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1 ゴーシュ・ガイルは一匹狼
10 別れ
しおりを挟む思いきり勢いよく、扉を開いてしまったゴーシュに、周囲の視線が集まる。
階段状になった部屋の一番下段。
普段ならここが講義を行う場所なのだろう、と見回す。
そこにはお立ち台と、低い椅子が用意されていた。
ため息の音さえ聞き取れそうな重たい沈黙の中に、四つ足でゆったりと歩くゴーシュの、鉤爪が床に当たる音だけが響いた。
「サッサト始メロ」
誰に向かって言うわけでもなく口を開き、置かれていた低い椅子に腰を下ろして、上半身を起こす。
その場にいた人々が目の色を変えたのが、人狼の視界でもわかった。
もしかしたら、本物の人狼なんてデマや嘘だと思っている者もいたのかもしれない。
本物だと知って、本気になったのか。
精巧な作り物と言いきるには、人狼の時のゴーシュの体格と骨格は、人から外れ過ぎている。
広い室内は、すぐに鉛筆や木炭、コンテ、色鉛筆、パステル、オイルパステル等の画材が紙に触れる音のみになった。
遠い場所に座る者は見えているんだろうか、と首を傾げたい気持ちになりながら、ゴーシュは両手をももに置いて動きを止めた。
ぼんやりと遠景を見るように、瞑想状態になっていく。
大勢の人間が一斉に手を動かし、奏でられる音はどこか音楽的でもあり、次はやりたくないが、悪くないかもしれない、とゴーシュは思った。
キャンプ場で木の葉がこすれる音を聞いている時のように、気持ちが落ち着いた。
休憩という名の走り込みを、間に挟んで数時間。
中天にあった太陽が西へ傾き、空が赤みを増しだす頃。
ようやくゴーシュは解放された。
ゴーシュの連絡先を知っているのは、愛子(仮)のみ。
今回の報酬は現金でのやり取りのみにして、書面などを残さない約束にした。
下手に痕跡を残して、辿られることを恐れた。
ちなみに愛子(仮)にも、ゴーシュがどこに住んでいて、どんな仕事をしているのか知らせていない。
かつての合コンメンバーから伝わる可能性はあっても、連絡先を知らなければ、繋ぎを作る難易度は上がるはずだ。
幸いなことに、この大学からゴーシュの勤務先は、駅で四つ以上離れている。
今まで美術大学があることを知らず、こちらの方面に来ることもなかったのだから、そうそう簡単に遭遇することもないだろう。
最悪の場合は社長に泣きついて、本社に戻して貰えば良い。
人に近づきたくないゴーシュにとって、逃げ道があることはありがたかった。
つまり、これで縁切りだ。
人狼が実在することを多くの人に見せてしまったけれど、撮影は許していない。
階段講義室に入る前に、絵を描くのに必要のない道具を各学生のロッカーにしまうことを徹底させた。
全員が守ったとは言えないかもしれないが。
残っているのは絵のみ。
三枝教授、愛子(仮)ともお別れだ。
そう思って、なんとなく寂しい気持ちになりながら、ゴーシュは変装用スーツ姿に戻った。
人狼の感覚では思春期とはいえ、彫りが深くて日焼けしているゴーシュの顔は、髪型を工夫してサングラスを使えば年齢不詳になる。
人の姿の時のみだが、髭や体毛も満足に生え揃っていないほど若いとは、誰も思わないだろう。
「それでは、お世話になりました」
「いいえ、こちらこそ、本当にご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
目の前で、愛子(仮)が携帯端末からゴーシュの名前を消したのを確認して、ゴーシュも自分の端末を操作した。
出てくるタイミングを狙っているのか、建物の外に人が大勢いる気配と匂いを感じながら、ゴーシュはスニーカーをトン、と踏み鳴らした。
服装は、ベストまで着込んだ上に、派手なピンストライプでダブルブレストのジャケット姿。
パンツも、流行した当時は持てはやされた、ワイドテーパードタイプ。
いかつく見えるハイブランドのスーツに、使いこまれたランニング用のシューズはあっていなかった。
背中のシンプルなビジネスデイバッグも。
「……」
ゴーシュを見つめる愛子(仮)は、何か言わなくては、と思っても声が出せず、頭を下げた。
迷惑をかけてしまったことを、深く後悔している。
疲れた顔をしているゴーシュに、また会いたい、とは口に出せなかった。
◆
まんまと学生たちの前から逃走したゴーシュは、ストレスフルな日常を取り戻していた。
何も変わらない日常。
支社に送り込まれて、一年近くが過ぎていた。
何も変わっていない。
唐突に投げ込まれる苦情。
手を抜いたとしか思えない仕事内容。
報告も連絡も相談も何一つされていない。
長く支社と取引をしてくれていた相手からの、取引停止の申し入れ。
前の支社長の頃は良かったのにね、と相手から慰められて、憐れまれるたびに、ゴーシュは申し訳ありません、と頭を下げることしかできない。
何もしない支社長。
怯える社員。
なんだこれは。
そう思っても、ゴーシュにできるのは事後のフォローだけだ。
そろそろ、この地獄行脚も終わりかな、と直近の報告を思い出す。
先日、報告で本社を訪れた時に、社長は無事に調査を終えて、動くことになりそうだ、と言っていた。
裏から人事に手を回して、役立たずを支社長の椅子にねじ込んだ者らを追い詰めて、責任を取らせるとともに共倒れさせる。
結局、そんなところに落ち着きそうだ、と。
本社の方でけりと方をつけてくれたら、ゴーシュもやっと帰れる。
支社内の雰囲気は最悪だ。
ゴーシュが来るまでは、どうしていたのかと悩ましく思っていたら、意外なところから情報を得られた。
貴重な休憩をお局にからまれたくない、と昼休憩は外に出ているゴーシュ。
オフィスビルのロビーを掃除していた清掃員に頭を下げて、脇を通り抜けようとした時。
「あんた、大丈夫かい?」
そう声をかけられた。
きっとゴーシュが胃の辺りを押さえていたからだろう。
あとは、外用の伊達メガネで、強面が緩和されていたからかもしれない。
顔を見てみれば、清掃員は気の良さそうな女性だった。
何度も顔を見ているので、覚えていた。
なぜかいつも、おいしそうな匂いをさせている女性だ。
「ええ、まあ」
胃痛が辛くて返事を誤魔化したのに、「こっちおいで」とゴーシュはビル管理人室に連れ込まれた。
中にいた壮年の男性警備員に女性が何事か伝えて、人肌の白湯を出された時には、ゴーシュは涙が出そうになった。
家の外で、ぬるめの白湯を用意してもらう、のは意外と難しいのだ。
ありがたく白湯をいただくことにして、常に持ち歩いている胃薬を飲んだ。
女性が渡してくれた鉱泉せんべいを、ありがたく受け取った。
茶飲み話として、支社のトップが今の上司に変わってから、業績が一気に落ちこんだことを聞いた。
事前情報として聞いていたけれど、驚いてしまう。
清掃員や警備員にまで、今の右肩下がりの内情を知られているのか、とゴーシュが動かない表情のまま戦々恐々としていたら、女性がカラカラ笑った。
「あんだけ大声で叫んどりゃ聞こえるとるよ」
それはそうだ。
確かに。
ゴーシュは女性に同意してしまった。
いまだに上司はマウンティングをしようとする。
売り上げが落ちたのを、ゴーシュの責任にしたがる。
ゴーシュが来る前から業績は悪化し続けているのに。
「お前が悪いんだ」、と大声で怒鳴って、棚や机に八つ当たりをする。
声が外まで聞こえていようとお構いなしに。
配属された時からずっと。
肩書き上は部下のゴーシュを、思い通りに動かしたいらしい。
それは気が付いている。
できないけれど。
本社から派遣されてきた副支社長が、どうしてそんなに憎いのか。
社長直々の任命異動だと知らないわけがないのに、敵視されるのはなぜか。
人の心の機微の全ては、人狼のゴーシュには理解できない。
手を出されたら、正当防衛でやり返せるのに、と思っていることは社長にも言えていない。
「ご馳走になりました」
「いいんよ、いっつもあんた一人で走り回っとるから心配しとったんやって、無理しなさんな」
「ありがとうございます」
人の優しさに触れるたび、ゴーシュは天を仰ぎたくなる。
ゴーシュは人狼であることを誇りに思っている。
けれど時々、ひどく虚しくなるのだ。
一匹狼であることが。
応援ありがとうございます!
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