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第四章 対 決
九桜院家での生活
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「さち! あんたまだ皿洗いしてるのかい? とっとおし!」
「は、はい……」
「それが終わったら、園庭の草むしりに床掃除と、やることは山ほどあるんだ。ぐずぐずするんじゃないっ!
「はい……」
九桜院家で働く使用人たちは、今日もさちを怒鳴りつけ、次々と仕事を与えている。
さちには耐えることしかできない日々。以前と変わらない生活だった。ただひとつのことを除いては。
「なんだい、さち。ぼーっとして」
「あの、わたし、なにか大切なことを忘れてる気がして……ご存知ありませんか?」
「大切なことぉ? さち、あんたにとって大切なものは、蓉子様だけだろ? 寝ぼけたこと言うんじゃないよ」
「そうでしょうか? 大切な方がいた気がするんです……」
「あんた、自分の立場をわかってないようだねぇ? 思い出させてやるよ、ほらっ!!」
「あっ!」
さちを怒鳴りつけていた使用人の女は、さちの髪をつかみとり、乱暴にひっぱった。
「いたい、痛いです!」
ぼんやりしていたところで、急に髪の毛をひっぱられたので、さちはしりもちをつく形で転んでしまった。
「これで目がさめただろう? あんたは愚鈍なぼんくら娘だから、ここで下働きするしか能がないんだよ。わかったら返事をおしっ!」
「はい、わかりました……」
「皿洗いと庭の草むしりが終わったら、蓉子様のところへ行きな。お支度を手伝ってほしいそうだ」
「はい……」
「いいかい、さち。愚鈍なあんたでも、蓉子様は妹として可愛がってくださるんだ。蓉子様の愛情に感謝して、心からお仕えすることだ。わかったね!」
罵倒には慣れているはずなのに、涙がこぼれて止まらない。返事をする気力さえなくなったさちは、無言でうなずくことしかできなかった。
「これみよがしにぽろぽろ泣きやがって。どれだけ泣こうか無駄だよ。さちが生きる場所は、九桜院家だけなんだから」
さちを怒鳴りつける使用人の女の目は、異様なほどに血走り、焦点も定まっていない。おそらく正気ではないのだろう。それでもくりかえし何度も、さちに言い聞かせる。
さちには姉の蓉子しかおらず、九桜院家で生涯生きていくのだと。心が空虚になっているさちに、嫌というほど叩き込む。すべてはさちを九桜院家に留めるためだ。
九桜院家で働く使用人たちは、すべて蓉子によって掌握されている。心を体も支配され、蓉子の意のままに動く駒でしかない。
さちが九桜院家の娘であるにもかかわらず、使用人たちが執拗に虐めるのは、それが蓉子の望みだからだ。どれだけいじめられても、健気に耐えるさちの姿を見ては、心ゆくまで楽しむために。
使用人たちに罵倒され、いじめられ続ける九桜院家の生活は以前と変わらない。
しかしひとつだけ、これまでと違うことがあった。
「わたし、どうしてしまったの? 蓉子様さえ優しくしてくだされば、それでよかったのに……」
さちの目からとめどなく涙があふれて止まらない。哀しくてつらくて、たまらないのだ。
さちから笑顔が消えていた。
「笑顔を忘れてはいけないよ」と実母に教えられ、ずっと守っていたのに、今のさちにはかすかな微笑みすらない。
さちの心は、ぽっかりと穴が開いていた。大切なもので満たされていたはずなのに、どうしても思い出すことができない。考え始めると頭が痛くなってしまうのだ。
「思い出さないほうがいい、のよね。きっと……」
思い出すことも、考えることもできない哀れなさちは、ただ黙々と働き続けることしかできない。働いては怒鳴られ、また働いては頭を叩かれ、髪をひっぱられる。どれだけ働いても誰にも喜んでもらえず、よく頑張ったと認めてもらえることもない。むなしくても悲しくても、さちには何もできない。代わりに涙だけは、枯れはてることなく流れ続ける。
「園庭の草むしりをしなくては……」
皿洗いをどうにか終えたさちは、次の仕事をするため、園庭に向かってふらふらと歩いた。ろくに食べさせてもらえないさちの体はやせほそり、足取りがおぼつかないためか、あちこちの壁に体をぶつけてしまう。それでもさちは歩き続ける。すり傷ができても転んでも、痛みがさちの心に響くことはない。逃れることのできない悪夢の中に、さちは閉じ込められている。
ふらつく体で園庭の草むしりや掃除をしていると、時刻は夕暮れ時になっていた。赤い夕焼けがさちを気遣うように、優しく照らしている。
「きれいな夕日……大きな飴玉みたいだわ……」
さちが、ぽつりとつぶやいた時だった。
「夕焼けを飴玉と表現するとは、さちらしいのぅ」
さちの背後から、だれかが声をかけてきた。驚いたさちが、ゆっくりと後ろをふりかえる。
見上げるほどの長身に浅黒い肌、白く長い髪に整った容姿をした男だった。人とは思えない姿をしているのに、不思議と恐怖は感じない。
(だれ? でもどこかでお会いしたような……)
今のさちには、目の前にいる人がだれなのか思い出すことはできない。大切な記憶はすべて、闇の中に消えていってしまったのだから。
「さち、わしのことを忘れてしまったのか? わしはおまえに会いたくて、ずっと探していたのに」
また名前を呼ばれた。さちのことを、よく知っているのだ。
「あの、どちらさまですか? 蓉子様のお客様でしょうか?」
浅黒い肌の男の目が、いぶかしげに光った。
「は、はい……」
「それが終わったら、園庭の草むしりに床掃除と、やることは山ほどあるんだ。ぐずぐずするんじゃないっ!
「はい……」
九桜院家で働く使用人たちは、今日もさちを怒鳴りつけ、次々と仕事を与えている。
さちには耐えることしかできない日々。以前と変わらない生活だった。ただひとつのことを除いては。
「なんだい、さち。ぼーっとして」
「あの、わたし、なにか大切なことを忘れてる気がして……ご存知ありませんか?」
「大切なことぉ? さち、あんたにとって大切なものは、蓉子様だけだろ? 寝ぼけたこと言うんじゃないよ」
「そうでしょうか? 大切な方がいた気がするんです……」
「あんた、自分の立場をわかってないようだねぇ? 思い出させてやるよ、ほらっ!!」
「あっ!」
さちを怒鳴りつけていた使用人の女は、さちの髪をつかみとり、乱暴にひっぱった。
「いたい、痛いです!」
ぼんやりしていたところで、急に髪の毛をひっぱられたので、さちはしりもちをつく形で転んでしまった。
「これで目がさめただろう? あんたは愚鈍なぼんくら娘だから、ここで下働きするしか能がないんだよ。わかったら返事をおしっ!」
「はい、わかりました……」
「皿洗いと庭の草むしりが終わったら、蓉子様のところへ行きな。お支度を手伝ってほしいそうだ」
「はい……」
「いいかい、さち。愚鈍なあんたでも、蓉子様は妹として可愛がってくださるんだ。蓉子様の愛情に感謝して、心からお仕えすることだ。わかったね!」
罵倒には慣れているはずなのに、涙がこぼれて止まらない。返事をする気力さえなくなったさちは、無言でうなずくことしかできなかった。
「これみよがしにぽろぽろ泣きやがって。どれだけ泣こうか無駄だよ。さちが生きる場所は、九桜院家だけなんだから」
さちを怒鳴りつける使用人の女の目は、異様なほどに血走り、焦点も定まっていない。おそらく正気ではないのだろう。それでもくりかえし何度も、さちに言い聞かせる。
さちには姉の蓉子しかおらず、九桜院家で生涯生きていくのだと。心が空虚になっているさちに、嫌というほど叩き込む。すべてはさちを九桜院家に留めるためだ。
九桜院家で働く使用人たちは、すべて蓉子によって掌握されている。心を体も支配され、蓉子の意のままに動く駒でしかない。
さちが九桜院家の娘であるにもかかわらず、使用人たちが執拗に虐めるのは、それが蓉子の望みだからだ。どれだけいじめられても、健気に耐えるさちの姿を見ては、心ゆくまで楽しむために。
使用人たちに罵倒され、いじめられ続ける九桜院家の生活は以前と変わらない。
しかしひとつだけ、これまでと違うことがあった。
「わたし、どうしてしまったの? 蓉子様さえ優しくしてくだされば、それでよかったのに……」
さちの目からとめどなく涙があふれて止まらない。哀しくてつらくて、たまらないのだ。
さちから笑顔が消えていた。
「笑顔を忘れてはいけないよ」と実母に教えられ、ずっと守っていたのに、今のさちにはかすかな微笑みすらない。
さちの心は、ぽっかりと穴が開いていた。大切なもので満たされていたはずなのに、どうしても思い出すことができない。考え始めると頭が痛くなってしまうのだ。
「思い出さないほうがいい、のよね。きっと……」
思い出すことも、考えることもできない哀れなさちは、ただ黙々と働き続けることしかできない。働いては怒鳴られ、また働いては頭を叩かれ、髪をひっぱられる。どれだけ働いても誰にも喜んでもらえず、よく頑張ったと認めてもらえることもない。むなしくても悲しくても、さちには何もできない。代わりに涙だけは、枯れはてることなく流れ続ける。
「園庭の草むしりをしなくては……」
皿洗いをどうにか終えたさちは、次の仕事をするため、園庭に向かってふらふらと歩いた。ろくに食べさせてもらえないさちの体はやせほそり、足取りがおぼつかないためか、あちこちの壁に体をぶつけてしまう。それでもさちは歩き続ける。すり傷ができても転んでも、痛みがさちの心に響くことはない。逃れることのできない悪夢の中に、さちは閉じ込められている。
ふらつく体で園庭の草むしりや掃除をしていると、時刻は夕暮れ時になっていた。赤い夕焼けがさちを気遣うように、優しく照らしている。
「きれいな夕日……大きな飴玉みたいだわ……」
さちが、ぽつりとつぶやいた時だった。
「夕焼けを飴玉と表現するとは、さちらしいのぅ」
さちの背後から、だれかが声をかけてきた。驚いたさちが、ゆっくりと後ろをふりかえる。
見上げるほどの長身に浅黒い肌、白く長い髪に整った容姿をした男だった。人とは思えない姿をしているのに、不思議と恐怖は感じない。
(だれ? でもどこかでお会いしたような……)
今のさちには、目の前にいる人がだれなのか思い出すことはできない。大切な記憶はすべて、闇の中に消えていってしまったのだから。
「さち、わしのことを忘れてしまったのか? わしはおまえに会いたくて、ずっと探していたのに」
また名前を呼ばれた。さちのことを、よく知っているのだ。
「あの、どちらさまですか? 蓉子様のお客様でしょうか?」
浅黒い肌の男の目が、いぶかしげに光った。
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