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最終話 沢蟹公爵と呼ばれた男~その愛の顛末~
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「あぁ、俺のアイシア。今朝の君も愛の女神のように美しいよ」
オルガニウスは詩を諳んじるように囁く。
「愛している、愛している、愛している、愛している」
「もう旦那様ったら、本日のお仕事に遅れましてよ」
アイシアはまんざらでもない表情を浮かべている。
あれからおよそ二年が経過した。
妻を愛そうとしなかった夫は周囲からも噂になるほどの溺愛っぷりを披露している。
悪夢から目覚めては優しい女神の笑みに癒される日々。
その強烈な体験から、オルガニウスの精神は大きく変容してしまう。
妻に優しくすれば悪夢は薄れる。
逆に彼女を悲しませるようなことをすれば悪夢は恐ろしさを増す。
この二年間でさすがの彼も学んだ。
愛を囁くことには慣れない。
最初は上辺だけの言葉だった。
だが、アイシアは素直に喜んだ。
花が綻ぶように笑い、より一層夫に愛を注ぐようになった。
悪夢からの解放と妻の優しさ。
地獄から救い出してくれる女神。
オルガニウスは、そんな意識を抱くようになった。
やがて、彼女に本当の意味での深い愛情を注ぐようになる。
二年前の冷めた自分に対しては「全く当時の俺は愚かだった」と考えており、悪夢を見ていたことも既に忘却している。
あまりに強烈な苦痛だったため、妻への理不尽な仕打ちも含めて記憶の奥底へと沈めてしまったのである。それでも本能的に妻を悲しませてはいけないと感じており、時折まるで呪文のように愛を囁き続けた。
「愛している、あぁ、愛しい人」
ところ変わって、天に座す夢の神に話は移る。
アイシアの前世の父親だ。
腕を組み、地上を見下ろしながらため息をつく。
果たして、これで良いのだろうか。
あんな男は娘にふさわしくない。
保身に走り、己の醜さから、罪から逃げた。
貴き愛と卑しき愛。
愛に貴賤を付ける言動も不快感を覚えた。
オルガニウスの理屈に則るのなら、今の彼は誰よりも卑しき愛を囁いている。
歪んだ男の愛こそ、果たして貴ぶべきものだろうか。
恐れから逃れるために愛に縋っているだけに過ぎないのではなかろうか。
自身の過保護を棚に上げても、複雑な顔を浮かべずにはいられない。
あのような愛の形は果たして善いものなのだろうか。
そう疑問を口にする。
隣に座る愛の神は、朗らかな笑みで己の伴侶にこう囁いた。
あら貴方、愛に貴賤はありませんわよ?
ただ、彼らの今を素直な目で見れば良いのです。
過程よりも結果を重んじる妻らしい言葉だ。
都合の悪いことは知らなければいい、聞かなければいい。
ないものとすればいい。
彼女の与えた加護もまた、その思想を強く反映したものだ。
しかし夢の神は納得しない。
オルガ二ウスの心境の変化について、もう少し細かく追ってみよう。
ある日、彼は妻からハンカチーフを手渡される。
沢蟹の美しい刺繍がされていた。
苦笑いしながらも受け取る。
二人で沢に遊びに行った際の出来事だ。
オルガ二ウスにとってあまり好ましい場所ではない。
精神的に病んでいた頃の夫を見かねてアイシアが連れ出したのだ。
呻きながら、時折『沢蟹』と漏らしていたことから好きな場所だと誤解されていた。
彼は沢に力なく素足を浸し、ぼんやりとしていた。
そのうち沢蟹がまとわりつきはじめ、絶叫した。
アイシアは「あらあら」と全く慌てる様子もなく、夫の身体から沢蟹を離す。
当然乱暴に叩きつけたりはしない。
沢の中へとゆったりと戻してやった。
彼女は優しく夫の身体を検分する。
「どこも傷はありませんね。大丈夫ですよ」
その一言に、オルガニウスはハッとする。
夫の醜態を前にしても、彼女は引く様子も嫌そうな顔もしない。
ただまっすぐに自分を見つめてくれていた。
かつて母親から顧みられなかった幼い日の心の傷跡。
それを優しく手のひらで撫でられたような気分だった。
その時期から彼は妻への態度を軟化させていく。
理不尽な要求も取り下げた。
自分の行いがあまりに幼く、恥ずかしくなったのだ。
狂気の中で正気を見つけた彼は、徐々に落ち着きを取り戻していく。
価値観が大きく変わったわけではないが、度を超すような試し行為はしなくなった。
その後は「あれが食べたい、これは美味しくない」「あの本はつまらなかったが、君はどう思った?」など、そこそこ素直に会話をするようになった。
妻の微笑みへの慄きは時折思い出すものの、その意味はもはやよくわからない。
ただ、拭いきれぬ不安として、呪文のような「愛している」は生涯言い続けた。
二人の間に子どもは故あって生まれなかった。
やがて夫婦は遠縁の、親を失った子どもを養子として迎え入れる。
後に公爵の跡継ぎとなる彼いわく、両親は常に仲睦まじい夫婦だったと言う。
深く知らねば、誰しもがそのように捉えるだろう。
だが、オルガニウスの愛は独特だった。
彼のアイシアに対する印象は女神や聖母であった。
妻ではなく、もはやより高みに置いた存在になっている。
彼は初夜の役割を果たすことを永遠に忘れた。
そういった対象ではなくなっていたからだ。
アイシアはそれを指摘することも何かをせがむこともなかった。
では、彼女の方はどうであろう。
あるとき近しい友人に、夫の印象について問われた。
アイシアは悪戯っぽく答える。
「本当は少しだけ驚きましたの。彼とどう接していいか迷いました。だけど、小さい子に接するようにすれば良いのかもと思い、そうしていました。私は子どもをあやすのも得意なんですよ」
アイシアの愛もまた、少し変わっていた。
夫は彼女のそうした言動を知らない。
ここからは余談である。
オルガニウスはいつからか、自分の知らぬところで思わぬ異名を得ていた。
沢蟹公爵。
アイシアは刺繍を趣味としていた。
友人や知人を通じて、それは広まる。
その見事な腕は領内でも次第に有名になりはじめた。
まるで織物の女神のごとく巧みな技術と繊細な表現力。
特に沢蟹をモチーフとした刺繍が多いことで知られていた。
公爵様の奥方は沢蟹を好まれている。
いや、公爵様の方が沢蟹をお好きなのだろう。
そうした噂が囁かれはじめ、徐々に独り歩きしていく。
やがてオルガニウスは沢蟹公爵と呼ばれることになる。
彼の耳にそれが入ると、徐々に彼の様子が変わっていった。
当初は妻への惚気もあって素直に受け入れていた。
しかし、かつての悪行が尾を引いた。
彼と関係を持っていた女性たちが良からぬ噂を流した。
理不尽な仕打ちや態度など、それなりに広まっていた。
異性に対して愛の貴賤を問うような発言で追い詰めた、寝物語の読み聞かせを強いる、沢蟹への異様な執着がある、蟹のように横向きに歩く等、虚実ない交ぜとなって奇怪な人物像が語られるようになる。
後年、それらの話が耳に入った際、オルガニウスは激高した。
愛妻家となっても、聖人君主となったわけではない。
妻に甘やかされ、年齢を重ねてより頑なになった部分もある。
やがて病を患い、誰もが自分を蔑むという妄想に駆られた。
狂いはじめ、沢に火をつけ蟹を根こそぎ殺せなどという指示を出しかける。
これには普段は穏やかな妻が強く戒め、オルガニウスも小さく萎れたという。
彼は体調を崩し、うなされることが多くなっていた。
記憶の奥底に封じていた恐ろしい記憶。
かつてアイシアや女たちに行った理不尽な振る舞い。
妻を迎えてからの不気味な現象。
それらが一気によみがえり、彼を夢の中で苛んだ。
初夜の役割も果たさず、愛することはないと言い放った。
その後も呆れ果てるような振る舞いを繰り返した。
夢か現かわからぬ世界で妻を詰り、殴った。
それらの全てを悪夢の中で思い出す。
許してくれ、俺が悪かった。
ただ寂しかっただけなのだ。
苦しみもがき、正気に返るとアイシアに泣きつく。
彼女に許しを請い続ける。
死に際に口にしたのは、愛の囁きではなかった。
「あぁ、アイシア。俺を呪わないでくれ」
あまりにみじめな最期であった。
くどいほど愛を囁いていたにもかかわらず、結局はそれか。
夢の神は最後まで見届けて、どうにも虚しくなる。
自分たちが与えた加護も無関係ではない。それゆえに関係の歪みを解消しきれなかったとも言える。しかし、最初からまっとうな相手であればここまで捻じれは起こらなかっただろう。
アイシアは愛の神の加護で良からぬ言葉は耳に届かない。
けれど彼女は夫が最後に何かを伝えようとしたことはわかった。
恐らくそうであろうという言葉は一つ。
それに対して、彼女は静かに厳かに応える。
彼の魂に届くように祈りを込めて。
「はい。私も愛しています、オルガニウス。私に愛することを教えてくれて、ありがとう」
アイシアはこの上なく優しい表情を浮かべていた。
この世に生まれて良かった、そう言わんばかりの輝くような笑顔だった。
夢の神は、そのときようやく胸のわだかまりが消えるのがわかった。
父として、アイシアが本当に幸福なのかどうかを気に病んでいたのだ。もっと良い伴侶が選べたかもしれない、自身の子をその腕に抱き、血のつながった孫たちに囲まれていたかもしれない。
それをできなかったのは夫であるオルガニウスの歪みのせいだ。いつまで経っても大人になれぬ、半端な男。
けれど、アイシアの混じりけのない微笑みを見て、父はようやく安堵する。どのような愛を抱こうとも、確かに彼女は幸せだったのだ。
夢の神はオルガニウスを赦し、彼を悪夢から永遠に開放した。
彼の死後。
アイシアは義理の息子やその妻、孫に囲まれ幸せな生涯を全うする。
沢蟹の刺繍は亡くなる寸前まで編み続けた。
今では地元の民芸品として広まり、長く親しまれている。
それに付随し、『沢蟹公爵』の名はどこまでも独り歩きした。
悪人と言うよりは変人奇人という認識が主流だ。
無関係の出来事に紐付けられることもあれば、実在を疑われることもある。
妻への愛を綴った手紙や石碑などが彼の生きた証として挙げられた。
いずれにせよ恐らく愛妻家であったと伝えられている。
オルガニウスは詩を諳んじるように囁く。
「愛している、愛している、愛している、愛している」
「もう旦那様ったら、本日のお仕事に遅れましてよ」
アイシアはまんざらでもない表情を浮かべている。
あれからおよそ二年が経過した。
妻を愛そうとしなかった夫は周囲からも噂になるほどの溺愛っぷりを披露している。
悪夢から目覚めては優しい女神の笑みに癒される日々。
その強烈な体験から、オルガニウスの精神は大きく変容してしまう。
妻に優しくすれば悪夢は薄れる。
逆に彼女を悲しませるようなことをすれば悪夢は恐ろしさを増す。
この二年間でさすがの彼も学んだ。
愛を囁くことには慣れない。
最初は上辺だけの言葉だった。
だが、アイシアは素直に喜んだ。
花が綻ぶように笑い、より一層夫に愛を注ぐようになった。
悪夢からの解放と妻の優しさ。
地獄から救い出してくれる女神。
オルガニウスは、そんな意識を抱くようになった。
やがて、彼女に本当の意味での深い愛情を注ぐようになる。
二年前の冷めた自分に対しては「全く当時の俺は愚かだった」と考えており、悪夢を見ていたことも既に忘却している。
あまりに強烈な苦痛だったため、妻への理不尽な仕打ちも含めて記憶の奥底へと沈めてしまったのである。それでも本能的に妻を悲しませてはいけないと感じており、時折まるで呪文のように愛を囁き続けた。
「愛している、あぁ、愛しい人」
ところ変わって、天に座す夢の神に話は移る。
アイシアの前世の父親だ。
腕を組み、地上を見下ろしながらため息をつく。
果たして、これで良いのだろうか。
あんな男は娘にふさわしくない。
保身に走り、己の醜さから、罪から逃げた。
貴き愛と卑しき愛。
愛に貴賤を付ける言動も不快感を覚えた。
オルガニウスの理屈に則るのなら、今の彼は誰よりも卑しき愛を囁いている。
歪んだ男の愛こそ、果たして貴ぶべきものだろうか。
恐れから逃れるために愛に縋っているだけに過ぎないのではなかろうか。
自身の過保護を棚に上げても、複雑な顔を浮かべずにはいられない。
あのような愛の形は果たして善いものなのだろうか。
そう疑問を口にする。
隣に座る愛の神は、朗らかな笑みで己の伴侶にこう囁いた。
あら貴方、愛に貴賤はありませんわよ?
ただ、彼らの今を素直な目で見れば良いのです。
過程よりも結果を重んじる妻らしい言葉だ。
都合の悪いことは知らなければいい、聞かなければいい。
ないものとすればいい。
彼女の与えた加護もまた、その思想を強く反映したものだ。
しかし夢の神は納得しない。
オルガ二ウスの心境の変化について、もう少し細かく追ってみよう。
ある日、彼は妻からハンカチーフを手渡される。
沢蟹の美しい刺繍がされていた。
苦笑いしながらも受け取る。
二人で沢に遊びに行った際の出来事だ。
オルガ二ウスにとってあまり好ましい場所ではない。
精神的に病んでいた頃の夫を見かねてアイシアが連れ出したのだ。
呻きながら、時折『沢蟹』と漏らしていたことから好きな場所だと誤解されていた。
彼は沢に力なく素足を浸し、ぼんやりとしていた。
そのうち沢蟹がまとわりつきはじめ、絶叫した。
アイシアは「あらあら」と全く慌てる様子もなく、夫の身体から沢蟹を離す。
当然乱暴に叩きつけたりはしない。
沢の中へとゆったりと戻してやった。
彼女は優しく夫の身体を検分する。
「どこも傷はありませんね。大丈夫ですよ」
その一言に、オルガニウスはハッとする。
夫の醜態を前にしても、彼女は引く様子も嫌そうな顔もしない。
ただまっすぐに自分を見つめてくれていた。
かつて母親から顧みられなかった幼い日の心の傷跡。
それを優しく手のひらで撫でられたような気分だった。
その時期から彼は妻への態度を軟化させていく。
理不尽な要求も取り下げた。
自分の行いがあまりに幼く、恥ずかしくなったのだ。
狂気の中で正気を見つけた彼は、徐々に落ち着きを取り戻していく。
価値観が大きく変わったわけではないが、度を超すような試し行為はしなくなった。
その後は「あれが食べたい、これは美味しくない」「あの本はつまらなかったが、君はどう思った?」など、そこそこ素直に会話をするようになった。
妻の微笑みへの慄きは時折思い出すものの、その意味はもはやよくわからない。
ただ、拭いきれぬ不安として、呪文のような「愛している」は生涯言い続けた。
二人の間に子どもは故あって生まれなかった。
やがて夫婦は遠縁の、親を失った子どもを養子として迎え入れる。
後に公爵の跡継ぎとなる彼いわく、両親は常に仲睦まじい夫婦だったと言う。
深く知らねば、誰しもがそのように捉えるだろう。
だが、オルガニウスの愛は独特だった。
彼のアイシアに対する印象は女神や聖母であった。
妻ではなく、もはやより高みに置いた存在になっている。
彼は初夜の役割を果たすことを永遠に忘れた。
そういった対象ではなくなっていたからだ。
アイシアはそれを指摘することも何かをせがむこともなかった。
では、彼女の方はどうであろう。
あるとき近しい友人に、夫の印象について問われた。
アイシアは悪戯っぽく答える。
「本当は少しだけ驚きましたの。彼とどう接していいか迷いました。だけど、小さい子に接するようにすれば良いのかもと思い、そうしていました。私は子どもをあやすのも得意なんですよ」
アイシアの愛もまた、少し変わっていた。
夫は彼女のそうした言動を知らない。
ここからは余談である。
オルガニウスはいつからか、自分の知らぬところで思わぬ異名を得ていた。
沢蟹公爵。
アイシアは刺繍を趣味としていた。
友人や知人を通じて、それは広まる。
その見事な腕は領内でも次第に有名になりはじめた。
まるで織物の女神のごとく巧みな技術と繊細な表現力。
特に沢蟹をモチーフとした刺繍が多いことで知られていた。
公爵様の奥方は沢蟹を好まれている。
いや、公爵様の方が沢蟹をお好きなのだろう。
そうした噂が囁かれはじめ、徐々に独り歩きしていく。
やがてオルガニウスは沢蟹公爵と呼ばれることになる。
彼の耳にそれが入ると、徐々に彼の様子が変わっていった。
当初は妻への惚気もあって素直に受け入れていた。
しかし、かつての悪行が尾を引いた。
彼と関係を持っていた女性たちが良からぬ噂を流した。
理不尽な仕打ちや態度など、それなりに広まっていた。
異性に対して愛の貴賤を問うような発言で追い詰めた、寝物語の読み聞かせを強いる、沢蟹への異様な執着がある、蟹のように横向きに歩く等、虚実ない交ぜとなって奇怪な人物像が語られるようになる。
後年、それらの話が耳に入った際、オルガニウスは激高した。
愛妻家となっても、聖人君主となったわけではない。
妻に甘やかされ、年齢を重ねてより頑なになった部分もある。
やがて病を患い、誰もが自分を蔑むという妄想に駆られた。
狂いはじめ、沢に火をつけ蟹を根こそぎ殺せなどという指示を出しかける。
これには普段は穏やかな妻が強く戒め、オルガニウスも小さく萎れたという。
彼は体調を崩し、うなされることが多くなっていた。
記憶の奥底に封じていた恐ろしい記憶。
かつてアイシアや女たちに行った理不尽な振る舞い。
妻を迎えてからの不気味な現象。
それらが一気によみがえり、彼を夢の中で苛んだ。
初夜の役割も果たさず、愛することはないと言い放った。
その後も呆れ果てるような振る舞いを繰り返した。
夢か現かわからぬ世界で妻を詰り、殴った。
それらの全てを悪夢の中で思い出す。
許してくれ、俺が悪かった。
ただ寂しかっただけなのだ。
苦しみもがき、正気に返るとアイシアに泣きつく。
彼女に許しを請い続ける。
死に際に口にしたのは、愛の囁きではなかった。
「あぁ、アイシア。俺を呪わないでくれ」
あまりにみじめな最期であった。
くどいほど愛を囁いていたにもかかわらず、結局はそれか。
夢の神は最後まで見届けて、どうにも虚しくなる。
自分たちが与えた加護も無関係ではない。それゆえに関係の歪みを解消しきれなかったとも言える。しかし、最初からまっとうな相手であればここまで捻じれは起こらなかっただろう。
アイシアは愛の神の加護で良からぬ言葉は耳に届かない。
けれど彼女は夫が最後に何かを伝えようとしたことはわかった。
恐らくそうであろうという言葉は一つ。
それに対して、彼女は静かに厳かに応える。
彼の魂に届くように祈りを込めて。
「はい。私も愛しています、オルガニウス。私に愛することを教えてくれて、ありがとう」
アイシアはこの上なく優しい表情を浮かべていた。
この世に生まれて良かった、そう言わんばかりの輝くような笑顔だった。
夢の神は、そのときようやく胸のわだかまりが消えるのがわかった。
父として、アイシアが本当に幸福なのかどうかを気に病んでいたのだ。もっと良い伴侶が選べたかもしれない、自身の子をその腕に抱き、血のつながった孫たちに囲まれていたかもしれない。
それをできなかったのは夫であるオルガニウスの歪みのせいだ。いつまで経っても大人になれぬ、半端な男。
けれど、アイシアの混じりけのない微笑みを見て、父はようやく安堵する。どのような愛を抱こうとも、確かに彼女は幸せだったのだ。
夢の神はオルガニウスを赦し、彼を悪夢から永遠に開放した。
彼の死後。
アイシアは義理の息子やその妻、孫に囲まれ幸せな生涯を全うする。
沢蟹の刺繍は亡くなる寸前まで編み続けた。
今では地元の民芸品として広まり、長く親しまれている。
それに付随し、『沢蟹公爵』の名はどこまでも独り歩きした。
悪人と言うよりは変人奇人という認識が主流だ。
無関係の出来事に紐付けられることもあれば、実在を疑われることもある。
妻への愛を綴った手紙や石碑などが彼の生きた証として挙げられた。
いずれにせよ恐らく愛妻家であったと伝えられている。
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