあかやしたちだった。
 いくつもの顔をもつ、ぬらりひょん。さちを『さち姐さん』と呼んで慕ってくれる一つ目小僧。さちの料理は酒に合うと、いつも油を分けてくれる油すまし。さちを妹のように可愛がってくれる、ろくろ首のおりん。竈に火を入れてくれる化け火。
 どのあやかしも自分とは全く違う姿をしているが、さちのことを大切に思ってくれている。それはさちが一番わかっていた。

(そうよ、私はひとりじゃない……!)

 さちは唇を噛みしめると、目に残る涙を指先で拭い取った。

「もう大丈夫です、ぬらりひょん様。私はちゃんと父と話をします」
「本当に大丈夫か?」
「はい、ありがとうございます」

 さちは自分を家族と思ってはいない、父と姉に向き合い、対峙することを決めたのだ。

 父の壱郎は、驚いた表情でさちを見つめていた。さちがぬらりひょんに大切にされているとは思ってはいなかったのかもしれない。
 さちは壱郎の顔をまっすぐ見据えた。手さえ握ってくれたことのない実の父。震えそうになる体をどうにか堪えながら、さちは父に向って話し始めた。

「お父様、さちはお父様のためにシチューを作りました。私のすべての思いを込めてお作りしました。今から温めて参りますから、どうぞ召し上がってくださいませ」

 壱郎はしばし考えていたが、ややあって、「わかった」とだけ答えた。

「ではお父様、少々お待ち下さいませ」

 さちは立ち上がると、慣れ親しんだ台所へ向かった。



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