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第138話 ワールドカップ33
しおりを挟む【綾乃視点】
ホテルの静かな一室。
私の目の前のテレビでは、世界が熱狂するワールドカップの試合が映し出されていた。
日本 vs スペイン
そして、そのピッチの中央には――飯田雷丸。
画面越しでも伝わってくる、彼の圧倒的な存在感。
飯田さんがボールを持つたび、まるで稲妻が走るようにフィールドが揺れる。
彼が駆けるたびに、風が巻き起こるかのような錯覚すら覚える。
――かっこいい。
その一言が、自然と胸の中に浮かんだ。
でも、そんな言葉を口にする間もなく、
スマホ越しに弟の直人の叫び声が炸裂した。
「うぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!!」
まるで自分が試合に出ているかのような絶叫。
私は思わずスマホを耳から少し離した。
「雷丸さん、かっこよすぎるぅぅぅぅぅ!!!!!」
直人はもう完全に雷丸さんのファンになっているらしい。
というか、サッカーの試合をここまで全力で応援するのを初めて見た気がする。
「ねぇちゃん!ねぇちゃんもそう思うよな!? もう、ヤバいって!この試合!!」
「う、うん……まあ、確かに……」
正直に言うと、私も同じ気持ちだった。
飯田さんは、かっこいい。
サッカーの実力だけじゃなく、泥臭くても、どんなに苦しくても、絶対に諦めないその姿勢が――眩しくて、胸を打つ。
でも、そんな私の思考をぶち破るように、直人が突然、全く違う話題をぶち込んできた。
「なぁ、ねぇちゃん……雷丸さん、あんなにかっこいいのにさ?」
「……うん?」
「ねぇちゃんのこと、ハーレムに入れたいって言ってくれてるんだぜ!? 入れよ、ねぇちゃん!!」
――ぶっ。
思わず、飲んでいた水を吹き出しそうになった。
な、なにを突然……!?
「ちょっ……なおっ……!? なに言って――」
混乱する私をよそに、直人の声はさらに熱を帯びる。
「だってそうだろ!? あんなにすごい男が、ねぇちゃんのことを本気で幸せにしたいって思ってるんだぞ!? こんな機会、二度とねぇって!!」
スマホ越しの直人の真剣な声に、私は思わず言葉を失った。
確かに……雷丸さんは、何度も私を誘ってくれている。
「お前も俺のハーレムに入れ」って、冗談のように――でも、どこか本気で。
……でも。
「私は……そんな簡単に決められないよ。」
静かにそう答えると、直人が一瞬黙った。
でも、すぐに――
「……ねぇちゃん。」
今度は、さっきまでの熱狂とは違う、どこか優しい声だった。
「俺、知ってるよ。ねぇちゃんがずっと我慢してきたこと。」
その言葉に、私は胸が締めつけられた。
「父さんと母さんの治療費を払うために……ねぇちゃん、本当はアイドルになりたかったのに、それを諦めて、キャビンアテンダントになったんだろ?」
――直人は、分かっていた。
私は昔から、歌が好きだった。
ステージで踊るのも好きだった。
アイドルになることが夢だった。
でも――
両親が事故で植物状態になり、莫大な治療費が必要になった。
まだ学生だった私は、夢を追うことをやめ、現実と向き合う道を選んだ。
稼がなければいけなかった。
直人を守らなければいけなかった。
だから――私は夢を諦めた。
それが、当然のことだったから。
でも、直人は、そんな私の過去を、そして私の本当の気持ちを知っていた。
「ねぇちゃん……俺さ、ずっと思ってたんだよ。」
スマホ越しに聞こえる直人の声は、どこか寂しげだった。
「ねぇちゃんはいつも“家族のため”に動いてくれてた。俺のために、父さん母さんのために、ずっと頑張ってくれてた。」
「……」
「だからさ……俺、ねぇちゃんにも幸せになってほしいんだよ。」
――幸せになってほしい。
その言葉が、胸に深く突き刺さる。
「ねぇちゃんが何を考えてるのかは、俺には全部は分からない。でも、俺は雷丸さんなら絶対にねぇちゃんを幸せにしてくれるって思う。」
「……そんなこと、保証なんてないよ。」
「でも、信じてみてもいいんじゃないか?」
直人の声は、まっすぐだった。
真剣で、優しくて、どこか寂しそうで――
だからこそ、私は何も言えなくなった。
スマホの画面では、飯田さんが映し出されている。
最後のゴールを決めた瞬間、拳を突き上げ、勝利を噛みしめる彼の姿。
力強く、まっすぐで、自分の信じる道を決して曲げない男。
私は――どうすればいいのだろう。
答えは、まだ出ない。
でも、直人の言葉は、確かに私の心の奥に小さな何かを残した。
私はそっと、画面に映る飯田さんを見つめた。
熱い歓声を浴びながら、仲間たちに囲まれる彼の姿を――
少しだけ、羨ましいと思いながら。
――――――――――
直人との通話を切ったあと、私は心の中にモヤモヤとしたものを抱えたまま、ホテルを出た。
夜の風がリオの空気をひんやりと撫でる。
サンダル越しに感じるアスファルトの熱が、昼間の名残をかすかに伝えていた。
いつものように、何気なく、近くのコンビニへ。
サンドイッチと、甘いお菓子を少し。
ホテルの部屋で食べる、ささやかな晩ご飯を買いに――その時。
「――こんばんは、Ms.綾乃。」
背後から声をかけられた。
一瞬で、時間が止まったような錯覚。
全身の血が逆流するような感覚に、私は振り向くことすら忘れそうになった。
でも、声に覚えがある。
忘れたくても、忘れられない顔――
アレクサンドル・ヴァルター。
先日、ワールドカップの会場を混乱に陥れたテロ組織“ヴェールノクターン”のリーダー。
威圧感すら漂うその黒いスーツ姿は、街灯の下で異様な存在感を放っていた。
「……!」
私の心臓が、本当に止まりそうになる。
咄嗟に後ずさりしようとした――けれど。
「驚かせてすまない。君に危害を加えるつもりはない。安心してくれたまえ。」
彼の声は、冷たくも落ち着いていた。
だが、その笑みの奥に潜む“何か”が、私の心を締めつける。
「……何の用……ですか?」
震える声を必死に抑えて問うと、アレクサンドルは一歩、私の方へ近づいた。
「単刀直入に言おう――取引をしに来た。」
「……取引……?」
「そうだ、取引だ。」
彼はスーツのポケットから封筒を一枚、丁寧に取り出し、私の目の前に差し出した。
中には、明らかに桁外れの金額が書かれた契約書のようなもの――。
「君には、あるお願いをしたい。……飯田雷丸を裏切ってほしい。」
その言葉に、私は息を呑んだ。
「――っ! な、何を言って……そんなこと、できるわけ……!!」
「冷静に考えてくれ、Ms.綾乃。」
アレクサンドルの声は淡々としていた。
まるでビジネスの一環のように。
「君のことは調べさせてもらった。若くしてご両親の事故に遭い、キャビンアテンダントとして働きながら、植物状態の両親の治療費を賄っている――並大抵の努力ではない。」
私は、彼の言葉を否定できなかった。
事実だった。
誰も知らないはずの、私の“現実”を、この男は握っている。
「我々がその費用を全て肩代わりしよう。今後の生活も保証する。」
「……そんな、卑怯な……」
「それだけじゃない。」
アレクサンドルはさらに、もう一つの封筒を取り出した。
それには、芸能事務所のロゴが入っている。
かつて、私が夢見た世界――アイドル。
「君を“本物のアイドル”にすることもできる。我々の力を使えば、すぐにでも。」
「アイドルに……?」
「そうだとも。君の声、顔、資質――どれも一級品だ。今からでも、十分通用する。過去を嘆く必要などない。これからだ、Ms.綾乃。人生の帳尻は、これから合わせればいい。」
その声は、悪魔の囁きのように甘く、静かに、私の心の奥に侵入してくる。
両親の治療費が、全て払える。
直人に負担をかけることもなくなる。
夢だったアイドルになれる。
そして――
私は、私自身の人生を取り戻せる。
「……っ」
雷丸さんの顔が、一瞬、頭をよぎった。
あの勝利の瞬間、拳を突き上げて笑っていた、あの姿が――
私の心を必死に引き止めようとした。
でも。
私は、長い沈黙の後――
その誘惑に、乗ってしまった。
唇を噛みしめながら、封筒を震える手で受け取る。
その瞬間、アレクサンドルの口元が微かに緩んだのが見えた。
「賢明な判断だ、Ms.綾乃。」
夜のリオの風が、まるで何かを警告するように、私の髪を優しく揺らした。
でも――その風すらも、今の私を止めることはできなかった。
胸の奥で、何かが壊れる音がした気がした。
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