異世界ピアノ工房

平尾正和/ほーち

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15 2日目の夜

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 酒場でピアノを弾く、といっても延々弾き続けるわけではない。
 どんな名曲、どんな名演であっても、際限なく聞かされ続ければ飽きるものだ。
 若いころ、とあるバーで専属のピアニストをやっていたことのある蔵人は、先輩からの教えでそのあたりのことはわきまえていた。

「ではまたのちほど」

 45分ほどのステージを終え、蔵人は立ち上がってお辞儀をした。

「おいおいもっと弾いてくれよー!!」
「出し惜しみしてんじゃねぇぞぉ!」
「もう1曲! もう1曲だけでいいんだよぉ……!!」

 客からの要望を笑顔で聞き流しながら、蔵人は店の奥へと姿を消す。
 口々に演奏の続行を望む客たちだったが、ほとんどは冗談半分で言っているので、奥から蔵人を引きずり出して弾かせようなどという不届き者はいなかった。

「はいはい! ピアニストにだって休憩は必要なんだ。酒飲んでりゃあっという間だから、さっさと注文しておくれ!!」

 バーカウンターの奥から放たれたライザの声が、店内に響く。
 普段はバーテンダーとウェイトレスを兼任しているライザだが、今日は手が回らないだろうと、厨房担当のフィルが2人のウェイトレスを臨時で雇っていた。
 それでもなお手が足りず、客たちが自発的に動いてなんとか店が回っているという状態だったが、開店から4時間ほど経ったいま、それもようやく落ち着いてきた。

「へへ、ライザのやつめ、相変わらず商売が上手ぇじゃねぇか。じゃあこっちにエール追加」
「俺はワインをもらっとこうか」
「つまみがねぇな……ソーセージの盛り合わせひとつくれー」

 蔵人の退場を本気で名残惜しげに見ている者もわずかにいたが、多くはライザの催促に機嫌良く笑いながら、グラスやジョッキ、あるいは皿を空にして追加注文をしていった。

「しっかし、賭けは無効か……」
「はぁ? なにさ、賭けって」

 カウンターで飲んでいた男の言葉を、ライザが聞きとがめた。
 この男、昨夜蔵人に声をかけたずんぐりむっくりで髭面の男である。

「なに、お前さんを誰が落とすかって話だよ」
「はん、くだらないことやってんじゃないよ」

 自分をどの男性が口説き落とすのかという、普通であればあまり気分のよくない話を、ライザは一笑に付した。
 ここは大衆居酒屋のような場所である。
 下世話な話など当たり前のように飛び交うので、その程度のことに目くじらを立てていたのでは、庶民向けバーの女主人などやっていけるものではない。

「で、誰が一番優勢だったんだい?」
「ウィードの奴だな」
「はんっ! あり得ないね。しつこい奴は嫌いだよ」
「そうか? お前さん相手にゃあれくらい押しが強くないとダメだと思ったんだがなぁ……」
「しかし、なんで無効になったんだい?」
「なに、よそモンに落とされたら無効ってことになってたのさ。寝たんだろ? あのピアノの兄ちゃんとよ」

 ガチャン! とライザが洗っていたジョッキを落とす音が店内に響いたが、喧噪のため気付いたのはカウンター周りの客だけだった。
 幸い、分厚いガラス製のジョッキは割ずにすんだようだ。

「な、なななに言ってんのさ、アンタ!?」
「くはは! 町で一目置かれるライザ姐さんがなぁに生娘みたいな反応を……いや、まてよ……?」

 豪快に笑った男がふと表情を改め、訝しげな視線を向ける。

「お前さんが生まれる前からこの店に通い詰めてる俺の記憶が正しけりゃあ……」

 ダンッ! と男の前にジョッキが勢いよく置かれる。

「アンタ、酒が足りないんじゃないのかい? 奢るよ。とっておきのラガーだ」
「……くはは、そうだな。酒が足りんせいでくだらんことを考えてしもうたわい」

 ケロッと笑った男はジョッキを傾けてグビグビと喉を鳴らし、なみなみ注がれていたビールを一気に飲み干した。

「ぷはぁーっ! うんまいっ!! もう1杯もらおうかの」
「はいはい。言っとくけど次は有料だよ」
「わかっとるわい」

 男はジョッキをライザに渡すと、軽く振り返ってピアノを見た。

「しかしまぁ……ピアニストとはの……。奇縁というかなんというか」
「ふん……。昔の話さ……」

 コトリ、と今度は優しくジョッキを置きながら、ライザは男に対する返答とも取れる言葉を呟いた。

「あと、クロードはピアノ職人だからね」

 男の視線を追ってピアノを見るライザの表情は、どこか誇らしげだった。

**********

 客の大半は男性だが、女性客がゼロというわけではない。
 今日訪れた客の多くは蔵人のピアノを昨夜聴いたか、あるいはその噂を聞いた者である。
 ピアノと聞けばむしろ女性のほうが興味を持ちそうであり、実際多くの女性が興味を引かれたのだが、場所が場所だけに来店する勇気のある者は少なかった。
 カウンターから遠く、ドリンクやフードを注文しづらいが、ピアノの演奏は見やすいという、そんな位置にあるテーブルに、勇気を持って来店した数少ない女性客が陣取っていた。

「はぁん、久々に聴いたけど、ピアノの生演奏ってやっぱいいわねぇ」
「クロードさまっていうの? あの人、ちょっとおじさんだけど、結構イケてない?」
「あらだめよぉ。あの方はライザさまのイイ人なんだからぁ」
「ええっ! そうなの!? 私てっきり、ライさまはウィードさまとくっつくもんだと思ってたのに……」
「ふふ、確かに美男美女同士、絵になるわねぇ……。でも、クロ様だって悪くない……ううん、強くて美しいライザ様の隣に、どこか頼りないけど穏やかなクロ様が並ぶ……うん、絶対そっちのほうが素敵よ!!」
「いやいや、アンタ今日初めてクロードさん見たんでしょうが。なにを知った風に……」
「いいじゃなぁい! 妄想は自由よ!! でも、ライザ様のハートを射止めたのがピアニストだなんて、なんか運命って感じよね?」
「なにそれ? なんでピアニストが運命なの?」
「アナタ知らないの!? 放浪のピアニストとのあいだに生まれた、ライさまの淡い初恋物語を」
「あ、なんか聞いたことあるかも」
「えー、アタシ知らなーい! 教えてー」
「うふふ、しょうがないわねぇ」

 女性たちはそこで顔をつきあわせ、ひそひそと話し始めた。

「へええ、そんなことがねぇ」
「ねぇねぇ、そのときライザさまっていくつだったの?」
「んーっと、10歳とかじゃないかしら?」
「えー! それって初恋? ただの憧れじゃない?」
「いーえ! 女子は10歳にもなれば恋を覚えるものですっ!!」
「んー、私はどうだったかな……そのころはまだ好きな人とか……」
「あ、クロ様きたわよっ」

 酒場の喧噪に紛れて行われた女性たちの姦しい雑談は、蔵人の登場で中断された。

 先ほどまでの喧噪が嘘のように静まり、皆一様に蔵人が奏でる音楽に耳を傾ける。
 テーブル席はすべて埋まっていたが、立ち見客までいたピーク時に比べれば人は半分ほどに減り、店内は少し落ち着きを見せ始めていた。
 スローテンポの曲が数曲終わるころには、店内に少しトーンを抑えた会話や、食事の音が再び響き始めた。

 そんな、少し静かな店内に、ズカズカと荒々しく駆け込んでくる男がひとり。

「ライザ! ライザはいるかっ!!」

 長くさらさらとした銀髪をなびかせながら、慌ただしい雰囲気で現われた褐色肌の美青年は、店に踏み込むなり大声を上げてライザを呼んだ。
 店内にはどよめきが広がったものの、蔵人は男へチラリと視線を向けただけで演奏を続けた。

「おお、ライザっ!! 話を……詳しく話を聞かせて欲しいっ……!!」

 カウンターの奥にライザの姿を見つけた男は、大声を上げながらズカズカと広い歩幅で歩いて行く。

「あら、負け犬さん……」
「おおっと、元最有力」

 ピアノの音と、それをかき消すほど大きくなったどよめきのなか、呟かれたひとりの女性とひとりの男性の声は、誰の耳にも届かなかった。
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