藤城皐月物語

音彌

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第10章 修学旅行 奈良編

456 二月堂

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 修学旅行で東大寺を訪れている稲荷小学校の6年生たちは大仏殿を出た。ここでお土産を買ったり鹿と戯れたりする観光班と、二月堂や法華堂など仏堂や仏像を見学する勉強班に分かれた。
 前島先生の率いる勉強班は二月堂裏参道を抜けて二月堂参籠所の前に出た。ここからは二月堂へ続く登廊のぼりろうだ。右手は芝の坂になっていて、その上に立つ二月堂を望みながら屋根付きの階段を上った。
「清水寺みたいだな」
 藤城皐月ふじしろさつきは二月堂を見て、昨日の京都観光で訪れた清水寺とイメージが重なった。その既視感に思わず独り言が口から出た。
「そうだね」
 隣を歩いていた栗林真理くりばやしまりは皐月を見ずに、二月堂を見ながら応えた。

 春日山の麓に建つ二月堂は清水寺の本堂と同じ懸造かけづくりという建造物で、斜面上に水平になるように建てられている。建物を支える根元が北から南にかけて傾斜が下がっている。
 登廊の下から高台の上に建つ二月堂を見ると、斜面に合わせて仏堂の手前の欄干の下の柱が長く、奥にいくほど短くなっている。柱が整然と並んでいるところがグランドピアノの弦のようで美しい。
「清水寺では舞台の下から本堂を見上げたけど、二月堂は見上げながら近づくのがいいよね」
「大仏殿を出てここまで、ずっと美しいね。真理もそう思わない?」
「美しいのはバスを降りてからずっとだよ」
 皐月は真理の方が自分よりもずっと東大寺に感動しているんじゃないかと思った。境内を見ながら考察にうつつを抜かしている自分よりも、見るものを素直に受け止めている真理の方が感動が大きいのかもしれない。

 二月堂の斜面では鹿が一頭、良弁杉ろうべんすぎの木陰で草を食んでいた。鹿よりも歴史的建造物を選んだ学習班にとって、鹿の出現は御仏の賜物のようなものだ。
 斜面の芝生の緑と鹿の茶色、堂宇の焦げ茶色の柱と切り口の白、そして空の青の色合いが浮世絵のように鮮やかだ。謎を探求する必要のない、こうした何気ない光景は皐月の心に深く刻まれた。
「ここは何度でも来たいね。季節が変わるたびに来られたらいいな」
 すぐ後ろにいた二橋絵梨花にはしえりかがつぶやいた。
 絵梨花のこの言葉は誰に言っているのだろう、と思った。まさか自分に言っているのでは、と皐月は自惚れそうになったが、一人で来たいに決まっていると思い直した。

 二月堂の舞台を歩く勉強班の児童たちは眼下に見下ろす景色を見て感嘆の声を上げていた。
 手前には開山堂があり、樹々の先には屋根の鴟尾しびが黄金色に輝く大仏殿が見える。その先にはかつての平城京だった奈良市街が一望でき、はるか遠くに生駒山が霞んで見える。
「ここの眺望は清水の舞台よりもずっといいな……。清水の奥の院といい勝負だ。江嶋もそう思わない?」
 皐月の隣には江嶋華鈴えじまかりん野上実果子のがみみかこがいた。その隣に吉口千由紀よしぐちちゆきもいたが、千由紀は皐月のことを気にしないで、自分の世界に入っていた。
「ほんと……いい眺め」
 華鈴の髪が南都を吹くそよ風になびいていた。大仏殿を出て、皐月は初めて華鈴と話ができた。
 修学旅行の間、クラスの違う華鈴とはなかなか接する機会がなかった。皐月は刻まれたとだけでなく、華鈴や実果子ともこの高揚感を共に味わいたいと思っていた。

「ねえ、藤城。ここから見える街が平城京ってこと?」
 勉強嫌いな実果子の口から平城京という言葉が出た。実果子は6年生になって社会の授業を真面目に聞くようになったのかもしれない。
 5年生だった頃の実果子は授業をまともに聞くような子ではなかった。皐月は実果子の勉強への関心の高まりが見られたことが嬉しかった。
「そうだよ。俺たちは今、西から東を眺めているんだ。東大寺は平城京に東の端にあるから、目の前の西側は全て平城京だ」
「そうか……そう考えると凄いな。歴史を体験しているみたいだ」
「だろ? あっ!」
「どうした?」
 皐月は重大なことに気がついた。歴史のことばかり勉強していたせいで、観光地としての二月堂の知識の習得が疎かになっていた。

「西側を眺めているってことはさ……ここから夕陽を眺めると、生駒山に日が沈むところが見られるわけじゃん」
「ああ……そういえばそうだね。ここから見る夕焼け空って、きっと美しいんだろうな」
 皐月は華鈴の横顔を見て、夕日に照らされた華鈴のことを想像した。昼前の明るい太陽のもとで見る華鈴もかわいいが、日没前の華鈴はもっと魅力的に見えるだろう。もし自分がその場にいたら、夕日に輝く大仏殿の鴟尾しびよりも華鈴に心を奪われるに違いない。
「私、まだ日が沈むところって見たことがない」
「俺もないな……」
 実果子の言う通り、皐月もまだ日没を見たことがない。暗くなるまで外で遊んでいたことは何度もあるが、太陽のことなんて気にもしなかった。
「またここに夕陽を見に来なければならなくなったな……」
「そうだね」
「うん」
 誰に言ったというつもりもなかったが、皐月の言葉に華鈴も実果子も応えてくれた。皐月は5年生の時から二人には同性の友だちには感じなかった恋愛に近い感情を抱いていた。どんな形であれ、いつか華鈴や実果子と東大寺へ来ようと思った。
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