おかえりなさい。

犬咲

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わだつみ

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 サンダルを通して、足の裏に伝わる感触が変わる。
 干潮で引きゆく波に洗われ、露わになった岩場を進めば、ぽっかりと崖に開いた洞窟が現れる。

 文字通り、海が崖を食らってできた海食洞の奥に、私が目指す祠はあった。
 懐中電灯は持ってこなかった。
 以前、汐がダメだと言ったから。
 ポケットからライターを出し、撃鉄をおこすようにカチリとレバーを引けば、一瞬の火花。ゆらりと橙の炎が立つ。
 ウイスキーのスキットルに似た、フリント式のオイルライターは母が残していったものだ。
 私の高校卒業と同時に島を出た母は、身の回りの品を持って行ったが、思い出の品は私と一緒に置いていった。
 これも、そのひとつ。母が17の時、島に来た客から見料代わりに貰った、初占いの記念品らしい。

 ――大切だから、変わらない場所に置いていくんだなんて、適当なこと言ってたなぁ。

 ほんのりと母に想いを馳せるが、すぐに汐にとって代わる。
 母が旅立った夜、ひとりに耐えきれず、私は汐の家へ押しかけた。

 ――汐さん、やさしかったなぁ。

 私には汐さんしかいないの、ずっと一緒にいて、置いていったら許さない。
 くりかえし呪言を吐きだす私が泣きつかれて眠るまで、ずっと膝に抱いて背を撫でてくれていた。
 あの腕が胸が、恋しい。

 はやる気持ちで散らばる石を踏み進み、少しずつ上向く傾斜の先。
 ゆれる炎に照らされて、今にも崩れ、押しつぶされそうな岩の天井に囲まれた祠が現れる。
 昔の石造りのかまどのような、ずんぐりとした岩の上にすえられているが、足元に下ろせば、私の胸ほどの高さしかない、小さなやしろだ。

 ――やっぱり、変な祠。

 いつも汐と一緒だったので、たいして気にとめていなかったが、あらためて向き合って感じる。
 年経て褪せぬ、まがまがしいほどの紅柄色をした御殿の前には獅子も狐も鳥居もなく、よくある注連縄しめなわや、ヒラヒラとゆれる御幣ごへいもかかっていない。
 がくもなく、細かい格子戸の奥にも、ご神体らしきものは見えない。
 そもそも格子戸自体が嵌めごろしになっていて、内部の手入れをすることもできないのだ。
 よくあるお地蔵さんの祠ならば、花瓶やお供え用のお皿があるものだが、ここにはそれもない。
 ただ、小ぶりな皿燭台が一対、格子戸の前に置いてあるだけ。
 何を祀っているのかわからず、島民でさえ、ほとんど詣でることもない。奇妙な御宮。

 ――ううん、変でもいい。他と違うとか、そんなこと。どうでもいい。

 ふるりとひとつ首を振り、ポケットからロウソクを取り出し、燭台に供えて灯す。
 ライターをしまって、酒の封を切り、ちゃぷり、と両手で抱えなおす。
 お供え用の朱塗りの杯は置かれていないが、それに代わるものはある。
 祠の乗った岩には、両手を上に向け、心もち丸め、そろえたような歪な窪みがあり、窪みには小さなヒビがある。
 汐はいつも、そこに供え物の酒を注いでいた。私がするのは、初めてだ。

「…………」

 ひとつ、小さく息を呑み、そうっと瓶を傾けた。
 とくとく、と注ぎ、岩の杯を満たせば、こくり、こくり、と飲みこむように、岩のヒビから吸いこまれていく。

 ――何度見ても、不思議……本当に、飲んでるみたい……。

 汐は以前、ここは海につながる通話口のようなものだと言っていた。
 ロウソクを灯すことで受話器を上げて、通信料代わりの酒を注いで呼びだし、社の主に言葉を届ける、公衆電話のようなものだと。
 たしかに、神社への参拝とは、そういうものだともいえる。お賽銭をおさめて、神に想いを伝える場。
 そのときは、面白い表現をするのだなと感心したものだが、もしかしたら、そのままの意味だったのかもしれない。
 もっと詳しく、彼に聞いておけばよかった。
 悔やんだところで、どうしようもない。

 ――汐さんのように、上手くできてるか分からないけど……。

 一献一献、ささげながら。汐を思い、神に乞う。

「どうか、お願いします。あの人を、私の元へ、お帰しください」

 私が汐と、どうして結ばれ、彼をどれほど必要としているのか。切々と、こいねがう。
 伝わらなければ、叶わない。そう、汐が言っていたから。
 蝋燭がつき、あたりが闇に包まれるまで、私は、ただ語り、願いつづけていた。



 汐は見てくれからして、だいぶ変わった男だった。
 すっきりと整った顔に高い背、仄白い肌。
 白蝶貝のような淡い金茶がかった白い髪と、黒蝶真珠のような青みがかった深いグレーの瞳。
 陽ざしを浴びると水ぶくれができると言って、日中は家にこもってペンを走らせ、日が暮れてから出歩いては、ゆらゆらと夜釣りに興じる彼を、村の老人達は「放蕩白子ほうとうしろこ」と呼び、白眼視していた。

 生まれに関しては、汐は私は少し似ている。
 彼の生家は旧家ではないが裕福で、私の家は、そうでもなかったが、私たちはどちらも、この村では異端の生まれだった。

 海の見える優雅な家に生まれた汐の母は、一代で財を築いた父親に生涯最高の宝と称され、彼亡き後も母親に掌中の珠と可愛がられていた。
 やがて美しく育った少女は17の春の宵、海に落ちる。
 翌朝、浜辺に倒れているのを発見され、息はあったが、しばらくして少女の腹は膨れてきた。
 海神の子を宿したと言いはる彼女の言葉を、村人は、ならず者に犯されて狂ったか、不義の子でも宿した言い訳だろうと取り合わなかった。
 月満ちて、少女が産んだ子が汐で、汐が七つになった冬の宵、少女は海に身を投げて、今度は帰ってこなかった。
 その後、汐が二十歳になったとき、彼の祖母が天寿を迎え、以来、私が嫁ぐまで、彼は一人で暮らしていた。

 対して、私の母は貧しい漁師の家に生まれ、ろくに教養も与えられなかった。
 いずれ誰かに嫁ぐしかない笑顔が取り柄の少女に育ったが、17の秋に原因不明の高熱――台風の時期ということもあって、医者の診察を受けられなかったそうだ――で生死の境をさまよった後、霊験を得たと言いはじめた。
 そして、その次の春には、島を訪れた男にくっついて、迷える人々の役に立つのだと島を出た。
 都会の雑居ビルに占い師としてコーナーをかまえ、それなりに人気もあったそうだが、三年ほど経ったころ、心酔した客に付きまとわれ、刃傷沙汰に発展した。
 大きな腹と溜めこんだ見料を抱え、島に逃げ帰ってきた母は早々に家族と衝突し、縁を切りながらも、ほどなくして私を産み落とした。
 その後、私が高校を卒業すると同時に、また母は都会へと消えてしまって、それからは年に二回位のハガキを寄こすくらいだが、それまでに色々なことを教えてくれた。
 夢と現実のはざまに生きているような女性だったが、私は彼女が大好きだった。

 汐も私も、父親を知らない。
 現代においても、この島では、父親のわからぬ子は異端の子だった。
 私より七年早く生まれた分、周囲の反応を知っていた汐は、私が幼い時分から目をかけてくれていた。
 悪く言えば、目をつけていたのだと思う。
 自分と同じような境遇の私を。
 食べ物の好き嫌いはないが、人間の選り好みは激しい彼は理想の伴侶を求めていた。
 近所付き合いもなく、派手な楽しみもなく、ただ、だらだらと日々を過ごすのが苦にならない、怠惰で愛情深い、猫のような金魚のような女を。

 汐は、美しい男だった。
 こんなさびれた島にいるのが、もったいなほどに。
 よく二人並んで、濡れ縁に腰かけ、月の照らす海を見ていたが、ふと、首をめぐらせ、彼の横顔をながめるたびに見惚れた。
 都会に出てしまえば、彼の異質な色彩も讃えられる美点となるに違いない。
 一度、そうして、寄り添っているときに尋ねてみたことがある。
 都会に出てみたいと思わないのかと。
 汐は、他人の称賛など要らない、煩わしいと眉をひそめ、私の好意だけで充分だと笑っていた。

 ――嬉しい。どこにも、いかないでね。

 そういって、そっと腕を絡めれば、

 ――灯花とうかこそ、どこにもいっちゃだめだよ。
 と、そっと髪を撫でてくれた。

 ――いかないわ。絶対。汐さんのそばにいる。ずうっと一緒にいる。絶対よ。約束。
 ――そう、じゃあ、僕も約束しようかな。どこにもいかない。いや、どこにいても、灯花が望めば絶対に帰ってくる。
 ――えぇ? 本当に? 南極にいても? 流氷に乗って帰って来てくれる?
 ――うん、帰るよ。約束する。
 ――うん、約束ね。

 くすくすと笑いあいながら、戯れに口付けあって、海を見た。
 落ちる沈黙に幸福があった。
 さあっと銀色の波が立ち、ふと隣を見れば、潮風が汐の髪をかきあげて、形の良い耳が露わになる。
 ふと、幸福の中に背筋が粟立つような恐れが揺れた。
 彼の特別なところは、色彩の他に、もうひとつあった。
 耳の付け根、こめかみ近くに――キリで刺したような穴が二つ、きれいに並んで開いていた。
 どこにつながっているのか分からない、その小さな穴が、なぜだか私は怖かった。
 それを感じる度に、私は汐に身を寄せ、目を閉じた。恐怖のもとであるはずの汐に。
 だって私には、他に誰もいなかったから。
 
 
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