33 / 70
あおの章 青葉
突然の別れ
しおりを挟む
「こちらです」
看護師に通され、桃子が眠る場所へと通される。
嘘だと思いたかった。水樹が勘違いしているだけなのだと。元気で明るい桃子が、母となって家族をもつことを夢見ていた彼女が、天に召されるはずがない。
「桃子……?」
呼びかけても返事がない。はにかむような微笑みを見せてくれない。
桃子は静かに眠っていた。二度と目覚めることのない、永遠の眠りに……。
桃子は難産の末に、女の子を出産した。
水樹が喜んだのも束つかの間、出産後の桃子の出血が止まらなくなってしまった。医師たちは必死に治療したが、そのまま目覚めることなく、亡くなってしまったという。
残念ですが……と言う医師の説明をぼんやり聞いていた。
ぼんやりと虚空を見つめた水樹は、「桃子、桃子……」とうわ言のように呟いている。ずっと傍にいた水樹は、娘の誕生という喜びから一転、最愛の妻を亡くすという現実を受け止めきれないのだろう。無理もないことだ。その気持ちは痛いほど理解できる気がする。
現実から目を背けたいのは、僕も同じだったから。
信じたくなかった。桃子がもう、この世にいないなんて。明るい笑顔で、僕たち兄弟の傍らにいてくれた彼女が、天国へ旅立ってしまっただなんて……。
「家族に連絡してきます……」
水樹が動けないなら、僕が動くしかない。
「水樹のことを頼むわね─」
病院の面会で、彼女が言い残したこと。桃子の最後の頼みを受けとめてあげられるのは、僕しかいないのだから。
ふらつく体を支えながら、水樹に代わってなんとか対処しようとするが、体が言うことを聞いてくれない。何もない廊下でつまづき、頭を壁にぶつけてしまった。
鈍い痛みが頭部に拡がり、今起きていることは全て現実なのだと思い知らされる。
「桃子、桃子……なんで、おまえが……」
嗚咽と共に涙があふれだし、泣いてはダメだと思いながらも、何度も何度も頭を壁に打ち付けた。頭を壁にぶつけてみても、涙は止まることはない。
桃子に、幸せになってほしかった。水樹と共に円満な家庭を築いてほしかった。願いはただ、それだけだったのに。それすら叶えられないだなんて……。
堪えても止まらない鳴き声を少しでも抑えようと、壁に向かって泣き続けることしかできなかった。
体中がきしむように痛む。いっそ粉々になってしまえばいい。体がなくなれば、心もなくなり、きっと何も感じなくなるだろうから。
けれど僕が砕けてしまったら、桃子の最後の願いを叶えてやれない──。
涙を拭いとると、あらん限りの力をこめて立ちあがった。
「桃子、僕が水樹を支える、から。だから心配するな……」
それからのことは正直よく覚えていない。
それぞれの家族に連絡をとったことまでは覚えている。仕事から戻ってきた父や桃子の父親が対応してくれた、らしい。
桃子を捨てるように再婚した彼女の父親は、娘の亡骸を前にしてむせび泣いた、と後で父から聞いた。
通夜や葬式がしめやかに営まれた。映画でも眺めるようにそれらを見つめながら、僕は世話しなく動いて手伝った。そうでもしなければ、水樹のように全く動けなくなってしまうと思ったからだ。ほんの少しでも気を抜けば、心の空洞に体と心が崩れてしまいそうだった。
水樹も少しずつ動けるようになってはいたが、その目は焦点が定まっておらず、目が離せない状態だった。終始ぼんやりしていた水樹が、感情を昂ぶらせたのは、出棺前の桃子との最後の別れだった。
「なんで桃子をこんな箱に押し込めるんだよ! 桃子、動いてくれよぉ。俺はおまえがいないと生きていけない。頼むから、俺のところに帰ってきてくれ……!」
どれだけ泣いてすがっても、桃子は動くことはない。
あまりに痛々しい姿の水樹に、僕は寄り添うことしかできなかった。
親族や葬儀社の手配のおかげで、まるで何かの行事のように、滞りなく桃子が天へと送られていく。
周囲の助けはありがたいことだったが、人の死はこんなにもあっけなく済んでしまうものなのかと、やりきれない気持ちになった。
次に僕たちが考えなければいけないのは、桃子が自らの命と引き換えに産んだ、娘の朱里のことだった。
小さな体で生まれた朱里は、しばらく入院が必要だったため、葬儀の最中に面倒をみる必要はなかった。しかし個人的事情で入院を長引かせるわけにもいかず、水樹と共に朱里をひきとりにいった。
看護師が抱きかかえてきた朱里は、僕たちが想像するよりずっと小さく、弱々しい赤ん坊だった。
「あの、この状態で退院させても大丈夫なんですか?」
思わず聞いてしまうと、看護師はマスクごしに微笑んだ。
「大丈夫ですよ。ミルクをしっかり飲めてますし、呼吸も安定していますから。頑張って生きようとしていますよ」
頑張って生きようとしている──。
母はもうこの世にいないのに、この子は懸命に生きようとしているのか……。
小さな赤ん坊の健気な強さに心を打たれた。
「頑張ってるんだな、この子は。朱里はやっぱり桃子の娘だ」
ぼうっと朱里を見つめていた水樹だったが、同じように桃子の面影を朱里に重ねたのだろう。その目から、ほろりと涙をこぼし、そうっと朱里の頬にふれた。
「やわらかいな、そして温かい……。生きてるんだな」
「ああ、そうだ。朱里は生きてる。桃子のためにも頑張ろう。僕も手伝うから」
「そう、だな……」
水樹はもう大丈夫だと思った。
桃子を失った痛みは簡単に消え去るものではない。僕でもそうなのだから、桃子の夫であった水樹は生涯癒えることはないだろう。
けれど桃子が遺した娘の朱里がいれば、水樹はきっと立ち直れる。そう思った。
水樹はひとりではない。双子の兄弟である僕がいる。桃子のためにも、二人で頑張ればきっと大丈夫だと。
けれどそれは、あまりに浅はかな考えだった。
水樹は僕が想像する以上に、現実に絶望していた。桃子がいないこの世界に、耐えられなかったのだ。
看護師に通され、桃子が眠る場所へと通される。
嘘だと思いたかった。水樹が勘違いしているだけなのだと。元気で明るい桃子が、母となって家族をもつことを夢見ていた彼女が、天に召されるはずがない。
「桃子……?」
呼びかけても返事がない。はにかむような微笑みを見せてくれない。
桃子は静かに眠っていた。二度と目覚めることのない、永遠の眠りに……。
桃子は難産の末に、女の子を出産した。
水樹が喜んだのも束つかの間、出産後の桃子の出血が止まらなくなってしまった。医師たちは必死に治療したが、そのまま目覚めることなく、亡くなってしまったという。
残念ですが……と言う医師の説明をぼんやり聞いていた。
ぼんやりと虚空を見つめた水樹は、「桃子、桃子……」とうわ言のように呟いている。ずっと傍にいた水樹は、娘の誕生という喜びから一転、最愛の妻を亡くすという現実を受け止めきれないのだろう。無理もないことだ。その気持ちは痛いほど理解できる気がする。
現実から目を背けたいのは、僕も同じだったから。
信じたくなかった。桃子がもう、この世にいないなんて。明るい笑顔で、僕たち兄弟の傍らにいてくれた彼女が、天国へ旅立ってしまっただなんて……。
「家族に連絡してきます……」
水樹が動けないなら、僕が動くしかない。
「水樹のことを頼むわね─」
病院の面会で、彼女が言い残したこと。桃子の最後の頼みを受けとめてあげられるのは、僕しかいないのだから。
ふらつく体を支えながら、水樹に代わってなんとか対処しようとするが、体が言うことを聞いてくれない。何もない廊下でつまづき、頭を壁にぶつけてしまった。
鈍い痛みが頭部に拡がり、今起きていることは全て現実なのだと思い知らされる。
「桃子、桃子……なんで、おまえが……」
嗚咽と共に涙があふれだし、泣いてはダメだと思いながらも、何度も何度も頭を壁に打ち付けた。頭を壁にぶつけてみても、涙は止まることはない。
桃子に、幸せになってほしかった。水樹と共に円満な家庭を築いてほしかった。願いはただ、それだけだったのに。それすら叶えられないだなんて……。
堪えても止まらない鳴き声を少しでも抑えようと、壁に向かって泣き続けることしかできなかった。
体中がきしむように痛む。いっそ粉々になってしまえばいい。体がなくなれば、心もなくなり、きっと何も感じなくなるだろうから。
けれど僕が砕けてしまったら、桃子の最後の願いを叶えてやれない──。
涙を拭いとると、あらん限りの力をこめて立ちあがった。
「桃子、僕が水樹を支える、から。だから心配するな……」
それからのことは正直よく覚えていない。
それぞれの家族に連絡をとったことまでは覚えている。仕事から戻ってきた父や桃子の父親が対応してくれた、らしい。
桃子を捨てるように再婚した彼女の父親は、娘の亡骸を前にしてむせび泣いた、と後で父から聞いた。
通夜や葬式がしめやかに営まれた。映画でも眺めるようにそれらを見つめながら、僕は世話しなく動いて手伝った。そうでもしなければ、水樹のように全く動けなくなってしまうと思ったからだ。ほんの少しでも気を抜けば、心の空洞に体と心が崩れてしまいそうだった。
水樹も少しずつ動けるようになってはいたが、その目は焦点が定まっておらず、目が離せない状態だった。終始ぼんやりしていた水樹が、感情を昂ぶらせたのは、出棺前の桃子との最後の別れだった。
「なんで桃子をこんな箱に押し込めるんだよ! 桃子、動いてくれよぉ。俺はおまえがいないと生きていけない。頼むから、俺のところに帰ってきてくれ……!」
どれだけ泣いてすがっても、桃子は動くことはない。
あまりに痛々しい姿の水樹に、僕は寄り添うことしかできなかった。
親族や葬儀社の手配のおかげで、まるで何かの行事のように、滞りなく桃子が天へと送られていく。
周囲の助けはありがたいことだったが、人の死はこんなにもあっけなく済んでしまうものなのかと、やりきれない気持ちになった。
次に僕たちが考えなければいけないのは、桃子が自らの命と引き換えに産んだ、娘の朱里のことだった。
小さな体で生まれた朱里は、しばらく入院が必要だったため、葬儀の最中に面倒をみる必要はなかった。しかし個人的事情で入院を長引かせるわけにもいかず、水樹と共に朱里をひきとりにいった。
看護師が抱きかかえてきた朱里は、僕たちが想像するよりずっと小さく、弱々しい赤ん坊だった。
「あの、この状態で退院させても大丈夫なんですか?」
思わず聞いてしまうと、看護師はマスクごしに微笑んだ。
「大丈夫ですよ。ミルクをしっかり飲めてますし、呼吸も安定していますから。頑張って生きようとしていますよ」
頑張って生きようとしている──。
母はもうこの世にいないのに、この子は懸命に生きようとしているのか……。
小さな赤ん坊の健気な強さに心を打たれた。
「頑張ってるんだな、この子は。朱里はやっぱり桃子の娘だ」
ぼうっと朱里を見つめていた水樹だったが、同じように桃子の面影を朱里に重ねたのだろう。その目から、ほろりと涙をこぼし、そうっと朱里の頬にふれた。
「やわらかいな、そして温かい……。生きてるんだな」
「ああ、そうだ。朱里は生きてる。桃子のためにも頑張ろう。僕も手伝うから」
「そう、だな……」
水樹はもう大丈夫だと思った。
桃子を失った痛みは簡単に消え去るものではない。僕でもそうなのだから、桃子の夫であった水樹は生涯癒えることはないだろう。
けれど桃子が遺した娘の朱里がいれば、水樹はきっと立ち直れる。そう思った。
水樹はひとりではない。双子の兄弟である僕がいる。桃子のためにも、二人で頑張ればきっと大丈夫だと。
けれどそれは、あまりに浅はかな考えだった。
水樹は僕が想像する以上に、現実に絶望していた。桃子がいないこの世界に、耐えられなかったのだ。
0
あなたにおすすめの小説
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
生きるために逃げだした。幸せになりたい。
白水緑
ファンタジー
屋敷内に軟禁状態だったリリアは、宝物を取り戻したことをきっかけに屋敷から逃げ出した。幸せになるために。体力も力もない。成り行きに身を任せる結果になっても、自分の道は自分で選びたい。
2020/9/19 第一章終了
続きが書け次第また連載再開します。
2021/2/14 第二章開幕
2021/2/28 完結
【完結】黒の花嫁/白の花嫁
あまぞらりゅう
恋愛
秋葉は「千年に一人」の霊力を持つ少女で、幼い頃に龍神――白龍の花嫁として選ばれていた。
だが、双子の妹の春菜の命を救うために、その霊力を代償として失ってしまう。
しかも、秋葉の力は全て春菜へと移り、花嫁の座まで奪われてしまった。
それ以来、家族から「無能」と蔑まれながらも、秋葉は失われた力を取り戻すために静かに鍛錬を続けていた。
そして五年後、白龍と春菜の婚礼の日。
秋葉はついに霊力が戻らず、一縷の望みも消えてしまった。
絶望の淵に立つ彼女の前に、ひとりの青年が現れる。
「余りもの同士、仲良くやろうや」
彼もまた、龍神――黒龍だった。
★ザマァは軽めです!
★後半にバトル描写が若干あります!
★他サイト様にも投稿しています!
妾の子だからといって、公爵家の令嬢を侮辱してただで済むと思っていたんですか?
木山楽斗
恋愛
公爵家の妾の子であるクラリアは、とある舞踏会にて二人の令嬢に詰められていた。
彼女達は、公爵家の汚点ともいえるクラリアのことを蔑み馬鹿にしていたのである。
公爵家の一員を侮辱するなど、本来であれば許されることではない。
しかし彼女達は、妾の子のことでムキになることはないと高を括っていた。
だが公爵家は彼女達に対して厳正なる抗議をしてきた。
二人が公爵家を侮辱したとして、糾弾したのである。
彼女達は何もわかっていなかったのだ。例え妾の子であろうとも、公爵家の一員であるクラリアを侮辱してただで済む訳がないということを。
※HOTランキング1位、小説、恋愛24hポイントランキング1位(2024/10/04) 皆さまの応援のおかげです。誠にありがとうございます。
三年の想いは小瓶の中に
月山 歩
恋愛
結婚三周年の記念日だと、邸の者達がお膳立てしてくれた二人だけのお祝いなのに、その中心で一人夫が帰らない現実を受け入れる。もう彼を諦める潮時かもしれない。だったらこれからは自分の人生を大切にしよう。アレシアは離縁も覚悟し、邸を出る。
※こちらの作品は契約上、内容の変更は不可であることを、ご理解ください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる