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第四章 対 決

月明かりの求婚

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「さち! 無事で良かった!!」

 ぬらりひょんの屋敷に着いたとたん、真っ先に出迎えたのらろくろ首のおりんだった。豊かな胸元にさちを抱きしめ、愛しそうにすりすりとする。

「さち姐さん! おいら、心配で心配で、メシも喉を通らなくて……」

 さちの体に抱きついてきたのは、さちを姐さんと呼ぶ、一つ目小僧だった。

「そのわりに雑穀の粥を、わしわし食ってた気がするがなぁ?」

 さらりと嫌味を言ったのは、油すましだ。

「そ、そりゃあ腹は減るっす。ただいつもより腹七、八分ぐらいしか食べられなかったでやんす」
「それだけ食べれりゃ十分だ」

 食いしん坊で少しお調子者な一つ目小僧の変わらぬ姿に、さちはつい笑ってしまった。

「皆さん、お元気そうで……」
「元気なもんかい。さちが心配でたまらなかったんだから。九桜院家に襲撃に行こう! って一つ目小僧と相談してたんだよ」
「そうでやんす。おいらが悪党をこれでもかと殴り倒してやろうかと」
「おチビなあんたにそれができんのかい? 吹き飛ばされて終わりだろ?」
「おりんさん、それはないでやんす~! 実力はともかく、思いだけは強かったでやんす」

 子供のような姿の一つ目小僧が、蓉子を殴り倒せるとは思えなかったが、さちのことを思ってくれていたのはよくわかった。その思いが何より嬉しい。

「でもさ、さち。こうしてここに帰ってきてくれて、本当に良かったよ」
「そうでやんす。おいら、安心したら腹が減ってきやした!」

 早速お腹を鳴らし始める一つ目小僧に、一同は一斉に笑った。

(私、心から笑ってる。なんて幸せなことでしょう)

「おい、一つ目小僧。しばらくはふたりきりにしてやれ。ぬらりひょんとさちは正式に夫婦になるそうだからな」
「んまぁ! じゃあいずれお祝いしないとね! んじゃ、今日のところはこれで。お邪魔虫は、さっさと退散しないとね。さ、行くよ。一つ目小僧」
「さち姐さん~またハイカラ料理を作ってくれでやんすぅ~」
「このおりん様がパンケーク作ってやるからさ」
「おりんさんのパンケークはところどころ焦げてるでやんす」
「おだまり!」
「うわーん、おりんさんがぶったぁ」

 おりんにずるずると引きずられていく一つ目小僧を見送ると、さちは笑いながらも、目に涙がたまっているのを感じていた。

「皆様がお元気で良かった。ようやく帰ってこれた気がします」

 涙がこぼれ落ちる前に、さちは袂でそっとふき取った。

「あやつら、さちのことを心から心配しとった。またうまい食事でも作って、もてなしてやってくれ」
「はい。そうさせていただきます」
「さち、早速ですまんが、ほうじ茶を淹れてくれ。おぬしと一緒にわしの部屋で茶が飲みたい。さちに話したいことがあるからのぅ」
「はい、すぐにお茶をおもちしますね」

 はりきって、さちはお茶の準備をする。小さなことだが、さちには嬉しくてたまらないのだ。

「化け火さん、私、帰ってきました。かまどに火をお願いできますか?」

 さちがかまどをのぞきこむと、化け火はすぐに飛び出してきた。楽しそうにぱちぱちと、火花を散らす。化け火もさちの帰りを待ち望んでいたのだ。

「ありがとう、化け火さん。これからもよろしくね」

 化け火は、ぱちん! と大きめの火花をたてた。

 ほうじ茶を丁寧に淹れると、さちはぬらりひょんの部屋へと運んだ。
 
「ぬらりひょん様、お茶をおもちしました」
「入ってくれ、さち」
「はい」

 襖を開けると、ぬらりひょんが月明かりを背にあぐらをかいていた。
 ぬらりひょんの顔はいつになく真剣だった。

「話したいことがあるのだ」
「はい。どのようなお話しでしょう?」

 ぬらりひょんは穏やかに微笑み、さちの名を呼んだ。

「さち、ここへおいで」

 ぬらりひょんは、自らの膝あたりをぽんぽんと軽くたたくと、両の手を左右に開いた。

「さぁ、おいで」

 最初は意味がわからなかった。まるで愛猫を呼ぶように、さちを気軽に呼ぶのだから。

(おいで……って、私を呼ばれてる。そ、それって……)

 ようやく意味を理解したさちは、顔がみるみる熱くなっていく。

「嫌か? 少しばかり、おぬしの温もりを感じたいのだが」
「いや、ではございません……」

 さちはぬらりひょんの求めに逆らえそうになかった。恋しい人に求められて、拒絶できるはずがないのだから。

(以前おりんさんが言ってたものね。女は度胸って。女はどきょう、おんなは度胸……!)

 さちは呪文を唱えるがごとく心の中で、『女は度胸』を唱えながら、ぬらりひょんの近くまで歩み寄る。

「し、失礼致します、ぬらりひょん様」

 覚悟を決めて、ぬらりひょんの太ももあたりにちょこんと腰を下ろした。これが今のさちの精一杯だった。

「さち、もっと体を寄せよ。わしはおぬしの体温を感じたいのだ」

 ぬらりひょんは開いた両の手で、さちを背後から抱きしめた。その温もりを確かめるように、しっかりと抱え込む。

「さちの体は温かいのぅ……」

 ぬらりひょんはさちの温もりを堪能していたが、さちにはその余裕は全くなかった。

(ぬらりひょん様に抱きしめらてる。どうしよう、どうしょう……)

 みるみる熱くなっていくのを感じていると、ぬらりひょんはさちの耳元にささやいた。

「そう緊張せずともよい。おぬしの無事を今一度確認したいだけなのだ。さちがわしの元に帰ってきてくれて、本当に良かった……」

 さちの温もりを感じながら、ぬらりひょんは安堵の吐息をもらす。

「ぬらりひょん様、私もです。こちらへ戻ってこれて嬉しいです……」

 蓉子の術中にはまってしまったのに、よくここへ帰ってこれたとさちも思う。

「さち、わしの話を聞いてくれるか?」
「はい」

 ぬらりひょんはゆっくりと話し始めた。

「さち、我らあやかしは、いずれ幽世へ戻らねばならん。この日本という国は、今後もますます西洋化し、めまぐるしく変わっていくからだ。我らあやかしはその変化についていけぬ。だから幽世へ帰るのだ。ゆえに九桜院家との契約も終わらせるべきだと考えた。しかしそれが蓉子につけ入る隙を与えてしまった。今さら悔いても仕方のないことだが、もう少し用心すべきだった」
「でもそれはぬらりひょん様のせいでは」
「さちはそのように言ってくれるが、わしに責任が一切ないとも思えんのだ。一度人間の一族と契約を交わしたのなら、徐々に解消していくべきだった。しかしもう、事は起きてしまった。となれば、わしにできることは蓉子にこれ以上のことをさせぬようにしなくてはならん」

 ぬらりひょんは今後について、さちに話してくれているのだ。

「蓉子も今回のことで痛手を被ったから、しばらくは問題を起こさないだろう。だが未来はわからん。九桜院家を根城に、人間の世界に悪さをするやもしれぬ。わしはそれを阻止したいと思っている。そうなれば蓉子とて黙ってはいないだろう。場合によっては大きな戦乱になる可能性もある。わしはすでに覚悟を決めているが、問題はさち、おぬしのことだ」
「私のことですか?」

 ここで自分の名前が出てくるとは思わず、さちはつい聞いてしまった。

「さちの身の安全を思えば、おぬしをあわいの鬼の里か、幽世かくりよへ預けておくのが一番良いと思っているのだが……」
「そんな、嫌です! 私はぬらりひょん様と離れたくありません」

 ようやくここへ帰ってこれたのに、別の場所へなど行きたくない。さちは必死に懇願した。
 さちの頭を撫でながら、ぬらりひょんは小さく笑った。

「そうだな、困ったことにわしも同じなのだ」
「え……?」
「さちの安全を考えるのであれば、わしの屋敷から離れてもらったほうが良い。だがわしはもう、おぬしを手放したくない。さちが蓉子によってかどわかされたときに思い知ったよ。さちを誰より必要としているのはわしなのだと。改めて、おぬしに伝えたい」

 ぬらりひょんはさちを目の前におろすと、そのまま体の向きを変えさせる。さちはぬらりひょんと向かい合わせに座る形となった。
 ぬらりひょんの整った容姿が、さちの目の前にあった。
 驚くさちの目の前で、ぬらりひょんはさちの手を降り、微笑みながら告げた。

「さち、わしの結婚してほしい。この先にどんな困難があろうと、わしと共に生きてくれるか?」

 驚いたのはさちだった。
 それはぬらりひょんからの初めての求婚だったからだ。さちに結婚を申し込むために、ぬらりひょんの部屋へと呼び寄せたのだ。
 うれしくて、また泣きなくなってしまう。

「問うまでもありません。さちはとっくに、ぬらりひょん様の妻です」

 小さく叫んださちは、ぬらりひょんにしがみついた。
 さちの頬に涙があふれていく。涙を手で拭い取ってやりながら、さちのくちびるに、ぬらりひょんはそっとくちづけをした。受け入れたさちもまた、ぬらりひょんの整った顔に自らの顔を寄せる。
 さちとぬらりひょんは互いを求め合うままに、心と体を寄せ合った。

 雲に遮られた月の光は、さちとぬらりひょんの思いも覚悟も、そっと闇の中につつみこんでいく。切なく甘い夜は、静かに更けていった。
 その夜、さちはぬらりひょんの部屋から出てくることはなかった。
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