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6. Red Zone
Red Zone 7話
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それほど近い位置で身を潜め続けるのは正直辛い。女がやさしくやわらかく気遣う仕草までもが伝わってくるようだ。
それに対して申し訳なさそうな顔をして、波濤はきっと切なげに彼女を見つめてでもいるのだろうか。彼らが今、どんな距離感でいるのかなど、見なくても重々理解できた。
「アユミさん……風邪、移しちまうよ……」
「知ってる? 誰かに移すと治るのよ、風邪って……」
すぐそこの曲がり角の向こう側、階段の陰で身を寄せ合う二人の様子が生々しく脳裏をよぎる。他の誰かがそうしていたなら気にも留めないだろうことが、こんなにも胸を焦がすなどとは思わなかった。
偶然とはいえ、盗み聞きしている形になっているからドキドキしているというだけじゃない。原因は百も承知だが、実際に目の当たりにしてみれば、自身ではどうにもコントロールがきかないくらいに逸り出す心臓音を鎮めるのに一苦労だった。
そんな思いを露知らずの当人たちは、まさか誰かに会話を聞かれているなどとは思いもしないのだろう、店内にも客足が引けたこの時間、別れを惜しむように女の声が切なげに裏階段の隙間を縫って響いた。
「一緒に帰って……もっと完全に……移されたいって言ったら……困る……?」
――僅かの沈黙が千日のようだ。彼はどう返事をするのだろう。
女の意に応えるのだろうか、それとも……。
いや、そんなことできるわけがない。
もとい、そんなことができないようにと、昨夜彼をめちゃくちゃにしたのは自分だからだ。
だが実際、この状況をどう切り抜けるつもりなのだろうか――もしも自分ならばどうするだろうか。悶々とそんなことを考えながら身体は硬直したように微動だにできず、心拍数だけがうるさいくらいに加速していた。
それでもこの場から出て行けないのは、ある意味当たり前なのだが、とにかく龍は体験したこともないような逸る気持ちを抑えるのだけで精一杯だった。元々長身の身を潜め続けているだけでも酷い疲労感の上に――だ。
「波濤……? ダメかしら? これってやっぱり我が侭よね? あなたを困らせてる……」
「ん、アユミさんの前で恥かきたくねえよ、俺……」
短いやりとりに、こんなにもドキリとさせられたことはなかった。
◇ ◇ ◇
彼女を送り終えた波濤が店内に戻って来るだろう道すがらで独り、龍は壁にもたれてうつむいていた。
『風邪のせいで勃たねえ、なんてことになって貴女の前で恥かきたくねえよ、俺』――そんな意味合いだったのだろうか、彼の返答は見事だった。同僚としては感服、完敗だ。
しかも酷く艶かしかった。今日はダメだが次を期待させるに充分なほどの、色気のまじった台詞と言い回しだった。
あんなものを見せ付けられれば、もはや収集がつかないほどに酷い嫉妬で胸が焼けただれそうになる。店頭から帰ってくる彼を捕まえて、すぐにでもめちゃくちゃにしてしまいたいくらいだ。
昨夜のことを謝ろうだなどという気持ちは吹き飛んで、更に彼を我がものにして逃がしたくない衝動に駆られた。
アフターを阻止しただけじゃ気が済まない。いや、阻止したというのは結果だが、昨夜あんなことがなければ、彼は客の意に応えかねない状況だったのだから――。
それを思うと嫉妬心で制御がきかなくなりそうだった。
何かに八つ当たりしたくなるような、
或いは泣き出してしまいたいような、
人目も憚らずに叫び出したいような、そんな気分だった。
「龍じゃねえか、どうしたこんなところで? なに、お前も上がり?」
視線が合った瞬間に、少し驚いたように瞳を見開きながらも、まるで普通に『お前もお客を見送り終わったところか』といった調子で声を掛けられた。覗かれていたことも、今どんな気持ちでいるのかも、そんなことを何も知らない彼は、ごく自然な感じでそう声を掛けてくる。
わずかにやつれてみえるのは、やはり体調のせいなのか。それとも、今しがたのように客に嘘をついて、誘いを難なくかわした後の疲労感なのだろうか――堪らずに龍は言葉を詰まらせた。
「……波濤……その……大丈夫か……? つまりその……」
昨日の今日だ、どういう意味で訊かれているのかは即理解できたのだろう。波濤は僅かに苦笑いのようなものを漏らすと、
「ダイジョブじゃねーよ。お陰で身体中腫れちまって、熱まで出ちまったじゃねえか」
嫌味まじりに、だがやわらかに微笑いながら少しおどけ気味で肩を突付き、目の前を通り過ぎようとする。
そんな仕草は堪らない。
いつも他の同僚らに対してそうであるように、相変わらず他人への気遣いに卒がなさ過ぎる。どんな時でも明るさを装おうとする、どんなことをされても相手を責めようとしない、常に良好な関係を築こうと精一杯の笑顔を作る。そんな彼を見ていると、ますます心が痛むようだった。
それに対して申し訳なさそうな顔をして、波濤はきっと切なげに彼女を見つめてでもいるのだろうか。彼らが今、どんな距離感でいるのかなど、見なくても重々理解できた。
「アユミさん……風邪、移しちまうよ……」
「知ってる? 誰かに移すと治るのよ、風邪って……」
すぐそこの曲がり角の向こう側、階段の陰で身を寄せ合う二人の様子が生々しく脳裏をよぎる。他の誰かがそうしていたなら気にも留めないだろうことが、こんなにも胸を焦がすなどとは思わなかった。
偶然とはいえ、盗み聞きしている形になっているからドキドキしているというだけじゃない。原因は百も承知だが、実際に目の当たりにしてみれば、自身ではどうにもコントロールがきかないくらいに逸り出す心臓音を鎮めるのに一苦労だった。
そんな思いを露知らずの当人たちは、まさか誰かに会話を聞かれているなどとは思いもしないのだろう、店内にも客足が引けたこの時間、別れを惜しむように女の声が切なげに裏階段の隙間を縫って響いた。
「一緒に帰って……もっと完全に……移されたいって言ったら……困る……?」
――僅かの沈黙が千日のようだ。彼はどう返事をするのだろう。
女の意に応えるのだろうか、それとも……。
いや、そんなことできるわけがない。
もとい、そんなことができないようにと、昨夜彼をめちゃくちゃにしたのは自分だからだ。
だが実際、この状況をどう切り抜けるつもりなのだろうか――もしも自分ならばどうするだろうか。悶々とそんなことを考えながら身体は硬直したように微動だにできず、心拍数だけがうるさいくらいに加速していた。
それでもこの場から出て行けないのは、ある意味当たり前なのだが、とにかく龍は体験したこともないような逸る気持ちを抑えるのだけで精一杯だった。元々長身の身を潜め続けているだけでも酷い疲労感の上に――だ。
「波濤……? ダメかしら? これってやっぱり我が侭よね? あなたを困らせてる……」
「ん、アユミさんの前で恥かきたくねえよ、俺……」
短いやりとりに、こんなにもドキリとさせられたことはなかった。
◇ ◇ ◇
彼女を送り終えた波濤が店内に戻って来るだろう道すがらで独り、龍は壁にもたれてうつむいていた。
『風邪のせいで勃たねえ、なんてことになって貴女の前で恥かきたくねえよ、俺』――そんな意味合いだったのだろうか、彼の返答は見事だった。同僚としては感服、完敗だ。
しかも酷く艶かしかった。今日はダメだが次を期待させるに充分なほどの、色気のまじった台詞と言い回しだった。
あんなものを見せ付けられれば、もはや収集がつかないほどに酷い嫉妬で胸が焼けただれそうになる。店頭から帰ってくる彼を捕まえて、すぐにでもめちゃくちゃにしてしまいたいくらいだ。
昨夜のことを謝ろうだなどという気持ちは吹き飛んで、更に彼を我がものにして逃がしたくない衝動に駆られた。
アフターを阻止しただけじゃ気が済まない。いや、阻止したというのは結果だが、昨夜あんなことがなければ、彼は客の意に応えかねない状況だったのだから――。
それを思うと嫉妬心で制御がきかなくなりそうだった。
何かに八つ当たりしたくなるような、
或いは泣き出してしまいたいような、
人目も憚らずに叫び出したいような、そんな気分だった。
「龍じゃねえか、どうしたこんなところで? なに、お前も上がり?」
視線が合った瞬間に、少し驚いたように瞳を見開きながらも、まるで普通に『お前もお客を見送り終わったところか』といった調子で声を掛けられた。覗かれていたことも、今どんな気持ちでいるのかも、そんなことを何も知らない彼は、ごく自然な感じでそう声を掛けてくる。
わずかにやつれてみえるのは、やはり体調のせいなのか。それとも、今しがたのように客に嘘をついて、誘いを難なくかわした後の疲労感なのだろうか――堪らずに龍は言葉を詰まらせた。
「……波濤……その……大丈夫か……? つまりその……」
昨日の今日だ、どういう意味で訊かれているのかは即理解できたのだろう。波濤は僅かに苦笑いのようなものを漏らすと、
「ダイジョブじゃねーよ。お陰で身体中腫れちまって、熱まで出ちまったじゃねえか」
嫌味まじりに、だがやわらかに微笑いながら少しおどけ気味で肩を突付き、目の前を通り過ぎようとする。
そんな仕草は堪らない。
いつも他の同僚らに対してそうであるように、相変わらず他人への気遣いに卒がなさ過ぎる。どんな時でも明るさを装おうとする、どんなことをされても相手を責めようとしない、常に良好な関係を築こうと精一杯の笑顔を作る。そんな彼を見ていると、ますます心が痛むようだった。
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