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本編 〝弘〟視点
13/21 逡巡と、急転
しおりを挟む晋矢さんに見捨てられてしまう恐怖に震えていると、穏やかな声が届いた。
「嬉しいです」
「??」
晋矢さんの言葉を……聞き間違えたのか?と耳をすました。
服の匂いを嗅がれるのは気分が悪いですよね?……って話をしたはずなのに、どうして嬉しい?
わたしの耳がおかしいのか、頭が、いいや、頭は生まれつきおかしいな。
「弘さん」
腹から外された左手が顎に触れて、左上を見上げるように持ち上げられた。
「弘さん?」
いい歳して泣いているところなど見られたくなくて、でも晋矢さんの手を振り払えなくて。
顔が左に向けられて、見られる、と怯えた。
「弘さん、好きです、あなたが大好きです、あなたの優しさが、人を思いやれるところが大好きです。
どうか自分を卑下しないでください、あなたは素晴らしい人だ」
そんなはずはない。
わたしは自分のことばかりで精一杯で、誰かを助けようと思ったことなんてない。
「気がついてないんですか?
スーパーで杖をついたお婆さんにカートを運んであげたり、小さい子が一人でいると親はどこかな、って見回してるじゃないですか」
「そそ、そ、そんなことっ」
「弘さん、お店で店員に間違えられることないですか?」
「……え、なんでそれを」
「能力を持たない人でも弘さんなら助けてくれる、って感じてしまうんでしょうね」
そんなバカな、と思った。
わたしがシルバーカーを押す人を気にするのは、祖母を思い出すから。
子供が一人でいるのを気にするのは、店に置いていかれた過去を思い出すから。
どちらも、自分の過去の後悔を、胸の痛みを思い出したくないからだ。
けれど確かに、店員に間違えられて声をかけられる、ということは多い。
シャツにチノパンの私服で買い物に出ているのに、どうして店員と勘違いされるのか?と首を傾げていたけれど、その理由が、助けてもらえそう……なんてことがあるのだろうか。
「弘さん」
「はい」
「勘違いしてしまいそうです」
「はい?」
「弘さんが、俺を好きになってくれたんじゃないかって」
「はい!?」
好き?
わたしが晋矢さんを好き?
好きって……どういう意味で?
一緒に過ごす週末が楽しみで、待ち遠しく思っている。
スーパーに食材を買いに行くだけでも楽しくて、晋矢さんと一緒なら何をしても楽しいんだろうな、と思っている。
それが、好き、ってことなんだろうか。
さっきは晋矢さんに見捨てられるかも、と思っただけで、涙がでた。
憲司くんに叩かれて殴られる時は、痛くて辛くて涙が出たけれど、見捨てられるかもしれないと思っても涙は出なかった。
解放してあげられる、と喜んだ、だろう。
晋矢さんも解放してあげないといけないのに、見捨てられたくない。
胸の奥が、痛い。
憲司くんと晋矢さんの何が違うのか。
「キスしても良いですか?」
「う……」
これまでに拒否したことがない、と知っているだろうに。
晋矢さんは時々、わたしが断れないお願いをしてくる。
意地悪だとは思わない、晋矢さんの瞳がとても切なそうに、そして優しく細められているから。
抱きしめても良いですか、キスしても良いですか、と言われることは。
嫌じゃない、でも、恥ずかしい。
なぜ、恥ずかしいのだろう。
誰かに見られているわけでもないのに。
どうして、わたしの心臓は、ドキドキと音を高くしてしまうのだろう。
音を立てない晋矢さんの唇が、静かな温もりだけを残し、そっと頬を滑るように撫でていく。
触れられていると分かるけれど、それが指ですと言われても気がつかないだろう。
見なければ。
目を閉じて、嵐が通り過ぎるのを待つ。
ドキドキを通り越して、バクバクと鳴っている心臓がおかしくなる前に、終わらせてほしい。
「弘さん、好きです」
「……は、はい」
晋矢さんの言葉の意味がわかるから、応えられない。
返事だけ、なんて逃げていると思われそうだ。
いくらわたしが今時の若者のことを理解していなくても、同性の友人同士が気軽に口づけをする時代になったとは思っていない。
……なっていないよな?
これまでに、わたしは誰かに恋をしたことがない、と思うから。
応えられない。
応えてはいけない気がする。
晋矢さんに抱きしめられている時の、晋矢さんのことを考えた時の、この胸が痛くなるほどの情動は恋なのか、別の何かなのか。
ただの依存かもしれない。
未来のある若者を、いつまでもおじさんの元に縛っていてはいけない。
いつ、それを伝えられるだろうか。
いつなら、諦められるだろうか。
早くしなくては。
なんの罪もない若者を、わたしなどの側に置いておいてはいけないのに、晋矢さんが与えてくれる平穏な日々を、失いたくない。
わたしは最低だ。
情けない自分が大嫌いだ。
晋矢さんの腕に包まれて目が覚める土、日曜日が幸福すぎて。
知ってしまった幸せを、失うことが怖い。
わたしは昔から朝に弱くて、逆に夜更かしならいくらでもできるけれど、年齢的なものか徹夜ができなくなった。
晋矢さんは逆に朝が強いようで、わたしが目覚めた時には、いつも起きている。
起きているのに、わたしを抱きしめている。
男の寝顔なんて見て、何が楽しいのだろう。
それを聞く勇気は、まだない。
◆
朝夕の冷え込みで体調を崩して、鼻炎薬で渇きを覚える口の中で、のど飴を転がす。
薬が効きすぎて乾いた粘膜が裂けているのか、ずっと血の匂いがする気がしていて、鼻の奥がムズムズと痛くて痒い。
最悪な状態だ。
匂いが分からない。
幼い頃から嗅覚で周囲の状況判断をしていたので、能力制御が安定せずに限界まで能力を制御される事になっても、それを変えることはできなかった。
今ではなんの役にも立たないのに。
わたしは今、不安を覚えている。
嗅覚の狂っている今の状態で、晋矢さんに会ったらどうなるのだろう。
与えられる慈しみを感じなくなるだろうか、心の奥まで全て優しく満たしてくれるような、こうばしくて愛おしい香りが分からなくなったどうしよう。
今日は金曜日で、今夜はわたしが泊まりに行く約束をしているのに。
わたしの働く会社は、能力を扱いきれない能力所持者の受け皿という側面があるため、基本的に長時間の残業がない。
もともと不安定な人間にさらに負荷をかけて、能力暴走を起こされては困るからだろう。
規模の大きな会社ではないのに、管理職である上司らは優れた人材ばかり。
直属の上司もなんらかの高等級能力所持者で、専門職の資格持ちなのは間違いない。
会話の途中でごまかそうとしたり、嘘をつくと見抜かれている気がする。
仕事に関しては公平であり、えこひいきをすることもなく、極端に厳しい人ではないけれど、私生活について不信感を抱かれていると感じることがある。
わたしが、未成年とわいせつ行為を行なっていた、薄汚い犯罪者なのだと見抜かれている気がする。
中途半端な能力者を、犯罪に走らせないための必要な措置なのだろう、と漠然と感じている。
新入社員も中途採用者も全員、能力制御用の端末をつけていれば疑いようもない。
つまり何が言いたいかというと……晋矢さんの家に行かない理由がないということだ。
残業がなければ定時であがるしかない。
仕事が終われば、酒を飲まず、女性のいる店に行かず、一人で食事に行くのも好まないわたしは、家に帰るしかない。
泊まりに行く約束をすっぽかしておいて、一人でアパートにいたら明らかにおかしいだろう。
仕事が終わってしまい、とぼとぼと家に帰る途中。
「おい」
背後からかけられた声に、振り返るべきではなかった。
「……憲司くん」
「よう、クソジジイ、相変わらず呑気なアホヅラでしけてやがるな」
一年の間に見慣れていた制服は、しばらく洗っていないようによれていて、髪の毛もボサボサ。
以前は制服を着崩していても、身ぎれいにしていたのに。
今では、初めて出会った頃とは別人のように、黄ばんだ歯を見せながら口元を歪めて嗤っている。
憲司くんに、何があったのか。
そして一番の問題点が。
手に持っている、缶。
「お酒を、飲んでいるのかい?」
まだ、未成年なのに、と口にはしなかった。
憲司くんは子供扱いされるのを嫌っているから。
年齢確認もあり、制服姿で買えるはずがないのに、どうやって手に入れたんだろう。
「あー?だったら、なんだっつんだよ」
「学生なのに、お酒を飲むのは良くないよ」
なんと言えば波風を立てずに済むかと思いながら、それらしい理由を口にした途端。
「うるっせぇんだよっ!!!!」
びくりと体がすくみ、そして動かせなくなった。
強い力で押さえつけられているように、突然全身が動かせなくなる。
何度も身に覚えのある感覚に、恐怖で肌が粟立って記憶がフラッシュバックを起こす。
いやだ、怖い。
「け、憲司くん、やめ……っ、ん、んーっっ!?」
制止の言葉を上げる途中で、口元を目に見えない何かに覆われ、呼吸すらできなくなる。
まるで全身を見えない大きな手で握られているように、どれだけ力を入れても動くことができない。
「ちきしょう、クソジジイ、テメェのせいで退学になっちまったじゃねえか!!」
ぐるりと景色が動いてから、ガツン、と音がして、目の前に星が散る。
頭が、顔が熱い。
カッとお湯をかけられたように感じた熱が、すぐにジンジンとした痺れるような痛みになる。
痛い。
突然の激痛と、目の前が揺れているような感覚に、呼吸ができない苦しさが重なる。
気がつけば、目の前にブロック塀がある。
憲司くんの力でブロック塀に叩きつけられて、右側頭部と顔の右側を派手に擦りむいたようだ。
顔の側面をドロドロと垂れていく暖かさを感じた。
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