7 / 35
6 〈祝福〉の効果範囲 ―簡易考察―
しおりを挟む
「ねぇ、クロード……本当に大丈夫なんだろうね?」
手際よくピアノの掃除を進める蔵人に対して、ライザは不安げに問いかけた。
「心配するなよ。掃除ひとつでピアノをダメにするほど腕は悪くないし、ちゃんと戻せるから」
「いや、あたしが気にしてるのは〈祝福〉のほうさ。ピアノがそんなふうになるの見たことないから、大丈夫なのかなって……」
「ふむう……」
それは蔵人も考えないではなかった。
200~300年経過したピアノが、こうもいい状態で保持されているのがその〈祝福〉のおかげだとすれば、それは非常に有用な技術だ。
しかし……、と蔵人はピアノの周りに視線を巡らせる。
溜まったりまとわりついたりしたホコリに汚れたクロスを見たあと、視線がしばらく鍵盤に固定され、ほどなくため息が漏れた。
「でも、こうしないとまともに弾ける状態にはならないからな」
「えー、そんなことないだろう? だってクロードは昨日、あんなに凄い演奏をしたじゃないか」
「あれはこの状態のピアノに合わせたからな」
たしかにそれなりの形にはなったと思うが、それはこの状態に合わせて選曲した結果であり、聴く人が聴けば眉をひそめるような演奏だっただろう。
力業のロックンロールならともかく、繊細な指使いを要求される曲、たとえばショパンのピアノソナタやラフマニノフのピアノ協奏曲などを弾くのは非常に困難であると言っていい。
たとえ調律が合っていたとしてもだ。
「鍵盤の高さはガタガタ、打鍵の深さもまちまちだ。これを調整するには、こうやって鍵盤を引き出す必要がある。掃除のためだけでなく、な」
ピアノというのは時間が経てば調律が狂うのと同じように、鍵盤の高さや弾いたときに鍵盤が沈む深さも微妙に狂ってくる。
そして人の指先というのは非常に敏感で、100分の1ミリ単位のズレであっても明確な違和感となるのだ。
なので、調律の際に鍵盤の調整も同時に行なわれる、ということはよくあることだった。
状態によってはむしろ調律よりも調整のほうが重要と言えるかも知れない。
「昨日だってもうちょいこいつの状態がマシならもっと盛り上がったと思うぞ?」
「そうなの?」
昨日の演奏にしても、鍵盤の高さにかなりのばらつきがあったせいで、ロックンロールを弾いているにもかかわらずグリッサンド――鍵盤の上を一音一音区切らず隙間なく指を滑らせ流れるように音高を上げ下げする奏法――があまり使えなかったし、鍵盤の動きが少し鈍くなっているせいでトリル――2本の指でふたつの音を交互に弾く奏法――も多用できなかった。
数オクターブに及ぶグリッサンドや高速のトリルなど、強烈なアクセントになる奏法がもっと使えれば、昨夜はもう少しばかり白熱した夜になっていただろう。
「それに調律は必要なんだろ? 見れば弦交換の形跡もあるし。だったら調整だって何度か行なわれているはずだ」
「んー、そうかもしれないけど……」
調律が定期的に行なわれ、そして弦交換が何度か行なわれているということは、〈祝福〉とやらの状態保持が及ばない部分があるということになる。
完全にメンテナンスフリーにならないのであれば、ピアノを維持するために必要なことくらいはしても問題ないはずだ。
もし鍵盤引き出し、掃除くらいでその〈祝福〉とやらの効果が切れるのなら、そんなものは必要ない。
「心配するな。なにかあっても俺がなんとかしてやるから」
仮に〈祝福〉とやらがなくなって、ピアノの劣化が始まるのだとしたら、そのときは蔵人の技術で修復してやればいい。
ピアノ職人とはそのために存在するのだから。
「むぅ……。アンタがそう言ってくれるなら、いいんだけど……」
蔵人の言葉が嬉しかったのか、口調は不機嫌を装っていたが、ライザの口元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。
「とりあえず掃除の続きだ。ホコリはこの辺に一旦落としといてもいいか?」
「うん、大丈夫。じゃああたしが落ちた分をまとめて捨てるようにするよ」
「おう、助かる。おっとそうだ」
蔵人はバッグから不織布のマスクを2枚取り出し、1枚をライザに渡した。
「なに、これ?」
「マスクだよ。ホコリが舞うからな……っていまさらだけどな」
蔵人が手本を見せるようにマスクを身に着けると、ライザもそれに倣って問題なく装着できた。
「あ、全然苦しくない。こんな薄いので大丈夫なの?」
「ああ。例えば……そうだな、あのテーブルクロス。ああいう布を何枚も重ねるより、これ1枚のほうが効果は高い」
「そんなに!?」
こちらの世界の標準的なマスクがどういったものかわからないので、手近な物で軽く説明しておく。
もしかするとこのマスク1枚で、蔵人の正体について勘ぐられる可能性もあるのだが、そんなことよりもライザをホコリから護ってやるほうが重要だろう。
蔵人はクロスでピアノを軽く拭いながらホコリを落としていった。
床に落ちたホコリはライザが箒で掃き集めていく。
「ふぅ……こんなもんかな、いまのところは」
掃除機なりエアーコンプレッサーなりがあればもっとましだったのだろうが、いまはできる限りのことをやっていくしかない。
「あ、クロード、その布巾貸して」
「ん? おう」
ピアノの掃除が一段落ついたところで、ライザに言われて汚れたクロスを渡した。
彼女は小走りに少し離れた場所に行くと、すぐに戻ってきた。
「はい、【浄化】しといたよ」
「おお、助かる!」
ライザは〈祝福〉に影響を及ぼさないであろう場所まで離れて、魔術を使ってクロスを汚れを取り除いてくれたようだ。
ここからの作業のために新しいクロスを取り出そうとしていたところなので、絶妙なタイミングだったといえる。
「ねぇ、もうその鍵盤元に戻すの?」
クロスを渡しながらそう尋ねるライザに対して、蔵人は軽く頭を振った。
「いや、まだやることがある」
彼女から綺麗になったクロスを受け取りながらそう答えた蔵人は、改めてピアノに視線を落とした。
手際よくピアノの掃除を進める蔵人に対して、ライザは不安げに問いかけた。
「心配するなよ。掃除ひとつでピアノをダメにするほど腕は悪くないし、ちゃんと戻せるから」
「いや、あたしが気にしてるのは〈祝福〉のほうさ。ピアノがそんなふうになるの見たことないから、大丈夫なのかなって……」
「ふむう……」
それは蔵人も考えないではなかった。
200~300年経過したピアノが、こうもいい状態で保持されているのがその〈祝福〉のおかげだとすれば、それは非常に有用な技術だ。
しかし……、と蔵人はピアノの周りに視線を巡らせる。
溜まったりまとわりついたりしたホコリに汚れたクロスを見たあと、視線がしばらく鍵盤に固定され、ほどなくため息が漏れた。
「でも、こうしないとまともに弾ける状態にはならないからな」
「えー、そんなことないだろう? だってクロードは昨日、あんなに凄い演奏をしたじゃないか」
「あれはこの状態のピアノに合わせたからな」
たしかにそれなりの形にはなったと思うが、それはこの状態に合わせて選曲した結果であり、聴く人が聴けば眉をひそめるような演奏だっただろう。
力業のロックンロールならともかく、繊細な指使いを要求される曲、たとえばショパンのピアノソナタやラフマニノフのピアノ協奏曲などを弾くのは非常に困難であると言っていい。
たとえ調律が合っていたとしてもだ。
「鍵盤の高さはガタガタ、打鍵の深さもまちまちだ。これを調整するには、こうやって鍵盤を引き出す必要がある。掃除のためだけでなく、な」
ピアノというのは時間が経てば調律が狂うのと同じように、鍵盤の高さや弾いたときに鍵盤が沈む深さも微妙に狂ってくる。
そして人の指先というのは非常に敏感で、100分の1ミリ単位のズレであっても明確な違和感となるのだ。
なので、調律の際に鍵盤の調整も同時に行なわれる、ということはよくあることだった。
状態によってはむしろ調律よりも調整のほうが重要と言えるかも知れない。
「昨日だってもうちょいこいつの状態がマシならもっと盛り上がったと思うぞ?」
「そうなの?」
昨日の演奏にしても、鍵盤の高さにかなりのばらつきがあったせいで、ロックンロールを弾いているにもかかわらずグリッサンド――鍵盤の上を一音一音区切らず隙間なく指を滑らせ流れるように音高を上げ下げする奏法――があまり使えなかったし、鍵盤の動きが少し鈍くなっているせいでトリル――2本の指でふたつの音を交互に弾く奏法――も多用できなかった。
数オクターブに及ぶグリッサンドや高速のトリルなど、強烈なアクセントになる奏法がもっと使えれば、昨夜はもう少しばかり白熱した夜になっていただろう。
「それに調律は必要なんだろ? 見れば弦交換の形跡もあるし。だったら調整だって何度か行なわれているはずだ」
「んー、そうかもしれないけど……」
調律が定期的に行なわれ、そして弦交換が何度か行なわれているということは、〈祝福〉とやらの状態保持が及ばない部分があるということになる。
完全にメンテナンスフリーにならないのであれば、ピアノを維持するために必要なことくらいはしても問題ないはずだ。
もし鍵盤引き出し、掃除くらいでその〈祝福〉とやらの効果が切れるのなら、そんなものは必要ない。
「心配するな。なにかあっても俺がなんとかしてやるから」
仮に〈祝福〉とやらがなくなって、ピアノの劣化が始まるのだとしたら、そのときは蔵人の技術で修復してやればいい。
ピアノ職人とはそのために存在するのだから。
「むぅ……。アンタがそう言ってくれるなら、いいんだけど……」
蔵人の言葉が嬉しかったのか、口調は不機嫌を装っていたが、ライザの口元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。
「とりあえず掃除の続きだ。ホコリはこの辺に一旦落としといてもいいか?」
「うん、大丈夫。じゃああたしが落ちた分をまとめて捨てるようにするよ」
「おう、助かる。おっとそうだ」
蔵人はバッグから不織布のマスクを2枚取り出し、1枚をライザに渡した。
「なに、これ?」
「マスクだよ。ホコリが舞うからな……っていまさらだけどな」
蔵人が手本を見せるようにマスクを身に着けると、ライザもそれに倣って問題なく装着できた。
「あ、全然苦しくない。こんな薄いので大丈夫なの?」
「ああ。例えば……そうだな、あのテーブルクロス。ああいう布を何枚も重ねるより、これ1枚のほうが効果は高い」
「そんなに!?」
こちらの世界の標準的なマスクがどういったものかわからないので、手近な物で軽く説明しておく。
もしかするとこのマスク1枚で、蔵人の正体について勘ぐられる可能性もあるのだが、そんなことよりもライザをホコリから護ってやるほうが重要だろう。
蔵人はクロスでピアノを軽く拭いながらホコリを落としていった。
床に落ちたホコリはライザが箒で掃き集めていく。
「ふぅ……こんなもんかな、いまのところは」
掃除機なりエアーコンプレッサーなりがあればもっとましだったのだろうが、いまはできる限りのことをやっていくしかない。
「あ、クロード、その布巾貸して」
「ん? おう」
ピアノの掃除が一段落ついたところで、ライザに言われて汚れたクロスを渡した。
彼女は小走りに少し離れた場所に行くと、すぐに戻ってきた。
「はい、【浄化】しといたよ」
「おお、助かる!」
ライザは〈祝福〉に影響を及ぼさないであろう場所まで離れて、魔術を使ってクロスを汚れを取り除いてくれたようだ。
ここからの作業のために新しいクロスを取り出そうとしていたところなので、絶妙なタイミングだったといえる。
「ねぇ、もうその鍵盤元に戻すの?」
クロスを渡しながらそう尋ねるライザに対して、蔵人は軽く頭を振った。
「いや、まだやることがある」
彼女から綺麗になったクロスを受け取りながらそう答えた蔵人は、改めてピアノに視線を落とした。
0
あなたにおすすめの小説
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
黒騎士団の娼婦
星森
恋愛
夫を亡くし、義弟に家から追い出された元男爵夫人・ヨシノ。
異邦から迷い込んだ彼女に残されたのは、幼い息子への想いと、泥にまみれた誇りだけだった。
頼るあてもなく辿り着いたのは──「気味が悪い」と忌まれる黒騎士団の屯所。
煤けた鎧、無骨な団長、そして人との距離を忘れた男たち。
誰も寄りつかぬ彼らに、ヨシノは微笑み、こう言った。
「部屋が汚すぎて眠れませんでした。私を雇ってください」
※本作はAIとの共同制作作品です。
※史実・実在団体・宗教などとは一切関係ありません。戦闘シーンがあります。
俺の妻になれと言われたので秒でお断りしてみた
ましろ
恋愛
「俺の妻になれ」
「嫌ですけど」
何かしら、今の台詞は。
思わず脊髄反射的にお断りしてしまいました。
ちなみに『俺』とは皇太子殿下で私は伯爵令嬢。立派に不敬罪なのかもしれません。
✻ゆるふわ設定です。
気を付けていますが、誤字脱字などがある為、あとからこっそり修正することがあります。
✻R-15は保険です。
強面夫の裏の顔は妻以外には見せられません!
ましろ
恋愛
「誰がこんなことをしろと言った?」
それは夫のいる騎士団へ差し入れを届けに行った私への彼からの冷たい言葉。
挙げ句の果てに、
「用が済んだなら早く帰れっ!」
と追い返されてしまいました。
そして夜、屋敷に戻って来た夫は───
✻ゆるふわ設定です。
気を付けていますが、誤字脱字などがある為、あとからこっそり修正することがあります。
田舎暮らしの貧乏令嬢、幽閉王子のお世話係になりました〜七年後の殿下が甘すぎるのですが!〜
侑子
恋愛
「リーシャ。僕がどれだけ君に会いたかったかわかる? 一人前と認められるまで魔塔から出られないのは知っていたけど、まさか七年もかかるなんて思っていなくて、リーシャに会いたくて死ぬかと思ったよ」
十五歳の時、父が作った借金のために、いつ魔力暴走を起こすかわからない危険な第二王子のお世話係をしていたリーシャ。
弟と同じ四つ年下の彼は、とても賢くて優しく、可愛らしい王子様だった。
お世話をする内に仲良くなれたと思っていたのに、彼はある日突然、世界最高の魔法使いたちが集うという魔塔へと旅立ってしまう。
七年後、二十二歳になったリーシャの前に現れたのは、成長し、十八歳になって成人した彼だった!
以前とは全く違う姿に戸惑うリーシャ。
その上、七年も音沙汰がなかったのに、彼は昔のことを忘れていないどころか、とんでもなく甘々な態度で接してくる。
一方、自分の息子ではない第二王子を疎んで幽閉状態に追い込んでいた王妃は、戻ってきた彼のことが気に入らないようで……。
魔法師団長の家政婦辞めたら溺愛されました
iru
恋愛
小説家になろうですでに完結済みの作品です。よければお気に入りブックマークなどお願いします。
両親と旅をしている途中、魔物に襲われているところを、魔法師団に助けられたティナ。
両親は亡くなってしまったが、両親が命をかけて守ってくれた自分の命を無駄にせず強く生きていこうと決めた。
しかし、肉親も家もないティナが途方に暮れていると、魔物から助けてくれ、怪我の入院まで面倒を見てくれた魔法師団の団長レオニスから彼の家政婦として住み込みで働かないと誘われた。
魔物から助けられた時から、ひどく憧れていたレオニスの誘いを、ティナはありがたく受ける事にした。
自分はただの家政婦だと強く言い聞かせて、日に日に膨らむ恋心を抑え込むティナだった。
一方、レオニスもティナにどんどん惹かれていっていた。
初めはなくなった妹のようで放っては置けないと家政婦として雇ったが、その健気な様子に強く惹かれていった。
恋人になりたいが、年上で雇い主。
もしティナも同じ気持ちでないなら仕事まで奪ってしまうのではないか。
そんな思いで一歩踏み出せないレオニスだった。
そんな中ある噂から、ティナはレオニスの家政婦を辞めて家を出る決意をする。
レオニスは思いを伝えてティナを引き止めることができるのか?
両片思いのすれ違いのお話です。
王宮侍女は穴に落ちる
斑猫
恋愛
婚約破棄されたうえ養家を追い出された
アニエスは王宮で運良く職を得る。
呪われた王女と呼ばれるエリザベ―ト付き
の侍女として。
忙しく働く毎日にやりがいを感じていた。
ところが、ある日ちょっとした諍いから
突き飛ばされて怪しい穴に落ちてしまう。
ちょっと、とぼけた主人公が足フェチな
俺様系騎士団長にいじめ……いや、溺愛され
るお話です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる