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8月編
95話 牡丹の浴衣
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いつもは車が通っているであろう一般道。しかし今日は車両の進入は禁止されていて、その両脇には沢山の屋台が並んでいた。
花火が始まる2時間も前だというのに、既に多くの人で賑わっている。
僕は駅や街での人混みは苦手だった。だけど、祭りでの人混みはみんながみんな楽しそうな顔をしていて、まるで幸せが形を成して往来しているみたいで好きだった。
それでもやはり、好きと人混みを歩くことが苦手なのは別な様で、ものの数分で僕と橘は他のみんなと逸れてしまっていた。
みんなと連絡して確認したところ、僕と橘、晴矢とはっちゃんと楓、日光と薊と瑞稀さんが一緒に行動しているらしい。
花火が打ち上がるまでの時間はまだまだ先なので、せっかくなら今一緒にいるメンバーで遊んだり食べ物を買ったりして、10分後くらいにまたどこかで合流しようということになっている。
「色々とやってみたいことや食べてみたいものが沢山あるんですよね。どれからにしましょう」
僕の隣にいる橘は弾んだ声でそう言いながら周辺を見渡した。
その橘の目は宝物を探す少年のように輝いていた。
浴衣を着た時から心が浮き立っている様子だったが、ここに着いてからというもの更にその気は増したような気がする。
まぁ、だからといって別にどうってことはないんだけれど……ただ、そんな橘のどこかに僕は危なっかしさを感じていた。
「あっ、陸さん。あっちの方に行ってみましょうよ」
何かめぼしいものでも見つけたのか、橘は僕のパーカーの袖を引っ張り僕を急かす。
「おいおい、そんなに急がなくっても屋台は逃げないって」
「逃げはしなくても、売り切れはしますよ」
「早い時間だから大丈夫だって。ったく……まだ足取りが安定してないってのに、転んでも知らねぇぞ」
僕がそう言った矢先だった――橘は躓き、バランスを崩した彼女の体が前にへと流れる。
「っ、危ない!」
僕は咄嗟に腕を橘の腹の前に回し、空いている方の手で彼女の肩を掴む。
橘の体が軽い事もあってか、なんとか踏みとどまり2人とも転ばずに済んだ。
「あのな……はしゃぐなとまでは言わないけど、少しは落ち着いて行動しろよ」
「す、すみません。気をつけます……」
橘はしゅんとした顔で僕に頭を下げる。
その様はまるで、つい先程まで綺麗に咲いていた花が急に萎んでしまったかのような、そんなイメージを僕に連想させた。
ああは言ったけど、そうあからさまに落ち込まれてしまうとばつが悪い。
咄嗟のことだったとはいえ、少し言い過ぎたのではないかと僕は反省する。
橘だって悪気があったわけではないし、このままの暗い気持ちで彼女がお祭りを楽しめるはずがなくって、それは僕の望むところでは無く……あぁ、なんだかんだ言いながらもとどのつまり、僕は橘に笑顔でいて欲しいのだ。
「あー……浴衣の柄で思ったことがあるんだけどさ。橘が着ている浴衣って、やっぱり落ちついている方なんだな」
空気を変えようと、僕は橘に話しかける。
橘と2人っきりになる事もこれで最後かもしれないし、彼女の浴衣のことについて話せるのはもうこのタイミングしかないかもしれない。だから僕は浴衣のことを話題に出した。
周りには浴衣を着ている人が多く、その中でも男性は藍や黒等の暗めな色、女性は赤や黄色やピンク等の花が咲き乱れている色鮮やかなものを着ている人が多い。
それらと比べてみると、橘が着ているのは紺色の地に同じ種類の白い花がところどころに咲いているシンプルな柄の浴衣であり、とても控えめな印象を受けた。
「どうしたんですか? 急に浴衣のことに触れるなんて。言うタイミングならいつでもありましたよね? それこそ初お披露目の時に言うべきだったのではないですか?」
橘はそう言って無愛想な表情のまま首を傾げた。
あれ……なんだか怒ってらっしゃる?
「いや、だってあの時は急いでたし……」
「ふーん……」
橘はしばらく冷ややかな目で僕の事を見ていたが、突然「ハッ!」と言って何かを閃いたかのようなリアクションを取るや、ニマニマと笑った。
なんだなんだ。しょげていると思えばなんだか怒っているし、かと思えば急に気色の悪い笑みを浮かべるし……情緒が不安定で怖いんだけど。
「はは~ん。はいはい、そういうことですか。なるほどです」
「何がなるほどなんだよ?」
「分かってますよ。瑞稀さんを褒めるための練習台ってわけですね。いいですよ。そういった理由で褒められるのは癪ですけど、陸さんがちゃんと浴衣を褒める事が出来ているかどうか私が判定してあげますよ」
橘は両腕を組んで偉そうにふんぞりかえる。
「まぁ、陸さんのことですから、どうせろくな褒め言葉も出やしなければ逆に失礼なことを言いそう――」
「違う」
「え?」
言葉を遮って呟いた僕を橘は驚いた顔で見ていた。
たぶん、僕の呟いた声に怒りが感じられたからだ。
実際のところ、ちょっとだけムカついている僕がいた。
僕のことを小馬鹿にするような事を橘が言っていたからではない。それは取るには足らないこと。それよりも前に橘が言った言葉。練習台って言葉が僕は嫌だったのだ。
僕が橘のことをそんなふうに思っていると彼女に思われるのも嫌だったし、何より橘自身がその言葉を受け入れているのが嫌だった。
そりゃあいつもの橘に対する態度や昨日の彼女の水着に対する僕の反応を見れば、そう思われても仕方がないとは思うけどさ……。
「練習台だなんて思ってない。橘の浴衣姿は本当に綺麗だよ」
浴衣をレンタルした呉服店には橘が今着ている浴衣の他に3着の浴衣があった。その3着は赤や黄色系統の色鮮やかな浴衣だった。橘の性格的にその3着の内のどれかを僕は選ぶと思っていたのだが……しかし、橘は迷うことなく今着ているものを選んだ。
その時僕は本人が着たいものを着ればいいと思いながらも、背伸びをして大人びた浴衣を着るよりも身の丈にあった浴衣を選べばいいのに、とも思っていた。
だけど、その考えはすぐに改めさせられた。
店員に連れられて店の奥から出てきた浴衣姿の橘を見た時、僕は紛れもなく息を呑んだ。
普段の橘は可愛いらしい少女という感じなのだが、そこにいたのは一人の美しい女性だった。
まぁ、それをそのまま本人に伝えれば得意げな顔をして調子に乗るだろうから言わないが。
「もっと弾けた明るい色の方が橘の性格的には合っているんだろうけどさ、その浴衣がどうしてか……お前にすごく似合ってると思ったんだ。落ち着いているし大人びていて、とても綺麗だ」
僕がそう言い切ったあとも、橘はポカンと呆気に取られたような顔で固まったままだった。
僕が褒めたことがそんなにも意外だったのだろうか? 今思い返してみれば橘の容姿を褒めたのは、彼女と初めて会った時に勢いで褒めてしまったあの時だけだったような気がするけど……あぁ、うん。今まで散々馬鹿にされるようなことしか言われなかったのに、急に真剣に褒められたらそりゃあ驚くよな。うわっ……なんだか恥ずかしくなってきた。
「って結局お前の言う通りになっちまったな。ろくな褒め言葉も浮かばなければ、失礼なこと言ったかも。ごめん、気にしないでくれ」
僕は橘から逃げるように足を前にへと進め始める。しかし、数歩も歩かない内に橘に袖を引かれて僕は足を止められた。
「気にしないでくれとか……そんなの無理に決まっているじゃ無いですか」
僕が後ろを振り返ると、橘は少し顔を下に向けていた。
その顔が赤くなっているように見えたのは、きっと提灯や屋台の灯りのせいだけじゃなかった。
「その……ありがとうございます。そうですか、似合ってますか。それは嬉しいですね」
そう言って橘は顔を上げて笑った。
花が咲くように明るく笑う橘にしては珍しく、それは儚げな笑顔だった。
「この浴衣の花は牡丹の花なんです。私の苗字と同じだったのでこれにしました」
橘は自分が着ている浴衣に視線を移しながらそう話した。
「へぇ、そうな……」
僕はそこまで言って言葉を止める。
さっき橘が言ったことに引っかかった部分があったからだ。
「ん? 苗字? 名前じゃなくて?」
「あれ? 私、名前って言わなかったですか?」
僕の指摘に橘はキョトンとした顔で首を傾げた。
だいたい橘が何かを誤魔化そうとする時は分かりやすいくらいに焦るので、多分あれは僕の聞き間違いか、単なる橘の言い間違いだったのかもしれない。
「ごめん。もしかしたら僕の聞き間違いだったかも」
「そうですか。ところで陸さん、あれ食べましょうよ。私もうお腹ペコペコです」
橘は近くにあった飴屋の屋台を指差す。
「いきなり飴か……。たこ焼きとか焼きそばとか、そういうのを食べたあとの方がいいんじゃないか?」
「今日はお祭りでしか食べられらないような物を食べるって決めているんです」
橘はそう言って飴屋の列に並んだ。
僕もそれに続いて橘の隣にへと並ぶ。
橘が自由に買い物が出来るようにある程度のお金を僕は彼女に渡しているので、一緒に並ぶ必要は別にないのだが……よくよく考えてみれば僕は昨日のスイカ割りから何も食べておらず、僕も橘と同じでお腹がかなり空いていた。それに、さっき橘が言っていた言葉。『祭りでしか食べられないようなものを食べる』っていう橘の言葉に僕は思うところがあった。
来年の春に死ぬ僕にとって今日の祭りは人生最後の祭りとなるかもしれない。だからどうせなら僕も、祭りでしか食べないようなものを食べようと、そう思い僕も飴を食べることにした。
すぐに僕らが注文する順番がきて、橘はリンゴ飴を頼み、僕はブドウ飴を頼んだ。
僕たちは飴を受け取り、人の通りが少ない道の脇に移動する。
祭りのイメージ的にはリンゴ飴だけど、僕はあまりリンゴ飴が好きではなかった。美味しいとは思うけど、いかんせん食べ辛い。そして、食べることに時間をかければ飴がベタついて更に食べ辛くなり、芯の周りを食べ終える頃には口の周りが凄いことになる。それと比べると、ブドウ飴の方は一粒一粒が一口大なので食べやすい。
僕は一粒、二粒と口に運び、すぐにブドウ飴を完食する。
たぶん橘のあの小さな口だとリンゴ飴を食べるのにかなり苦戦しているんだろうなぁ。
そんなことを思いながら橘の方を向いた時だった――
「え……」
僕は想像もしていなかった光景に度肝を抜かれた。
橘が涙を流していたのだ。
どうして橘が泣いているのかは分からない。
分からないけども、確かに言えることが一つだけある。
それは、橘が悲しみや辛いといった感情で泣いている訳ではないということ。
橘は幸せそうに微笑みながら涙を流していた。
「泣くほど美味しいのか、それ?」
「へ? 泣くほどって誰が……あれ?」
橘は慌てながら涙を拭う。僕に指摘されて初めて自分が泣いていることに気づいた様子だった。
「ごめんなさい」
「いや、別に謝らなくてもいいけどさ。なんで泣いてるんだよ?」
「なんでって言われましても……」
橘は困った顔をして下を向き、僕から顔を逸らした。
さっきのあの様子だと、もしかしたら橘自身も自分がどうして泣いていたのかを理解できていないのかもしれない。
「嬉しかったから……だと思います」
橘はしばらくの間持っているリンゴ飴を見ながら考え込むような表情をしていたが、囁くようにそう言うと顔を上げた。
「私はずっと祭りに行くことに憧れを持っていたので。こうして浴衣を着て、リンゴ飴を食べて、あぁ、私は祭りに来てるんだって、そんな実感が湧いてしまったから、だから無意識のうちに泣いてしまったんだと思います。それと……」
橘はじっと僕の事を見つめる。
それと、なんだろう? 橘がこうして僕の事を見ているということは、彼女が泣いていたことに僕が何か関係しているんだろうけど思い当たる節が全くない。だって僕はブドウ飴を食べていただけだし……。
「それと?」
続きを中々言おうとしない橘に僕は痺れを切らし、続きの言葉を催促した。
橘は「うーん」と悩むような声を出し、それから笑った。
それは花が咲いたような、いつも通りの明るい笑顔だった。
「やっぱりこれは内緒にしておきます」
「えっ。なんでだよ?」
「ふふっ。それも内緒です」
橘はリンゴ飴をひと齧りし、また嬉しそうに笑った。
この後、みんなと合流するまでに僕は何度も橘に聞いたが、結局最後の最後まで教えてくれることはなかった。
花火が始まる2時間も前だというのに、既に多くの人で賑わっている。
僕は駅や街での人混みは苦手だった。だけど、祭りでの人混みはみんながみんな楽しそうな顔をしていて、まるで幸せが形を成して往来しているみたいで好きだった。
それでもやはり、好きと人混みを歩くことが苦手なのは別な様で、ものの数分で僕と橘は他のみんなと逸れてしまっていた。
みんなと連絡して確認したところ、僕と橘、晴矢とはっちゃんと楓、日光と薊と瑞稀さんが一緒に行動しているらしい。
花火が打ち上がるまでの時間はまだまだ先なので、せっかくなら今一緒にいるメンバーで遊んだり食べ物を買ったりして、10分後くらいにまたどこかで合流しようということになっている。
「色々とやってみたいことや食べてみたいものが沢山あるんですよね。どれからにしましょう」
僕の隣にいる橘は弾んだ声でそう言いながら周辺を見渡した。
その橘の目は宝物を探す少年のように輝いていた。
浴衣を着た時から心が浮き立っている様子だったが、ここに着いてからというもの更にその気は増したような気がする。
まぁ、だからといって別にどうってことはないんだけれど……ただ、そんな橘のどこかに僕は危なっかしさを感じていた。
「あっ、陸さん。あっちの方に行ってみましょうよ」
何かめぼしいものでも見つけたのか、橘は僕のパーカーの袖を引っ張り僕を急かす。
「おいおい、そんなに急がなくっても屋台は逃げないって」
「逃げはしなくても、売り切れはしますよ」
「早い時間だから大丈夫だって。ったく……まだ足取りが安定してないってのに、転んでも知らねぇぞ」
僕がそう言った矢先だった――橘は躓き、バランスを崩した彼女の体が前にへと流れる。
「っ、危ない!」
僕は咄嗟に腕を橘の腹の前に回し、空いている方の手で彼女の肩を掴む。
橘の体が軽い事もあってか、なんとか踏みとどまり2人とも転ばずに済んだ。
「あのな……はしゃぐなとまでは言わないけど、少しは落ち着いて行動しろよ」
「す、すみません。気をつけます……」
橘はしゅんとした顔で僕に頭を下げる。
その様はまるで、つい先程まで綺麗に咲いていた花が急に萎んでしまったかのような、そんなイメージを僕に連想させた。
ああは言ったけど、そうあからさまに落ち込まれてしまうとばつが悪い。
咄嗟のことだったとはいえ、少し言い過ぎたのではないかと僕は反省する。
橘だって悪気があったわけではないし、このままの暗い気持ちで彼女がお祭りを楽しめるはずがなくって、それは僕の望むところでは無く……あぁ、なんだかんだ言いながらもとどのつまり、僕は橘に笑顔でいて欲しいのだ。
「あー……浴衣の柄で思ったことがあるんだけどさ。橘が着ている浴衣って、やっぱり落ちついている方なんだな」
空気を変えようと、僕は橘に話しかける。
橘と2人っきりになる事もこれで最後かもしれないし、彼女の浴衣のことについて話せるのはもうこのタイミングしかないかもしれない。だから僕は浴衣のことを話題に出した。
周りには浴衣を着ている人が多く、その中でも男性は藍や黒等の暗めな色、女性は赤や黄色やピンク等の花が咲き乱れている色鮮やかなものを着ている人が多い。
それらと比べてみると、橘が着ているのは紺色の地に同じ種類の白い花がところどころに咲いているシンプルな柄の浴衣であり、とても控えめな印象を受けた。
「どうしたんですか? 急に浴衣のことに触れるなんて。言うタイミングならいつでもありましたよね? それこそ初お披露目の時に言うべきだったのではないですか?」
橘はそう言って無愛想な表情のまま首を傾げた。
あれ……なんだか怒ってらっしゃる?
「いや、だってあの時は急いでたし……」
「ふーん……」
橘はしばらく冷ややかな目で僕の事を見ていたが、突然「ハッ!」と言って何かを閃いたかのようなリアクションを取るや、ニマニマと笑った。
なんだなんだ。しょげていると思えばなんだか怒っているし、かと思えば急に気色の悪い笑みを浮かべるし……情緒が不安定で怖いんだけど。
「はは~ん。はいはい、そういうことですか。なるほどです」
「何がなるほどなんだよ?」
「分かってますよ。瑞稀さんを褒めるための練習台ってわけですね。いいですよ。そういった理由で褒められるのは癪ですけど、陸さんがちゃんと浴衣を褒める事が出来ているかどうか私が判定してあげますよ」
橘は両腕を組んで偉そうにふんぞりかえる。
「まぁ、陸さんのことですから、どうせろくな褒め言葉も出やしなければ逆に失礼なことを言いそう――」
「違う」
「え?」
言葉を遮って呟いた僕を橘は驚いた顔で見ていた。
たぶん、僕の呟いた声に怒りが感じられたからだ。
実際のところ、ちょっとだけムカついている僕がいた。
僕のことを小馬鹿にするような事を橘が言っていたからではない。それは取るには足らないこと。それよりも前に橘が言った言葉。練習台って言葉が僕は嫌だったのだ。
僕が橘のことをそんなふうに思っていると彼女に思われるのも嫌だったし、何より橘自身がその言葉を受け入れているのが嫌だった。
そりゃあいつもの橘に対する態度や昨日の彼女の水着に対する僕の反応を見れば、そう思われても仕方がないとは思うけどさ……。
「練習台だなんて思ってない。橘の浴衣姿は本当に綺麗だよ」
浴衣をレンタルした呉服店には橘が今着ている浴衣の他に3着の浴衣があった。その3着は赤や黄色系統の色鮮やかな浴衣だった。橘の性格的にその3着の内のどれかを僕は選ぶと思っていたのだが……しかし、橘は迷うことなく今着ているものを選んだ。
その時僕は本人が着たいものを着ればいいと思いながらも、背伸びをして大人びた浴衣を着るよりも身の丈にあった浴衣を選べばいいのに、とも思っていた。
だけど、その考えはすぐに改めさせられた。
店員に連れられて店の奥から出てきた浴衣姿の橘を見た時、僕は紛れもなく息を呑んだ。
普段の橘は可愛いらしい少女という感じなのだが、そこにいたのは一人の美しい女性だった。
まぁ、それをそのまま本人に伝えれば得意げな顔をして調子に乗るだろうから言わないが。
「もっと弾けた明るい色の方が橘の性格的には合っているんだろうけどさ、その浴衣がどうしてか……お前にすごく似合ってると思ったんだ。落ち着いているし大人びていて、とても綺麗だ」
僕がそう言い切ったあとも、橘はポカンと呆気に取られたような顔で固まったままだった。
僕が褒めたことがそんなにも意外だったのだろうか? 今思い返してみれば橘の容姿を褒めたのは、彼女と初めて会った時に勢いで褒めてしまったあの時だけだったような気がするけど……あぁ、うん。今まで散々馬鹿にされるようなことしか言われなかったのに、急に真剣に褒められたらそりゃあ驚くよな。うわっ……なんだか恥ずかしくなってきた。
「って結局お前の言う通りになっちまったな。ろくな褒め言葉も浮かばなければ、失礼なこと言ったかも。ごめん、気にしないでくれ」
僕は橘から逃げるように足を前にへと進め始める。しかし、数歩も歩かない内に橘に袖を引かれて僕は足を止められた。
「気にしないでくれとか……そんなの無理に決まっているじゃ無いですか」
僕が後ろを振り返ると、橘は少し顔を下に向けていた。
その顔が赤くなっているように見えたのは、きっと提灯や屋台の灯りのせいだけじゃなかった。
「その……ありがとうございます。そうですか、似合ってますか。それは嬉しいですね」
そう言って橘は顔を上げて笑った。
花が咲くように明るく笑う橘にしては珍しく、それは儚げな笑顔だった。
「この浴衣の花は牡丹の花なんです。私の苗字と同じだったのでこれにしました」
橘は自分が着ている浴衣に視線を移しながらそう話した。
「へぇ、そうな……」
僕はそこまで言って言葉を止める。
さっき橘が言ったことに引っかかった部分があったからだ。
「ん? 苗字? 名前じゃなくて?」
「あれ? 私、名前って言わなかったですか?」
僕の指摘に橘はキョトンとした顔で首を傾げた。
だいたい橘が何かを誤魔化そうとする時は分かりやすいくらいに焦るので、多分あれは僕の聞き間違いか、単なる橘の言い間違いだったのかもしれない。
「ごめん。もしかしたら僕の聞き間違いだったかも」
「そうですか。ところで陸さん、あれ食べましょうよ。私もうお腹ペコペコです」
橘は近くにあった飴屋の屋台を指差す。
「いきなり飴か……。たこ焼きとか焼きそばとか、そういうのを食べたあとの方がいいんじゃないか?」
「今日はお祭りでしか食べられらないような物を食べるって決めているんです」
橘はそう言って飴屋の列に並んだ。
僕もそれに続いて橘の隣にへと並ぶ。
橘が自由に買い物が出来るようにある程度のお金を僕は彼女に渡しているので、一緒に並ぶ必要は別にないのだが……よくよく考えてみれば僕は昨日のスイカ割りから何も食べておらず、僕も橘と同じでお腹がかなり空いていた。それに、さっき橘が言っていた言葉。『祭りでしか食べられないようなものを食べる』っていう橘の言葉に僕は思うところがあった。
来年の春に死ぬ僕にとって今日の祭りは人生最後の祭りとなるかもしれない。だからどうせなら僕も、祭りでしか食べないようなものを食べようと、そう思い僕も飴を食べることにした。
すぐに僕らが注文する順番がきて、橘はリンゴ飴を頼み、僕はブドウ飴を頼んだ。
僕たちは飴を受け取り、人の通りが少ない道の脇に移動する。
祭りのイメージ的にはリンゴ飴だけど、僕はあまりリンゴ飴が好きではなかった。美味しいとは思うけど、いかんせん食べ辛い。そして、食べることに時間をかければ飴がベタついて更に食べ辛くなり、芯の周りを食べ終える頃には口の周りが凄いことになる。それと比べると、ブドウ飴の方は一粒一粒が一口大なので食べやすい。
僕は一粒、二粒と口に運び、すぐにブドウ飴を完食する。
たぶん橘のあの小さな口だとリンゴ飴を食べるのにかなり苦戦しているんだろうなぁ。
そんなことを思いながら橘の方を向いた時だった――
「え……」
僕は想像もしていなかった光景に度肝を抜かれた。
橘が涙を流していたのだ。
どうして橘が泣いているのかは分からない。
分からないけども、確かに言えることが一つだけある。
それは、橘が悲しみや辛いといった感情で泣いている訳ではないということ。
橘は幸せそうに微笑みながら涙を流していた。
「泣くほど美味しいのか、それ?」
「へ? 泣くほどって誰が……あれ?」
橘は慌てながら涙を拭う。僕に指摘されて初めて自分が泣いていることに気づいた様子だった。
「ごめんなさい」
「いや、別に謝らなくてもいいけどさ。なんで泣いてるんだよ?」
「なんでって言われましても……」
橘は困った顔をして下を向き、僕から顔を逸らした。
さっきのあの様子だと、もしかしたら橘自身も自分がどうして泣いていたのかを理解できていないのかもしれない。
「嬉しかったから……だと思います」
橘はしばらくの間持っているリンゴ飴を見ながら考え込むような表情をしていたが、囁くようにそう言うと顔を上げた。
「私はずっと祭りに行くことに憧れを持っていたので。こうして浴衣を着て、リンゴ飴を食べて、あぁ、私は祭りに来てるんだって、そんな実感が湧いてしまったから、だから無意識のうちに泣いてしまったんだと思います。それと……」
橘はじっと僕の事を見つめる。
それと、なんだろう? 橘がこうして僕の事を見ているということは、彼女が泣いていたことに僕が何か関係しているんだろうけど思い当たる節が全くない。だって僕はブドウ飴を食べていただけだし……。
「それと?」
続きを中々言おうとしない橘に僕は痺れを切らし、続きの言葉を催促した。
橘は「うーん」と悩むような声を出し、それから笑った。
それは花が咲いたような、いつも通りの明るい笑顔だった。
「やっぱりこれは内緒にしておきます」
「えっ。なんでだよ?」
「ふふっ。それも内緒です」
橘はリンゴ飴をひと齧りし、また嬉しそうに笑った。
この後、みんなと合流するまでに僕は何度も橘に聞いたが、結局最後の最後まで教えてくれることはなかった。
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