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本編

15 兄に伝えたおれ ※

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 さっき聞こえた言葉通りなら、尻に突っ込まれているのは兄の指なんだろう。
 それがぐりぐり、と動かされる。

「ひぅ、っうえっ」

 おれは寝台に鼻先を押し当てて、泣いた。
 なんで、なんで、なんで?
 なんで、これまでおれを大事にしてくれた兄が、こんなことをするんだ?
 そう思いながら。

 おれも兄を守ろうと、精一杯頑張ってきたつもりだった。
 力不足で本番にこけるばかりで、兄の役にたてていた自信はないけれど。

 それでも、兄はおれの一番大好きな人だから、失敗してもめげずに頑張ることができた。
 諦めようなんて一度も思わなかった。

「スノシティ、そうやって大人しくしているんだ」

 ガチャ、ごそ、と背後で兄が服を脱いでいるらしい音がする。

「おしおきだからな、痛くないとな」

 ぼろぼろと頬を伝っていく涙。
 嗚咽オエツにあわせて、体がびくり、びくり、と震える。

 処刑された時には、涙なんて出なかった。
 泣き過ぎて枯れたわけじゃない。
 初めから、泣けなかった。

 おれは自分が泣けることすら知らなかった。
 嬉しいや悲しいを感じてはいても、その意味や感情の消化の仕方を誰も教えてくれなかった。
 誰もおれに〝好き〟を与えてくれないと、思っていたから。

 兄がおれを好きでいてくれていると知って、感情を外に出せるようになった。
 ひねくれてすねることをやめた。
 兄がくれる好きに、おれも好きを返そうと思った。

 そして、嬉しくても悲しくても、涙が出ることを知った。

 お腹が痛くならない、美味しくて温かい食事を、いつでもお腹いっぱい食べさせてくれて。
 温かい毛布と、兄の腕に包まれてたっぷり眠って。
 お風呂で全身を洗ってもらって。
 知らないことを、たくさん教えてくれる。

 兄が、幸せを、与えてくれた。

 今のおれの人生には、兄がいた。
 兄がいるんだ。
 これから先も兄がいないと、おれは……。

「あにうえ」
「うん?」
「あにうえはおれ、ぼくがすき?」
「もちろんだよ、世界で一番好きだ」
「そう、なんだ」

 嫌いだからではないのか。
 好きだと、痛いお仕置きをするのか。
 これまでは幼いからと、手加減されていたのかもしれない。

「あにうえ」
「なんだい?」
「おしおき、いたい?」
「……おしおきだからね」

 今まで、一度も兄にお仕置きをすると言われたことがないのは。
 甘やかされてただけなのか。

 蹴られず。
 殴られず。
 命を狙われず。
 腐りかけの残飯を床に放られることもなく。
 毒入りの食事を食べなくて良い。
 清潔で、安心できる場所があって。
 優しい兄の腕が包んでくれて。
 兄がいてくれる。
 そんな夢のような生活は、幼いから許されるものだったのか。

「いたいおしおきがまんしたら、ぼく、あにうえのよいこになれる?」
「……っ」

 兄が望むなら。
 おれは、それで良い。
 痛くても良い。
 つらくても我慢する。

 〝痛い〟は知っている。
 処刑された時に味わった。
 ありとあらゆる痛みを。
 命を失うほどの痛みを。
 耐えられないはずがない。

 おれの一番の大事で大切は、兄なのだから。

「……」

 尻から、兄の指が抜ける。
 痛いのが来る、と体を縮こめた。

 ぎし、と寝台が軋んで、薄暗がりに白い肌を輝かせる兄が、おれの横に座る。
 体を小さくして居心地が悪そうに。

「ごめんスノシティ、酷いことを言った」

 下衣一枚をはいただけの、被毛がない兄の肌はほんのりと光っているように見えた。
 絵画の回廊に並んだ、神様の遣いのように。
 美しくて儚い。

 使用人ではない男性の言葉が、脳裏をよぎる。

 この国の〝王族は、人ならざる存在の血を引いて、人智を超えた力を持っているから、王族〟なのだと。
 代われるものなどいない。
 それは、獣人と呼ばれる姿のおれにも、当てはまるんだろうか。

「……」
「本当にすまなかった、スノシティが裸で寝ているのを見たら、目の前が真っ赤になって……」

 兄は手をギュッと膝の上で握り、でもその淡い色の瞳はおれに触れたいと願っているように見える。

「スノシティ」

 戸惑うように差し出されたハンカチに、兄の葛藤を感じる。
 少しだけ頭を上げて涙を拭いて、つまっていた鼻をかんでから、兄を見上げた。

「お仕置きしないの?」

 兄が望むなら。
 きっとなんでも耐えられる。
 でも、いきなり尻に指をつっこまれたのは、かなり驚いた。

「しない、お仕置きなんて、しない、絶対に二度としない」

 顔を上げて、毅然とした口調で言い切り、兄はおれの顔をそっと覗き込む。
 なんで兄が泣きそうな顔をするんだ。

「……こんな馬鹿な僕を、許してくれる?」
「うん」
「ありがとうスノシティ」

 ありがとうを口にしているのに、おれに手を伸ばしてくれない兄。
 また、前みたいにぎこちなくなるのは嫌だな。
 そう思った。

 上半身を起こして、座る兄をそっと押し倒した。

 目を驚きに見開いている兄の鼻先を、なめた。
 大好き。
 大好きだから、兄を怖がったりしないよ。

 兄に嫌われたと思ったんだ。
 見捨てられたくないんだ。
 兄になら、何をされても平気だよ。

 ぺろ、ぺろ、と兄の顔をなめていると、塩の味がした。
 兄の薄い色の瞳から、宝石のように涙の粒がこぼれて、白い頬を踊る。

「兄上、大好き、一番好き」
「僕もスノシティが一番、好きだ」

 ふへへ、とおれが笑うと、兄はくふふ、と笑った。
 幼い頃に戻ったようで、嬉しい。
 いつまでも兄と一緒にいたい。
 そう、強く思った。





 兄が成人したことで、少し王城内の何かが変わったようだ。

 公式な場に出られないおれは、兄の私室の周辺か、同伴で王城内をうろつくくらい。
 けれど、行動範囲の狭いおれでも、見たことのない護衛や使用人でない使用人が、兄の周囲に増えたと気がつくほどの変化だった。

 そして無事に九歳になったおれは今、兄の執務室にいる。

 執務室というのは、書いたり読んだりする仕事の部屋だ。
 おれにできる事はないけれど、兄の補佐官という肩書きを得た。

 おれの仕事内容は、兄が望んだら腕を広げて抱きしめてもらうのを待つ。
 あとは一緒にお茶休憩をする。
 おやつを食べさせてもらう。
 兄に応援の手紙を書いて、目の前で声に出して読む。
 ……それくらいしかない。

 長い鉤爪が邪魔で、人の使う筆記具なんて持てない。
 細すぎるんだよ。

 おれ専用に兄が用意してくれた、極太の木炭ペンがあるけれど、あれは執務室の書類には使えないって。
 しょんぼり。

 せっかく、文字を書く練習を続けてるのに。
 兄に手紙を書くくらいしか、文字を書く機会がない。

「殿下」
「はい」

 兄が成人したから、と何故かおれまで変な呼び方をされるようになった。
 デンカとは、王族の子供という意味らしい。

 おれは存在しない王子なのに、なんでそんな呼び方をされてるのか。
 そう思っていたおれに、以前に王族のことを教えてくれた使用人でない使用人の男性が、色々と教えてくれた。

 なぜか、いつも兄がいない時に。

 使用人や護衛とは違う彼ら、彼女らは、文官という人々らしい。
 護衛のように暗殺者とは戦えないけれど、悪さをする貴族と戦いますと言う。
 執務室が戦場なんだ。

 すごいよな。
 執務室で頑張って仕事をしている兄の姿が、今まで以上に格好良く見える。
 きぞくってのが何かは分からないけどさ。

 兄の周りには戦う人が多い。
 おれも見習わないといけない。

 そういえば「兄が成人してもだいじょうぶだった」と伝えたら「……左様ですか」と、すごく納得いってない顔をされた。
 ぼそりと「一生の覚悟を決めたなら、それでも良いか」とつぶやいていた。

 その言葉の意味を聞こうとしたところで、見つからない資料を求めて部屋を出ていた兄が、執務室に戻ってきた。

 おれはこの後、その言葉の意味を聞く機会を得られなかった。
 この文官の男性が、兄の執務室に来なくなったから。

 兄に男性のことを聞こうにも、文官だってことしか知らない。
 出入りする文官の見分けはついても、個人の情報なんて持っていない。

 兄の教師も、兄も教えてくれなかったことを教えてくれた、名前も知らない文官の男性。
 彼は、なにをおれに言いたかったのだろう。

 
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