きっと日本で1番長いラブレターを君に送る

米屋 四季

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『夕焼けと共に』

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 カシャンッ――と隣で今日十数回目となるカメラのシャッターが切られた。
 菜花さんは撮った写真を真面目な表情で確認する。
 
「うん。じゃあ、行こうか。それでね、さっきの話の続きなんだけど――」

 菜花さんは撮った写真に納得していないのか、表情をそのままに小さく頷くと、写真を撮る前にしていたたわいのない話の続きを再開して足を進めた。
 その彼女の様子を見て、そりゃあそういう反応にもなるよ、と僕は自分勝手にそう思いながら彼女の隣に並んで歩く。
 電車を降りてから数十分。僕たちは今、[砂で描かれた巨大な銭形]や[街が一望出来るほど高い場所に建てられている神社]がある方向に向かいながら、特別なんてものはない、どこにでもありそうな、いたって普通の川沿いを歩いている。
 そんな風景を撮ったところで満足出来る写真が撮れるはずがない。現に菜花さんはこれまでに十数回も同じ様な風景を前に写真を撮ってきたが、彼女が撮った写真を確認して満足気な表情を見せることは一度も無かった。
 さっさと目的地に行き、着いてから写真を撮ればいいのに。言いはしないけど菜花さんが5、6回目の写真を撮ったぐらいから僕はそう思っていた。
 適当に駄弁りながら歩く。急に立ち止まって風景の写真を撮る。そしてまた、適当に駄弁りながら歩く。永延とそれの繰り返し。
 異性と2人きりで出かけることによって小説に使えるものが得られるかもしれないと思っていたのに、これだともはや一緒に遊んでいるとさえ言えないのではないか?
 なんなら、女王様の伝記を書く為に付き添っている従者、と言った方が正しいまである気がしてきた。……菜花さんの小説を書く為にこうして彼女と出かけているので、それが正しいと言われればそうなんだけど……でも、なんだかなぁ。

「待って」

 菜花さんの声が聞こえたと同時に僕の体の前に彼女の腕が伸びてきて、僕はピタリと足を止めた。
 電車を降りてから間もない頃は菜花さんの急な制止に止まりきれずに彼女の腕にそのまま激突していたが、この急停止も今はもう慣れたもの。まぁ、菜花さんと出掛けるのはこの一回きりが最後なので、これが今後役に立つことはないだろうけど。
 菜花さんはすぐ左隣に架けられている3つのアーチが連なっている形をした橋を眺めている。少し珍しいと言われればそうかもしれないし、珍しくないと言われればそうかもしれない、そんな橋。その上を小学生くらいの男女が僕たちがいる方とは逆の方向に向かって歩いていた。
 その橋に対してか、それとも橋の上を歩いている男女に対してか、はたまたそれら全てに対してなのか、菜花さんはカメラを縦向きにして構えた。
 …………これまではカメラを構えて2秒と経たずに写真を撮ってきた菜花さんだったが、今回はなかなかシャッターを切ろうとしない。
 いったいどうしたんだろう?
 僕は目の前の景色から菜花さんに視線を移す。僕はこれまで菜花さんが写真を撮る時は、彼女が撮ろうとしている景色にだけ目を向けていた。それと相まって、菜花さんがカメラを構えてからシャッターを切るまでのスピードが速かったので、僕は写真を撮る彼女の姿をしっかりと見てはいなかった。だから今になって、僕は写真を撮る菜花さんの姿をこの目に初めて映した。
 そこに僕の知る菜花 旭はいなかった。
 優等生で人気者である彼女も、我儘で自分勝手な子どもみたいな彼女もそこにはいない。
 カメラマンとしての菜花 旭がそこにはいた。
 見たこともない真剣な表情。獲物を狙う猟師のような鋭い目付きで、菜花さんはファインダーを覗いている。きっと今、彼女の意識はファインダーの中の景色にしか向けられていないのだろう。背筋をピンッと張りつめたその姿勢はいつも騒がしい彼女には似つかわしくない程、凛として美しい佇まいだった。
 菜花さんがカメラを構えて30秒ぐらいが経過したが、彼女はまだシャッターを切ろうとはしない。レンズの根本部分を小刻みに回して、レンズを伸び縮みさせている。
 顕微鏡のピントを合わせる作業みたいだ。そんなことを考えながら眺めていると菜花さんはレンズを回す手の動きを止めた。その瞬間――カシャンッと唐突にシャッターが切られた。
 大きな動作もなければ些細な動作すらもなかった。シャッターの切られる音だけが彼女が写真を撮ったことを僕に伝えていた。
 撮った写真を菜花さんはすぐに確認する。そして彼女は今日初めて、撮った写真を見て表情を変えた。
 それは満足気な表情――ではなかった。だけど、これまで撮ってきた写真とは違ったものが撮れたことは間違いなかった。
 柔らかく、優しい、微笑み。そんな表情で菜花さんは撮った写真を見つめていた。

「良い写真が撮れた?」

「ん? うーん……良い写真かは分からないけど、私が好きな写真は撮れたかな」

「へぇ。見せて」

 僕のお願いに菜花さんは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに「いいよ」と笑って僕にカメラを渡した。
 カメラのモニターに映し出されている1枚の写真。それは橋の上を歩く小学生ぐらいの幼い男女がメインの写真だった。
 青色から薄黄色に染まりかけている西の空の方に向かって歩きながら、橋の上で2人は互いの笑顔を向け合い、楽しそうに何かを話している。彼らは今日のことを思い返して話しているのかもしれないし、これからのことに想いを馳せて話しているのかもしれない。その答えを知る術は僕にはないけれど、写真の中の彼らがこの瞬間を幸せに想っていることは確かだった。
 良い写真だと、僕はそう思った。
 何が良いとか、どこがどう素晴らしいとかは、写真の知識がない僕は具体的に言葉に言い表すことは出来ない。
 でも本当に、心の底から良い写真だと思ったんだ。

「……これまでに撮った写真も見ていいかな?」

「えっ? う、うん! もちろん!」

 僕の発言が予想外だったのか、菜花さんはまた一瞬だけ驚いたリアクションを取ったが、すぐに嬉しそうに頷き、カメラに保存されている写真の見方を僕に教えてくれた。
 僕は次々と菜花さんが撮ってきた景色に目を通していく。
 真っ青な青空を背景に飛ぶ3匹の雀。小さな女の子と手を繋ぎ、沢山の物が詰まったレジ袋を片手に歩く母親の後ろ姿。どこかの公園で駆け回っている幼稚園児ぐらいの男の子たち。歩道の端にこぢんまりとささやかに咲いている小さな水色の花々。
 どの写真もこれといった特別なものなんて写っていないのに、どうしてか美しく、素晴らしい風景だと思えた。
 数々のコンテストで賞を受賞している人が撮ったものなんだから、そう感じるのは当たり前と言われれば当たり前なのかもしれない。もしかしたらその情報を知っているからこそ……いや、そう考えることは菜花さんに対して失礼であり、僕の感じた気持ちを蔑ろにするのと一緒だ。菜花さんがコンテストで賞を受賞しているカメラマンという前情報がなかったとしても、僕はきっと彼女が撮った写真を見て感動していただろう。
 そろそろカメラを返そうと思い、僕は次の写真を最後に決めてボタンを押す。
 モニターに写し出された写真を見て――僕は心奪われた。
 それは僕たちが住んでいる町の写真だった。
 高い位置から撮られた、夕暮れに染まる町並み。
 見慣れた町並み……のはずだった。しかし、そこに写っていたのは僕の知らない景色。
 あぁ、いや、違う。僕はこの景色を知っている。見たことがある。この景色は高速よりも上の方にある山の公園からの眺めだ。今までに何度も何度も見た景色。
 でも、僕は知らなかったんだ。こんなにも美しく、綺麗で、涙が込み上げてしまいそうになるぐらい、感動する景色だったなんて。僕は18年もこの町に住んでいたのに――。

「……ありがとう」

 礼を言って僕はカメラを菜花さんに返し、彼女が先ほど写真を撮った橋に目を向ける。
 写真に写っていたあの景色はもうそこにはなかった。
 特別なんてものはない、いたって普通の景色がまた目の前に広がっていた。
 菜花さんの撮った写真は彼女の視点そのものだと言えるのかもしれない。
 僕の目にはいたって普通に見える景色でも、菜花さんにはあれらの写真の様な美しい景色が見えている。
 18年も見続けた景色であったとしても、きっと菜花さんは特別な何かを見つけ出すのだろう。
 そう思うと少しだけ……本当にほんの少しだけだけど、菜花さんのことが羨ましく思えた。
 そんなことを考えながらぼんやりと菜花さんを眺めていると、彼女は首に下げられているカメラを持ち上げて僕に構え――カシャンッという音とともにシャッターは切られた。

「……もしかして僕を撮った?」

「そうだよ」

「どうして?」

「それはもちろん、四葩君がいい顔をしていて、私がそれを撮りたいと思ったからだよ。でも、ちょっとだけ間に合わなかったみたい」

 菜花さんは笑いながらカメラのモニターを僕に見せる。
 そこには口を半開きにさせ、ポカンと間の抜けた表情をした僕が鮮明に写し出されていた。
 ……僕は自分が写っている写真が嫌いだ。そもそもの話、自分の顔が嫌いだ。
 このゴミ箱のアイコンがついたボタンを押せば写真は消せるのだろうか?

「わーっ⁉︎  どうして消そうとするのっ⁈」

 僕がカメラに手を伸ばすと菜花さんは咄嗟にカメラを守るように抱き抱え、キッと僕を睨みつけた。
 やはりあれが写真を消すボタンのようだ。

「いやぁ、やっぱり数々のコンテストで賞を取っている人が撮る写真はものが違うな。こんな不細工な僕の顔でもカッコよく見えるんだから凄いもんだ。だからさ、もう一度よく見たいからカメラを貸してくれない?」

「絶対に思ってないでしょ! よくもまあそんなにペラペラと嘘が並べられるね」

「全部が全部嘘って訳じゃないよ。菜花さんが撮る写真は本当に凄いって思ってる。でも、僕は自分のことが嫌いなんだ。だから、頼むからさっきの写真を消してくれ」

 僕が両手を合わせてそうお願いすると、菜花さんは微かに顔をしかめた。
 その彼女の些細な表情の中にはどうしてか、怒りや悲しみがあるように僕は思えた。
 でも、きっとそれは気のせいだ。
 だって、さっき僕が言ったことに菜花さんが怒りや悲しみを感じる要素なんてどこにもないのだから。

「だーめっ。このカメラの中にあるのは私の思い出だから、消すかどうかは私が決めるの。SNSとかには投稿しないから安心してよ。それにさ――」

 菜花さんは少しだけ小走りで僕から距離を取ると、こっちを振り返り、寂し気に笑う。

「消したら悲しいじゃん。だって四葩君と今日ここに来た思い出はこれだけしかないんだからさ」

 ……その菜花さんの言葉が、表情が、僕が疑問に感じていたことの答えを語っていた。

「君って時々卑怯だ」

「むっ。ちょっと、それってどういうこと?」

「そのまんまの意味だよ」

 僕は頭を掻きながらため息を吐く。
 せめて彼女が感情豊かな人ではなく、感情が表情に一切出ない人だったなら良かったのに。
 そんな願っても絶対に叶わないことを考え、僕はポケットからスマホを取り出し、カメラアプリを開いて菜花さんに向ける。
 彼女の言う『思い出』ってやつが、僕も欲しいと思ったから。

「僕との思い出はこれだけって君は言ったけど、まだ帰る訳じゃないんだから思い出なんて好きなだけ残せるだろ。こんな風に、な」

 僕が写真を撮ろうとしていることに気付いたのか、菜花さんは焦って右手でピースを作り、ニカッと微笑む。それとほぼ同時に僕はスマホのシャッターボタンを押した。 
 パシャ――と軽やかな機械音が秋空の下で響き、菜花さんの姿がスマホの画面の左端に小さく表示される。
 拡大して写真を確認すると、急いでポーズをとったにも関わらず、菜花さんの姿はどこもブレずにハッキリと写いて、写真の中の彼女は旭という名前に負けないぐらい大袈裟で明るく、でも、それでいて自然体な笑顔を浮かべていた。
 ……にしてもやっぱり菜花さんは卑怯な人だ。
 僕は間抜け面を撮られたというのに自分だけポーズを決めて撮るなんて。

「どうどう? いい感じに撮れた?」

 菜花さんは走り寄ってきて、興奮気味に聞いてくる。
 それに対して僕は「全然ダメだった。急いで撮ったからブレブレだったよ」と嘘を吐いてポケットにスマホをしまった。

「えー……せっかく急いでポーズとったのにぃ……。まっ、いいか。四葩君が言ってた通り、まだまだこれから撮る機会もあれば、撮られる機会もあるだろうし」

 菜花さんは笑顔で言って、軽やかな足取りで再び歩き始める。
 僕はすぐに着いては行かず、彼女が写真を撮っていた橋に目を向けた。
 そこにはやはり、いたって普通の景色が広がっているだけだった。




 学校のグランドから遊具を全て撤去してみました、って感じのただっ広い広場を抜けるといきなり目の前に海が広がった。

「とーちゃーくっ!」

 菜花さんは弾んだ声でそう言うと夕陽をバックに両手を広げ、沈むオレンジの光に負けないくらいの眩しい笑顔を浮かべる。

「ここが目的地?」

「そうだよ。この浜辺は日本の夕陽百選に選ばれていて、その名の通り夕陽がとても綺麗に見える所なの」

 菜花さんのその話を聞いて「あぁ、だからか」と僕は納得した。
 冷え込んできた10月の浜辺にしては、人がちらほらといたからだ。
 若い男女のカップル。老夫婦。菜花さんと同じようなカメラを持ったダンディなおじさん。ダックスフンドを連れているお姉さん。
 みんながみんな、揃いも揃って沈んでいく夕陽を眺めている。
 [砂で描かれた巨大な銭形]や[街が一望出来るほど高い場所に建てられている神社]に行くには曲がらないといけない道を菜花さんは無視して海に向かってズンズンと進んでいくもんだから、いったいどこに連れて行かれるのかと不安に思っていたが……なるほど。
 今、目の前に広がっている景色はそれらの観光地に負けず劣らず美しい眺めだった。

「ふふん。綺麗でしょ?」

 菜花さんは得意気な顔をして僕に言った。
 僕は「うん」と素直に首を縦に振る。
 それを見て菜花さんは尚一層、得意気な顔を輝かせた。

「でしょでしょ! 他の有名な観光地と比べると知名度は低いかもだけど、私はここの景色が1番好きなんだよね」

「へぇ。ってことは、菜花さんが見てきた景色の中でここが1番美しい景色ってこと?」

「ん? う……う~ん……」

 僕の質問に菜花さんは目を瞑り、両腕を組んで困った顔をしてうんうんと唸る。
 僕にとっては軽はずみな気持ちでの質問だったけど、菜花さんにとっては難しい質問であったようで、今までに見たことがない程に彼女は悩んでいた。

「そういう……訳では……ない……のかな? …………ていうかそもそも、景色の美しさに優劣をつけるのは私あまり好きじゃないし、同じ場所であってもその日その日の天候とか季節とかのタイミングで違った顔を見せるし、景色っていう括りが同じでも被写体が変われば違った美しさがあるわけだし、夕焼けと朝焼けを比べろと言われてもそれぞれにはそれぞれの良さがあるわけであって――」

「わ、悪かった! ごめん! さっきの質問は無粋だった!」

 辿々しく喋っていたのにいきなり流暢に喋り出した菜花さんを僕は慌てて止める。
 多分あのまま喋り続けさせていたら、冗談ではなく本当に日が暮れるまで喋り続けていたかもしれない。それぐらいの勢いだった。
 今後菜花さんに「1番美しいと思った景色はどこ?」と絶対に質問しないようにしよう。

「……でも、ここが1番好きな景色ってことは何か理由があるんだろ?」
 
「うん。ここが好きな理由はちゃんとあるよ。ここって私が初めて写真を撮った場所なんだよね」

 菜花さんは夕陽に目を向ける。

「私が小さい時におばあちゃんが連れてきてくれてね、その時におばあちゃんが『旭ちゃんも撮ってみる?』ってカメラで写真を撮らしてくれたんだ。お父さんやお母さんがいる時はカメラに触ろうとしたら『おばあちゃんの仕事道具だから触らないの』って厳しく叱られていたから。だから、初めてカメラを使えるのがとてもとても嬉しくって」

 彼女は遠い目をして夕陽を眺めていた。
 今ではなく、過去に想いを馳せている様な、そういう目。

「初めは写真なんてどうでも良かった。カメラを構えるおばあちゃんの姿がかっこいいと思っていたから憧れていただけで。でも、自分で撮った夕陽の写真を見て、私すっごくびっくりしたんだ。カメラで撮る写真ってこんなにも綺麗なんだなぁ……って。だけど、それは違った。顔を上げて見ると、そこにも全く同じ景色が広がっていたんだよね。多分、その時になって私は初めてちゃんと目の前の景色に目を向けたんだと思う」

 菜花さんは夕陽に向けてゆっくりとカメラを構える。

「それからだよ、私がちゃんと景色を見るようになったのは。周りには美しく綺麗な景色が溢れていて、今までは漠然と見ていた景色の中にも気付かなかっただけで素晴らしい景色が沢山あって。この場所が、カメラが、私に気付かせてくれた。写真を撮りたいと思うきっかけを作ってくれた。だから、私はここの景色が1番好きなんだ」
 
 そう菜花さんは言い切ると、カシャンッ――という音とともにシャッターは切られた。
 はにかむように笑って菜花さんはカメラのモニターを僕に見せる。
 そこに写っていたのは、ど真ん中で輝く橙色の夕陽が波の立っていない静かな海に一本のオレンジ色の道を敷いている写真。
 菜花さんに切り取られた夕陽はやっぱり綺麗だった。
 まぁ、それは当たり前か。僕の目でも実物の景色はとても美しく綺麗だと感じるのだから。

「四葩君も写真撮ってみる?」

 急に何を思いたったのか菜花さんは見せていたカメラをぐいっと更に前に突き出して、僕に差し出した。
 機械感の強いそれは素人が触れてはいけない重々しい雰囲気を醸し出している。

「僕はいいよ。技術もなければセンスもないし。それにそういうカメラって色々と設定とかもしないといけないんだろ?」

「大丈夫大丈夫。設定は私がしてあるし、なんならオートで綺麗に撮れるモードもあるから。それにね、夕焼けはマジックアワーといって誰でも綺麗に撮れるんだよ」

 菜花さんは僕の返答を待たず、押し付けるように無理矢理カメラを僕に渡してきた。
 渡された手に見かけによらないずっしりとした重さが伝わる。

「……こういうカメラって高いんだよな。7、8千円くらいか?」

「んーと……確か8万くらいだったよ」

「なっ⁈ えっ⁉︎ は、はちまんっ⁈」

 予想を上回る言葉通りの桁違いの金額に僕は驚きを隠せなかった。
 僕の月のお小遣いは3千円。つまりは2年と3ヶ月の間、何も使わずに貯めればやっとこのカメラが買えるということになる……。
 冷や汗がじわりと額に滲む。自分の唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえる。カメラを持つ手に物理的ではない、違う重さが更に加わった。

「やっぱりいい」

「大丈夫。ちょっとやそっとじゃ壊れない……こともないけど、普通に使う分には壊れないよ」

「あのさ、こういう時は嘘でもいいから安心出来る言葉をかけるもんなんじゃないのかな……」

「ふふっ。しょうがないじゃん。だって事実だし」
 
 菜花さんは笑いながら後ろに両手を回して数歩後ずさる。
 その行動を見て僕は無自覚の内にため息を吐いていた。
 これまでに菜花さんと関わった時間を合計しても24時間に満たないはずなのに、こうなってしまえば彼女は気が済むまで自分の意思を曲げないことを僕は嫌というほど知っていた。
 仕方ない。さっと撮ってすぐに返そう。
 僕はカメラを夕陽に向けて構え、シャッターボタンを押す。
 カシャンッ――と音がして視界が一瞬だけ暗転。カメラのモニターに僕の切り取った夕陽が写る。
 
「ほら。撮ったよ」

 モニターを菜花さんに見えるようにして、カメラを返すために彼女に差し出した。
 しかし、菜花さんはしかめっ面を僕に向けるばかりで、一向にカメラを受け取ろうとはしない。

「あの、早く受け取って欲しいんだけど……」

「ダメ。適当に撮ったでしょ?」

「適当に撮るもなにも僕は素人なんだ。君みたいな写真なんて撮れるわけが無いだろ」

「私みたいな写真を撮れなんて誰も言ってないじゃん。それに、写真を撮るのに素人も何も関係ない。私は四葩君が見えている景色を見たいの」

 そう言った菜花さんの声はしっかりと怒っていた。
 彼女が怒っている姿はこれまでに散々見てきたけど、でも、それはどこかおちゃらけていて本気で怒ってはいなかった。
 だけど、今回は違う。
 本気……というのも少し違うが、菜花さんは真剣に怒っていた。
 そんな菜花さんに気圧されてしまい、僕はまた仕方なく夕陽に向けてカメラを構える。
 いったい菜花さんは僕に何の期待をしているのだろう?
 分からないまま、カメラのシャッターボタンを押す。さっき撮った夕陽とほとんど同じものが、カメラのモニターに写る。
 チラリと菜花さんに視線を向けると、彼女はしかめっ面のまま首を横に振った。
 それから僕は何度も何度も夕陽にカメラを向け、写真を撮った。
 撮る場所を変えたり、カメラの向きを横向きから縦向きに変えたり、菜花さんに聞いてF値?とかISO感度?とかも変えたり。何枚も何枚も写真を撮った。
 撮る度に菜花さんに「もういい?」と写真を見せながら聞いたが、彼女は首を横に振って一度も了承してくれることはなかった。
 菜花さんは『僕が見えている景色が見たい』と言っていた。僕が見えている景色なんてカメラに写っている景色そのままだというのに、どうして菜花さんは僕に写真を撮らせ続けるのだろう?
 僕が撮った写真が自分で撮った写真よりも綺麗ではないからか?
 そりゃあそうだろ。僕の見えている景色なんて、菜花さんの目で見ている景色に比べたら、お粗末なもんなんだから。
 菜花さんがカメラで初めて写真を撮った時、そのままの美しい景色が目の前に広がっていたと彼女は言っていた。だけど僕は菜花さんが撮った写真が美しいとは思えど、自分の目で見た実際の景色が美しいとは思わず、至って普通の景色だと思った。
 僕の目と菜花さんの目は違う。もしかしたら僕は目さえも普通以下なのかもしれない。全部が全部ゴミ同然の不良品。こんな僕が写真を撮り続けるなんて無意味以外の何ものでもない。それなのにどうして――。
 苛立ちや不満を抱えながら、僕はヤケクソ気味に何枚も何枚も写真を撮る。
 もう菜花さんに一々確認をとったりはしない。
 どうせ首を横に振られることなんて分かりきっているからだ。
 カメラのメモリーには同じ様な風景が増えていくばかり。
 ……あぁ、本当に無意味だ。ただただ虚しいだけ。
 もう何を言われたってカメラを突き返してやろう。そう決意を固めて、僕は菜花さんに目を向ける。
 菜花さんは僕の方なんて一切見てはおらず、沈んでいく夕陽を眺めていた。
 海に近付き、より一層赤みや丸みを帯びた夕陽。それを眺めている菜花さんの背中はやけに小さく、触れようと手を伸ばせばホログラムのように透過してしまいそうな、そんな儚さがあった。
 ――僕は無意識にカメラを構えていた。
 この一瞬を残したいと、そう思った時には既にシャッターを切っていた。
 カシャンッ、と音がして視界が暗転。僕はすぐにカメラのモニターを確認する。
 画面の左側にある小さな夕陽の逆光となって、右側に大きく写る菜花さんの姿は影みたいなシルエットになっていた。マウンテンパーカーを浜風に靡かせているそのシルエットは、控えめな彼女の体型と短めな髪型のせいもあってか少年のようにも少女のようにも見える。
 多分この写真を見せられて、写っている人物が菜花さんだと分かる人はいないかもしれない。
 しかし、僕が残したかった景色はちゃんとここには残っていた。
 なんか、こう……上手くは表現できないけど、それっぽい写真が撮れた……気がする。

「あっ。良い写真が撮れたって顔してる。見せて見せて」

 顔を輝かせて近付いてくる菜花さんに僕はカメラを差し出す。
 僕が良い写真が撮れたって顔をしていたからか、菜花さんはすぐにカメラを受け取った。 

「おっ、いいねこの写真。私好きだよ。センスあるじゃん」

 写真を確認した菜花さんは親指をグッと立ててニカッと笑う。
 自分の感情に素直な菜花さんだから、それがお世辞ではないのが分かった。

「菜花さんがいい感じに写っているから?」

 そんな軽口を叩いてしまったのはきっと照れ隠しだ。

「むっ。私そんなナルシストじゃ無いですー! ていうかこの写真見て写っているのが私だってすぐに気付く人なんていないでしょ」

 頬を膨らませ、両手の握り拳を腰の辺りでブンブンと上下に振って菜花さんは怒りを露わにする。
 それはいつも通りのどこかおちゃらけている怒り方だった。

「確かにそれは菜花さんの言う通りだと思うよ。でも、菜花さんが写っていることもまた、満足してくれた要因の一つであることは確かだろ? だって、何十枚と撮らされた夕陽だけが写っている写真には全然納得してくれなかったわけだし」

 散々首を横に振られ続けてきた鬱憤を思い出し、ちょっとした皮肉を込めて僕は言ってやった。
 そして、僕はすぐに後悔した。
 言われた菜花さんの表情がふくれっ面からしょんぼりとした顔へ一気に変化したからだ。
 菜花さんは表情をそのままに視線を僕から少し下にへと下げる。
 ……本当に彼女はつくづく卑怯な人だ。
 これだとまるで僕が嫌な奴みたいになるじゃないか。
 ……いや、まぁ、嫌な奴には変わりはないんだけども。
 だけども僕には菜花さんを傷付けるつもりは毛頭なかったわけであって……あー、今は頭の中で言い訳をするよりも、とにかく彼女に弁明を――。

「ねぇ」

 そう先に話を切り出したのは、僕ではなく菜花さんの方だった。
 菜花さんはゆっくりと僕に上目遣いを向ける。

「今日は楽しかった?」

 菜花さんのその声は微かに震えていた。
 よく見ると、肩も少し震えている。
 大きな丸い瞳が潤んでいるように見えるのは、きっと僕の気のせいでは無いはずだ。
 菜花さんの声も体も顔も、全部が全部、彼女が不安に包まれていることを語っていた。
 僕はそんな菜花さんに困惑しながらも、今日のことを思い返す。
 いきなり電車に乗せられ遠出をさせられて、お出かけとは称し難い散歩をさせられて、終いには嫌々ながらに無意味な写真を沢山撮らされて……。
 ――楽しかったかどうかだって? こんなの考えるまでもなかった。
 僕の返答は決まっていた。
 菜花さんの目を僕はしっかりと見据える。
 誤魔化しの効かないように、ちゃんと自分の想いを伝えるために。

「あぁ。楽しかったよ」

 言葉にしたそれは菜花さんを傷付けまいとする優しさでもなければ、彼女を気遣おうとする建前でもない、嘘偽り無しの感情だった。
 自分が書いた小説を読む読者の反応を初めてこの目で見た。カメラマンとしての菜花さんを知れた。残したいと思えるような景色に初めて出逢えた。
 それらの経験が今後小説を書く上で役に立つかどうかは分からない。
 だけど僕は菜花さんと過ごした今日を本当に楽しいと感じていた。
 僕の返答が意外だったのか、それとも僕が素直に楽しかったと口にしたのが意外だったのか、菜花さんは鳩が豆鉄砲を食ったような顔で僕のことを見つめていた。

「そこはさ、『そっかそっか。だけど、まっ、私が選んだ場所なんだから当たり前だよね』とか言うところなんじゃないの? 普段の菜花さんだったらさ」

 僕が慣れないおちゃらけた口調でそう言うと、菜花さんは目を丸くさせ「うわっ。いかにも私が言いそう」と言い、口元に手を当ててけらけらと笑う。
 
「やっぱり四葩君は凄いね。小説を書いているからかな? 人の性格や特徴を捉えるのが上手なんだね」

「いいや、違うな。菜花さんが分かりやす過ぎるんだよ」

「えー、そうなのかなぁ。そんなことはないと思うけど……。ならさ、今私が何を思っているか当ててみてよ」

 菜花さんは言ってから僕の顔をじーっと見つめる。
 真っ直ぐに、ただひたすらに。
 ……そんなにまじまじと見られても、僕はエスパーというわけではないから菜花さんが何を考えているかなんて全く分からない。

「……さぁて私が何を考えてるか当てれるかな、って思ってる?」

「ブップー。大外れ」

 両腕で大きくバッテンを作った菜花さんは「ほら、私分かりやすくないじゃん」と唇を尖らせ、勝ち誇った顔で言った。
 こんな無理難題をふっかけられて答えれる奴なんていないだろ。
 そんな文句の1つや2つは言ってやりたかったが、不毛な言い争いになることは目に見えていたので「それじゃあ、正解は?」と僕は話を進める。
 正直言って答えに興味など無いし、どうせ適当な単語でも思い浮かべていたに違いないんだろうけど――

「ふっふっふ。正解は、今日を四葩君が楽しんでくれたみたいで本当に良かった、だよ」

 菜花さんはスキップするみたいに弾んだ声でそう言うと、欲しい物を貰った子どもの様な無邪気で明るい笑顔を浮かべた。
 そんな彼女の表情を見て、僕はキュッと胸を締め付けられたかのような感覚を覚えた。
 くだらないことでも言うんだろうな、と決めつけていたからだろうか。
 どうやら僕は不意打ちをモロに食らってしまったらしい。
 照れているのがバレるのが嫌だったので、僕は誤魔化すように視線を夕陽に向ける。
 菜花さんもまた、僕につられるように夕陽の方に目を向けた。
 海に近付き過ぎた夕陽は地平線に届く前に段々と崩れて消えていく。
 夕陽が消えて見えなくってしまうまで、僕たちは黙ってそれを見届けていた。
 空の藍色に染まった部分には一等星が浮かんでいる。もうすぐ夜がやってくる。

「私ね、夕陽が沈んでしまったあとのこの碧とオレンジが入り混じった空が好きなんだ。夕方と夜の間の限られた時間。1日の終わりを噛みしめながら、その日その日の楽しかった出来事を頭に浮かべるの。今日は良い写真が撮れたなぁとか、今日のお昼ご飯のハンバーグは最高だったなぁとか、今日は遊びたかった人と遊べて嬉しかったなぁとか」

 夕陽が沈んだ後の空を眺めながら、まるで独り言を呟くみたいに菜花さんは言葉を紡いでいく。
 楽しかったことしか頭に浮かばないのは、いかにも菜花さんらしいと思った。
 夕陽が沈んだあとの浜辺にはもう僕と菜花さんだけしかいない。
 2人きりの広大な浜辺にささやかな波の音だけが通り過ぎていく。

「綺麗だよね……」

 菜花さんは視線をそのままに、目を細めて囁くように呟いた。そして――

「この美しい景色に呑まれて……私も消えてしまえばいいのに……」

 僕はびっくりした。
 『消えてしまえばいい』――そんなネガティブな、菜花さんらしくない発言をするなんて全くもって思いもしていなかったから。

「あっ。悲観的なものとか、死にたいわけじゃないんだよ。その……最後は幸せな気持ちのまま終わりたいなぁ……みたいな。そんな感じ」

 驚きで固まっていた僕に菜花さんは苦笑しながら言った。
 そんな菜花さんの様子を見て、僕の不安はさらに加速していく。
 嘘でもいいから「なーんて。冗談だよ」とか「言い間違えちゃった」みたいな、『消えてしまえばいい』を否定する言葉を僕は聞きたかったのかもしれない。
 僕がカメラで最後の写真を撮る前に菜花さんから儚さを感じたから、尚更余計に不安に想うところがあった。
 僕は今いったいどんな顔をしているのだろう?
 何かを言わないといけないとは思いながらも、何も言葉が出てこない。

「今、私のことおかしいやつだと思っているでしょ?」

「え? うん。でもそれは今に始まった話じゃなくて神社の時からだけど」

「うわっ! 酷い!」

 つい漏らしてしまった本音に、菜花さんは大袈裟にショックを受けたような顔をして大袈裟に肩を落とした。
 ……あぁ、本当に大袈裟だ。
 いつもどんなリアクションでさえ大袈裟なのに、大袈裟過ぎると言っても過言では無いくらい、その菜花さんのリアクションは大袈裟だった。
 変に居心地の悪くなった雰囲気を無理矢理いつもの調子に戻そうと、菜花さんが取り繕っているのは明らかだった。
 せっかく菜花さんから流れを作ってくれているのだから、あの話をぶり返す必要はない。僕もいつもの調子で「酷いも何も事実だろ」みたいな小馬鹿にするようなことを言えば、きっと菜花さんもまたいつもの調子でギャンギャンとそれを反論をして、それであの話は終わり。
 きっとそれがこの場での、僕と菜花さんの為の最適解。
 でも、僕はそれを選ばなかった。

「だけど……まぁ、分かるよ」

「分かってなーいっ! そりゃあ、ちょっとは人よりズレてるところはあるかもだけど……。でもでも! おかしいとまではいかないでしょ!」

「そっちの話じゃなくてだな……。菜花さんの幸せな気持ちのまま終わりたいっていう気持ち。僕も分かるよ。楽しみがある前日の夜に眠る時、このまま死んで起きなければいいのにって僕も思ったことがあるから」

 こんなこと誰にも話したことはなかった。
 それこそ頭のおかしいやつだと思われるから。
 楽しみなことがある日の前日の夜。僕はいつも考えながら目を瞑る。このまま眠るように死んでしまえば、期待に裏切られることもなければ楽しみが終わってしまう寂しさを味わうこともないのに――と。
 その根本的な想いは菜花さんが言っていたのと同じ『最後は幸せな気持ちのまま終わりたい』という願いからだ。
 菜花さんと僕は何もかもが正反対の全然違う生き物だと思っていた。だけど、意外なところで彼女と共感できる部分があった。
 どうしてか僕はそれを菜花さんに伝えたいと思ったんだ。

「ふぅん。そっか……」

 菜花さんはしばらくの間僕のことをなんとも言えない無色透明な表情で見つめていたが、そう言うとふっと顔を綻ばせた。
 それは色々な色が混ざったような微笑みだった。

「じゃあ昨日の夜、四葩君はそう思いながら寝たってことだ」

「はぁ? どうしてそうなるのさ?」

 突然の意味不明な菜花さんの発言に僕が不満気な態度をとると、彼女は声を上げて笑いながら日が沈んだ西の空に向かって白い砂浜の上を走っていく。
 僕は追いかけはせずに、離れていく菜花さんの背中をただ眺めていた。
 はしゃぐ少女のようなその姿には、儚さや不安はもう感じられない。

「私もねー! 四葩君と同じでねー!」

 菜花さんは僕たち以外誰もいなくなった浜辺全体に届きそうな大声を発すると、くるりと軽やかにこちらを振り返る。

「今日すっ~ごく楽しかったよー!」

 そう言い切った彼女の表情は、離れすぎた距離と日の落ちた薄暗さのせいで分からない。
 だけど、きっと――いつものような明るい笑顔であることは間違いなかった。
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