rose of silver

春野いちご

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 僕がまず覚えることは、屋敷内の構造なのだと実感する。
 掃除を終えて戻ろうとしたら、一体どこへ戻るのかがわからなくなってしまったのだ。
 一階の北側の部屋の掃除をするように申しつかった。
 多分、これで全部だと思う。
 終わった後は、掃除道具を物置部屋に仕舞ってから、厨房に来るようにと言われた。
 物置部屋は使用人の部屋がある離れの方にあるのは知っているのだけど、どっち側だったかがさっぱりわからない。
 貴族の家というのは本当に広い。
 使っていない部屋が殆どだというから、庶民の僕からすると無駄とも思えるのだけど、客が来たときには必要だとか、代々受け継がれたものだと考えると全否定はできなくなる。
 僕には一生縁のない話ではあるのだけど……
 とにかく、この広い屋敷の中を短時間で移動できるようにするには、やはり案内が必要だ。
 本来なら、新人の僕には指導してくれる先輩がいるはずなのだけど、掃除をしておけと言い置いて、どこかへ行ってしまったんだ。
 先輩は僕よりも年下かと思ったくらい背も低く、小柄だ。
 赤茶けた髪に大きな目、そしてよく喋る口。
 気さくでいい人だから、何か理由があっていなくなったんだろうけど、そろそろ戻ってきてくれてもいいと思う。

「ジャンさんはどこへ行ったんだろう」

 その声に反応するかのように、ジャンさんの声が聞こえてきた。
「おーいっ、アレクッ」
 バタバタと走ってくるのが見えて、僕は手を振った。
 ああ、これで迷わずにすむと胸を撫で下す。
「良かった。僕、物置部屋に戻れなくて困っていたんです」
「何を悠長なことを言ってんだ」
 ホッとする僕と違って、ジャンさんは何故か慌てた様子で、僕の背中を叩く。
「痛いですっ。何するんですかっ」
「お前、一体何をやったんだ?」
 問われて、首を傾げる。
 はて? 僕は何かしたんだろうか。
「言われた通り、掃除をしましたけど……」
「そういうことじゃねぇ。ギルバート様に何をしたんだって訊いてるんだ」
 ギルバート様と聞いて、ドキリとする。
「ギルバート様って……ギルバート様がどうしたんですか?」
「だから、それを俺が訊いてるんだってぇの」
 要領を得ない話だな。
 一体、僕が何をしたって言うんだろう。
 昨日からこの屋敷で働くことになったけれど、まだギルバート様には会ってもいない。
 使用人にいちいち挨拶なんかしないと言われて、落ち込んでいたんだけど。
 そうだよ、会ってもいないのに何もできないじゃないか。
 それとも、まさか……もう知られた?
 グルグル考えていると、ジャンさんに腕を引っ張られた。
「考えていてもしょうがねぇ。ほら、行くぞっ」
「えっ、あっ、掃除道具が」
 腕を引っ張られて、バケツを落としてしまう。
「そんなの放っておけ。ギルバート様がお前をお呼びなんだぞ」
「僕をっ!」
「ああ、何をやったかは知らねぇが、ちゃんと謝るんだぞ」
 謝るのはいいけど、本当にギルバート様は僕のことを承知で呼んでくれたんだろうか。
 ドキドキしながら、僕はジャンさんに引っ張られて、ギルバート様の部屋へと連れて行かれた。
 部屋の前には家令のキースさんが立っていた。
「ああ、来たな」
 キースさんは優しく僕に笑いかけた。
 前任の家令の息子であるキースさんは年若いのに、この屋敷の使用にを束ねている人だ。ジャンさんからは厳しい人だと聞いているけど、そんな風には思えないんだ。
 昨夜だって、部屋にいない僕のことを捜してくれたみたいで、迷惑をかけてしまったのに、怒るどころか心配してくれたんだ。
 キースさんはきっと優しい人なんだって思う。
「ジャン、お前はもう持ち場に戻っていい。ご苦労だったな」
「はい。では、失礼します」
 さっきまでの僕への態度とは違って、ジャンさんは礼儀正しくお辞儀をすると、逃げるようにして去って行った。

「アレク、一つ訊くが、ギルバート様に呼ばれるようなことをした覚えはあるか?」

 思い当たることはある。
 けれど、それをギルバート様に知られたのかどうかはわからない。
 随分と昔の話だ。
 それに、ギルバート様は一度も僕の顔を見ていないんだ。
 見ていたとしても、成長した僕に気づくはずがない。

「ああ、そんなに深刻にならなくてもいい。もし、何かしたのだったら、正直に謝ればいい。俺からもとりなしてやろう」
「……あの……ギルバート様は、何と仰っているんですか?」
 緊張しながら、キースさんの返事を待つ。
「詳しいことは俺も知らない。ただ、お前を部屋に呼ぶように仰せつかった。アレクに何も思い当たることがないなら、堂々としていればいい」
 キースさんは、僕の背中を数度優しく撫でてくれた。
 緊張に固まっていた身体が、少し緩和する。
「さあ、ギルバート様が待っている」
 キースさんは、部屋のドアをノックした。
 中からは返事はない。
「キースです。アレクを連れて参りました」
 キースさんがドア越しに声を掛けるも、やっぱり中からの返事はなかった。けれど、キースさんは気にも留めずに、ドアを開いた。
 緊張が増して、心音が大きく耳に響く。
 キースさんの後をついて部屋に入ると、僕は深くお辞儀をした。
「僕は……アッ……アッ……アレッ」
 ちゃんと名乗らなきゃいけないのに、言葉が詰まって出てこない。
「アレク、落ち着け」
 キースさんに言われたけど、落ち着いてなんかいられないんだ。
 だって、ずっと会いたいと思っていた人なんだから……
 頭を上げて、改めてギルバート様を見る。
 広い部屋の窓際にいたギルバート様がこちらに向かってきた。
 その姿に、心臓が飛び出しそうになる。
 まさか……まさか……思いも寄らないギルバート様の姿に、僕は視線を外せなくなった。
「君がアレクですか」
 問われて、ハッとする。
「あぁ……あ……ぁ」
 あまりのショックに言葉が出てこない。
「アレク、ちゃんと答えないか」
 キースさんに背中を押されて、ふらりとギルバート様に倒れ込みそうになる。
 吐息が掛かりそうなくらい顔が近づいて、その綺麗な菫色の瞳とまともに視線が合いそうになる。
 吸い込まれそうな瞳。
 どこかで見たような……
「アレク、何をやってるんだ」
 キースさんに引き起こされて、僕は自分の失態に気づく。
「ああぁ、すみません。すみません」
 何度も頭を下げて、僕はギルバート様に謝った。
 どうしよう、恥ずかしい。
 あんまり綺麗な瞳をしていたから、魅入ってしまった。
「キース、君はもういいです。彼と少し話がしたい」
 ギルバート様の言葉に驚いたのは、僕よりもキースさんだった。
 何か不味いことでもあるんだろうか。
 不安が胸を過ぎる。
「……もし、この者が何か不始末をしたのであれば、私の責任です。私にもお聞かせ願えませんか」
 僕、怒られること必至なんだろうか。
 もし、あのことをギルバート様が知ったのなら、怒られても仕方ないとは思う。
 その覚悟はできている。
 でも、他のことならどうだろう。
 昨日、ここに来たばかりの僕には、思い当たることはないけれど……
「僕が話があるのは、アレクにだけです」
 ギルバート様は付け入る隙を与えなかった。
「……申し訳ございません。では、失礼します」
 キースさんは僕に目配せしてから、部屋を出て行った。
 広い部屋に二人きりという状態は、嫌でも緊張感を増していく。
「アレク、ソファーに座ってください」
「えっ、あ、いえ、いいですっ」
 使用人があんな豪華なソファーに座っていいわけがない。
 そう思っての言葉だった。
「見下ろされるのは、好きじゃないんです」
 言われて、自分の軽率さを恥じる。
 そして、改めてギルバート様の脚を見る。
 二本の足は床を踏むことなく、車椅子に乗せられている。
 落馬した時の怪我が原因だったと思うと、胸が詰まる。
「そんなに珍しいですか?」
 問われて、僕はハッと視線を戻す。
「ちっ、違いますっ」
 大きく首を振って、否定した。
 好奇の目で見ていたと、誤解をされたくない。
「どちらにしても、あまり見られるのは好きじゃないです」
「ごっ、ごめんなさい」
 ペコペコとお辞儀をするも、ギルバート様は表情も変えずにクルリと車椅子を動かした。慌てて手伝おうと思ったけど、慣れているのかギルバート様の動きは早くて、僕が手を貸すまでもなかった。
「座ってください」
 勧められて、僕は遠慮がちにソファーに腰かけた。
 お尻がフカフカのクッションに沈む。
 柔らかくも弾力のある、なんとも言えない座り心地の良さに、緊張が一瞬だけ解けた。
「君はどうして僕に呼ばれたのか、わかっていますか?」
 そう問われて、僕は姿勢を正した。
「いっ、いえ。あの……わかりません」
 自分から子供の頃のことを持ち出すのは、躊躇われた。
 忠告されたというのも大きい。
 そうじゃなきゃ、僕のことだからペラペラと喋っていたと思う。
「そうですか。自覚がないようですね」
 そう言って、ギルバート様が探るような眼を向けた。
 透き通るような綺麗な紫の瞳は、とても魅力的でいつまでも眺めていたい気にさせる。
 でも、その瞳に何の感情も宿っていないことに気づき、途端、背筋が凍るような感覚に捕らわれた。
 綺麗だけど、とても冷たい。
「……あの……僕が何かしましたか?」
「君が何をしたか……本当にわからないんでしょうか」
 真っすぐに見つめられて、ドキドキしてしまう。
「えっと…あの……僕…は……」
 焦れば焦るほど、しどろもどろになってしまう。
「無理に敬語を使おうとしなくてもいいですよ」
 ギルバート様はにこりとも笑わずに、抑揚のない声で言う。
 それじゃあ、却って言葉遣いを気にしないわけにいかなくなる。
 ちゃんとした言葉遣いはできるんだ。
 ただ、緊張していて上手く言葉が出てこないだけなんだ。
 すうっと息を吸って吐いて、呼吸を整える。
「僕がしたことで、ギルバート様がお怒りなら、甘んじて罰を受けます」
 なんとか言葉にできて、安堵する。
 けど、ギルバート様の表情は変わらなかった。
 何を考えているのかわからないほど、眉一つ動かさない。

「そうですか。では、今すぐこの屋敷を出て行ってください」

「ええっ!」
 思ってもみないことを言われて、腰が浮く。
「罰を受けるんでしょう」
 そうだけど……だけど……嫌だよ。
 僕はギルバート様の傍を離れるわけにはいかない。
「あ……あの……ここにいさせてください」
「ここにいたい理由でもあるのですか?」
 問われて、グッと唇を噛む。
 もし、ギルバート様がまだ知らないなら、自分からは告げない方がいい。
 それこそ、追い出されても仕方ないんだ。
「君は罰を受けると言いました。それなのに、僕の言うことはきけないと言う。勝手ですね」
 正論なのかもしれない。
 僕には何も言う資格なんてないのかもしれない。
 でも、理由を知らなきゃ、どうすることもできない。
「ギルバート様はどうして僕を追い出したいんですか?」
 ギルバート様は僕の質問に眉を顰めた。
「嫌いだからです」
 返ってきた答えに、僕は愕然となる。
 何もしていない内から、もう嫌われてしまった。
 そんなのってないよ。
 好きになってもらいたいわけじゃないけど、いきなり嫌われては悲しすぎる。
「……努力します。ギルバート様が気に入るように努力します。だから、追い出さないでください」
 切に訴えると、ギルバート様が憂鬱そうに溜め息を吐いた。
「君に努力してもらっても、僕の気持ちは変わりません」
「変えてみせますっ」
 必死だった。
 思わずギルバート様に詰め寄ってしまって、顔を顰められた。
「落ち着きがないと言われたことはありませんか?」
 思い当たることがありすぎて、言葉に詰まる。
 コクンと頷くと、ギルバート様はやっぱりというように肩を竦めた。
「僕が一番嫌いなタイプです」
 嫌いって二度も言われてしまった。
 何がそんなにギルバート様を苛立たせているんだろうか。
 落ち着きがない……から?
「申し訳ありません」
 素直に謝ったけど、ギルバート様の表情は人形のように冷たいまま変わらなかった。
「君は司祭の招待状を持って、ここに来ましたね。彼とは親しいのでしょうか」
 不意に話を変えられて、戸惑ってしまう。
 僕がしたことと、そのことと関係があるんだろうか。
 確かに紹介状を書いてくれたのは司祭だ。
 親しいのかと言えば、そうだろう。
 何故なら彼は――
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