おかえりなさい。

犬咲

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よつり

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「ねぇ、灯花」

 夕食を終えて、私は居間で本を読んでいた。
 ふわりと響いた汐の声に、届いたばかりの新刊から顔を上げ、振り向く。
 開いた襖の向こうから、ちょこんと汐が顔をのぞかせていた。

「なぁに、汐さん」
「キッチンにある桜エビ、ちょっと使ってもいいかな? アミエビ買うの、うっかり忘れちゃって」
「サビキつりに?」
「うん」

 彼のお気に入りの釣り方だ。
 たくさんの釣り針のついた糸の先に、シンクの排水溝の水切りカゴに似た、細長い蓋付きのサビキカゴという道具をつけて、アジやら何やらを釣るらしい。

「いいよ。袋ごと持っていって。しばらく使う予定ないから、大丈夫」
「やった! ありがとう」
「それくらい、黙って持っていってもいいのに」
「自分だけの家ならね。でも、ここは二人の家だから。一応、お伺いをたててみた方がいいかなぁって。できた旦那さんだよねぇ」
「なぁに、汐さん。褒めてほしいの?」
「そりゃあ、愛する妻には、毎日だって褒められたいし、感謝されたいものだよ。他に褒めてくれる人もいないしさ」
「……わかった。汐さんが、ちゃんとお伺いを立ててくれたおかげで、お好み焼きを作るときに『あら? サクラエビがない!』って騒がなくってすむわぁ、ありがとう!」
「うん。ありがとう、とぉか」

 とぉか。時々、汐がする私の呼び方。舌の上でころがすような甘ったるい響きが、くすぐったくて、とても好きだ。

「……ボートのカギは? 持った?」

 汐は、釣っている実感を得たいからとリールも何もないシンプルな延べ竿を使うくせに、沖に出るときには文明の利器のモーターボートを使う。

「大丈夫、ちゃんと持ってる」
「そう、気をつけていってきてね」
「うん。灯花の好きな魚が釣れるといいね」
「好きな魚なんていません」
「灯花は、本当に魚がダメだね」
「だって……生々しくって、怖いじゃない」
「肉は平気で食べられるのに?」
「だって、肉はもう、生き物の形をしてないもの。魚は嫌。目がついてる」
「そうなんだ……灯花は怖がりだねぇ。じゃあ、蒲鉾でも釣ってくるよ」
「本当に? 楽しみにしてる。……ふふ、いってらっしゃい、汐さん」
「うん、いってきます」

 にこり、にこり、と微笑み合い、汐さんが軽く手を振って、すす、パタンと襖が閉まる。
 のんびり遠ざかる足音を聞きながら、座椅子に深く座りなおして、文庫本を座卓に乗せる。

「……今日は、釣れるといいけど……」

 汐に聞こえないように、そっと呟く。
 彼の夜釣りの成功率は、正直、それほど高くない。
 それでも、灯花は毎回、酒を用意して待っている。
 成果があれば、刺身かなめろう、アジならば竜田揚げにでもして祝勝会に、釣れなかった時には、冷蔵庫の古漬けや蒲鉾にワサビを添えて、彼を慰める会になる。

 汐本人も釣りの成果に、こだわってはいないのだ。
 いつだったか、私が空っぽのクーラーボックスをからかった時に「僕は海神の息子だから。釣りというより、父なる海と語らいにいっているんだよ」などと真面目ぶった顔で言うものだから。
 「ふうん。では、ふつつかな嫁ですが、お父様によろしくお伝えください」と殊勝な顔をして言いかえしてやって、それから、二人で笑いころげた。
 他愛ない、くだらない、そんな団らんのひとときが好きだった。

 からら、と玄関が開く音がして、「いってきます」と声が通る。
 「いってらっしゃい」と声を返して、からら、ぱしゃん、と閉じる音。
 そうして、汐は出て行って。

 そのまま帰ってこなかった。



 夜から風が強かった。潮の流れも速かった。
 転覆したのではないかと言われたが、ボートも彼も見つからなかった。
 一日たち、二日たち、彼の釣り道具だけが浜に流れついて。
 四日が過ぎ、七日目に行政の捜索が、十日目に島の漁船による捜索が打ち切られ、海に花が投げられ、浦仕舞となった。
 そうなると自分で船を出せない私には、うろうろと浜辺を歩くくらいしか出来ることはなかった。

 ひとつきがたったころ。
 雑貨店兼民宿の女将さんが家に来た。
 何も獲らず作らず、趣味に興じて、ただ買うばかりの私たちは、それなりに良い客だったからだろう。
 女将さんは、この島で数少ない、私達に同情的な人間だった。
 汐さんのように船が沈んで行方不明となった場合は、三ヶ月を過ぎたら死亡認定手続願を保安庁に出して、戸籍上は死んだことにするらしい。

「失踪宣告だと、一年待たなきゃいけないし、家裁での審査とか、色々面倒だからさ……」

 そういってうっそりと笑った女将さんは、二十年前に父親を、七年前に弟を、荒れ狂う海に取られたそうだ。

「ショックなのはわかるけど、あなたも若いんだし、そろそろ先のことを考えないと……」

 哀れむように励ますように、そっと私の肩を叩くと、諸々の手続きを書いたメモを置いて、女将さんは帰っていった。
 礼儀だからと玄関まで出て、ぼんやりと遠ざかる背を見送りながら、渡されたメモを握りつぶし、からら、ぱしゃん、と戸を閉めて、三和土たたきにメモを投げつけた。
 
 ――死ぬもんか。

 だん、と踏みつけ、奥歯を噛みしめる。

 ――約束したもの。

 そうだ。汐は私と約束をした。どこにいても、私が望めば絶対に帰ってくると。
 それに、彼は自分で言っていた。彼の母親も言っていた。
 彼は海神の子だと。
 海神の子供ならば、海で溺れて死んだりしない。
 今は、少し、父方の実家に滞在しているだけだ。

 ――絶対に、汐さんは、私のところに帰ってくる。

 ぎゅっと目を閉じ、言い聞かせる。

 ――望まなくっちゃ。

 望みを、願いを、汐さんに届けなければいけない。
 汐さんは、海にいる。
 ならば、行くべき場所は決まっている。

 そうして、その夜――私は、願いを届けるために海神の祠を訪れた。
 
 
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