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第10章 修学旅行 奈良編
499 夢心地
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バスが出るので、栗林真理と席を代わって藤城皐月は自分の席に戻った。二橋絵梨花はやはり窓際の席を皐月に譲った。
「藤城さん、もうこっちに戻って来ないかと思ってた」
「どうして? 俺の席はここだよ」
「そうだけど、神谷さんと楽しそうだったから」
「バスレクも終わって、やっと少し落ち着ける。でも、まだ学校に着いたら挨拶をしなきゃいけないからな……」
挨拶の文言は修学旅行のしおりに書いてある。ナップサックから出して確認すればいいのだけれど、面倒くさい。だがそうも言ってられないので、皐月はナップサックを開けた。
「あら? いい匂い」
「ああ……。匂い袋だね、この香りは」
「野上さんと交換したので有名な匂い袋だね」
急に野上実果子の名前が出たので驚いた。絵梨花の顔を見ると、こういう時も余裕のある笑顔をしていた。
「そういうゴシップに疎い二橋さんが知っているくらいなら、俺と野上の話は相当広がってるみたいだな」
体験学習で作った匂い袋を男女で交換するとカップルになるという言い伝えがあるらしい。稲荷小学校の先輩から代々伝わっている迷信だ。
兄や姉がいる者は知っている話だが、皐月はそのことを知らなかった。だが、交換相手の実果子はもしかしたら知っていたのかもしれない。
「俺は自分が作った匂いの方が好きなんだけど、野上に取られた」
皐月は自分で作った匂い袋を気に入っていた。本当は実果子の匂い袋と交換したくなかったが、まだ自分のものに執着がなかったので、実果子の好きにさせてやった。
「でも、野上さんが作った匂い袋もいい香りがするよ。清水寺を思い出しちゃうな~」
「清水寺?」
「そう。清水寺の本堂の香りに似ているかな」
皐月は実果子と清水坂の来迎院の前で会った。その時、実果子は清水寺に行く途中だった。実果子にとって清水寺がいい思い出だったから、本堂の香りに似せた匂い袋を作ったのかもしれない。
これ以上、絵梨花に実果子のことを聞かれたくなかったので、手早くしおりを取り出して、ナップサックを片付けた。
実果子との修学旅行の思い出はいいものだけではなかった。実果子と交換した自分の匂い袋を捨てた奴のことを思うと、今でも怒りでキレそうになる。
「二橋さんは修学旅行でどこが一番良かったの?」
「一番か……。旅行に行く前は東寺を一番楽しみにしていたんだけど、二日目の東大寺と法隆寺も良かったからな……。でも、仏像は最後の中宮寺の弥勒菩薩が一番良かった。見られないかと思っていたけど、見られて嬉しかった」
この時、皐月は絵梨花に中宮寺で弥勒菩薩半跏思惟像に陶酔していた時と同じ雰囲気を感じた。まだ男性経験のない絵梨花が弥勒菩薩像に何を感じていたのかが気になる。
「そういえば二橋さんは半跏思惟像を夢中になって見ていたよね。俺、一番後ろで見ていたから、みんなの様子がよくわかったよ」
「ヤダ……恥ずかしい。でも、また見に来たいな。もっとゆっくり見たかった」
「今度は山吹が咲く頃に見に来よう。仏像だけじゃなく、お寺も美しいから」
皐月は声をひそめて言った。
「そうだね……」
絵梨花は目を閉じた。弥勒菩薩像を思い返しているんだと思い、そっとしておくことにした。
皐月も窓の外に目をやった。バスから見る車窓は視線が高く、景色が良く見える。普段は見ることのない山の中の景色が珍しく、飽きることがない。
絵梨花が何も話しかけてこなくなったので、どうしたんだろうと様子を見ると、ウトウトしていた。首が安定していなくて、これでは身体に悪そうだ。
「二橋さん、眠いの?」
「あ……うん。ちょっと眠いかな」
「席、代わろうか? 窓際なら身体を持たれかけて眠れるよ。その方が身体に優しいから」
「うん……。でも、動きたくないな……。藤城さんの肩、貸して」
皐月は一瞬、躊躇した。絵梨花は男子の間で人気がある。男子から嫉妬されるのは間違いないだろう。それに真理はどう思うのか。美耶はどう思うのか。様々な思いが去来した。
「いいよ」
「ありがとう」
絵梨花は少し体を寄せ、皐月の肩に頭を預けてきた。絵梨花の体は真理よりも軽かった。皐月はこの状況を喜んでいたが、あまりドキドキしなかった。女慣れをしてきたんだと思った。
時間が経つにつれて、だんだんこの姿勢が苦痛になってきた。絵梨花を起こすかもしれないと思うと、身動き一つ取れない。
相手が真理ならもっと雑に扱えるが、絵梨花とはそんな関係ではない。皐月は絵梨花のことをまだ、壊れ物のようにしか扱えない。
皐月はしおりを見たり、窓の外を眺めたりするしかなかった。このシチュエーションは絵梨花のことを好きな男子から見れば羨ましい限りだろうが、皐月はこの後のことを考えるとだんだん憂鬱になってきた
しばらく走ると、バスは最後の小休止のために刈谷ハイウェイオアシスへ入った。ここで停まると何人かの児童に絵梨花に寄りかかられているところを見られてしまう。絵梨花を起こそうと思ったが、寝息を立てている絵梨花を見ると皐月には起こすことができなかった。
バスが止まりそうになったので、皐月は狸寝入りをした。顔を絵梨花から背け、窓の外の方に向けてうつむいた。バスが出るまではこの姿勢を絶対に維持しなければならない。
バスが止まると、何人かの児童がバスの外に出たようだ。皐月は目を瞑っているので、誰に見られたかはわからない。全神経を周囲に張り巡らせ、自分に向けられた視線や気配を探ろうとした。だが、特に嫌な感じはしなかった。
前の席に座っている真理も外に出たようだ。皐月は絵梨花と肩を寄せ合って寝ているところを見られたのは間違いないと思った。
これまでは女子と仲良くしていても寛大だった真理だが、この姿を見てどう思うか。皐月は目を閉じながら少し考えたが、まあどうにかなるだろうと思った。
バスの中は静かだった。寝ている者が多いのだろうか。みんなだって修学旅行で疲れているはずだ。
車内に流れているみんなの選んだ曲はまだ一周していない。リピートにしていないので、全員の曲が流れたら、そこで音楽が終わる。今流れているのは少し前に流行ったが、皐月の全然興味のない曲だった。
再びバスが走り始めた。
目を瞑っていたせいか、皐月は眠くなっていた。もう愛知県内にいると思うと安心するのか、気持ちが安らかになり、睡魔に抗えなくなってきた。絵梨花と触れ合っているところが温かい。
皐月はこの夢心地を失いたくないと思い、寝ないように頑張っていた。だが、この状況があまりにも気持ちいい。皐月は幸せを感じながら、いつしか眠りに落ちていた。
「藤城さん、もうこっちに戻って来ないかと思ってた」
「どうして? 俺の席はここだよ」
「そうだけど、神谷さんと楽しそうだったから」
「バスレクも終わって、やっと少し落ち着ける。でも、まだ学校に着いたら挨拶をしなきゃいけないからな……」
挨拶の文言は修学旅行のしおりに書いてある。ナップサックから出して確認すればいいのだけれど、面倒くさい。だがそうも言ってられないので、皐月はナップサックを開けた。
「あら? いい匂い」
「ああ……。匂い袋だね、この香りは」
「野上さんと交換したので有名な匂い袋だね」
急に野上実果子の名前が出たので驚いた。絵梨花の顔を見ると、こういう時も余裕のある笑顔をしていた。
「そういうゴシップに疎い二橋さんが知っているくらいなら、俺と野上の話は相当広がってるみたいだな」
体験学習で作った匂い袋を男女で交換するとカップルになるという言い伝えがあるらしい。稲荷小学校の先輩から代々伝わっている迷信だ。
兄や姉がいる者は知っている話だが、皐月はそのことを知らなかった。だが、交換相手の実果子はもしかしたら知っていたのかもしれない。
「俺は自分が作った匂いの方が好きなんだけど、野上に取られた」
皐月は自分で作った匂い袋を気に入っていた。本当は実果子の匂い袋と交換したくなかったが、まだ自分のものに執着がなかったので、実果子の好きにさせてやった。
「でも、野上さんが作った匂い袋もいい香りがするよ。清水寺を思い出しちゃうな~」
「清水寺?」
「そう。清水寺の本堂の香りに似ているかな」
皐月は実果子と清水坂の来迎院の前で会った。その時、実果子は清水寺に行く途中だった。実果子にとって清水寺がいい思い出だったから、本堂の香りに似せた匂い袋を作ったのかもしれない。
これ以上、絵梨花に実果子のことを聞かれたくなかったので、手早くしおりを取り出して、ナップサックを片付けた。
実果子との修学旅行の思い出はいいものだけではなかった。実果子と交換した自分の匂い袋を捨てた奴のことを思うと、今でも怒りでキレそうになる。
「二橋さんは修学旅行でどこが一番良かったの?」
「一番か……。旅行に行く前は東寺を一番楽しみにしていたんだけど、二日目の東大寺と法隆寺も良かったからな……。でも、仏像は最後の中宮寺の弥勒菩薩が一番良かった。見られないかと思っていたけど、見られて嬉しかった」
この時、皐月は絵梨花に中宮寺で弥勒菩薩半跏思惟像に陶酔していた時と同じ雰囲気を感じた。まだ男性経験のない絵梨花が弥勒菩薩像に何を感じていたのかが気になる。
「そういえば二橋さんは半跏思惟像を夢中になって見ていたよね。俺、一番後ろで見ていたから、みんなの様子がよくわかったよ」
「ヤダ……恥ずかしい。でも、また見に来たいな。もっとゆっくり見たかった」
「今度は山吹が咲く頃に見に来よう。仏像だけじゃなく、お寺も美しいから」
皐月は声をひそめて言った。
「そうだね……」
絵梨花は目を閉じた。弥勒菩薩像を思い返しているんだと思い、そっとしておくことにした。
皐月も窓の外に目をやった。バスから見る車窓は視線が高く、景色が良く見える。普段は見ることのない山の中の景色が珍しく、飽きることがない。
絵梨花が何も話しかけてこなくなったので、どうしたんだろうと様子を見ると、ウトウトしていた。首が安定していなくて、これでは身体に悪そうだ。
「二橋さん、眠いの?」
「あ……うん。ちょっと眠いかな」
「席、代わろうか? 窓際なら身体を持たれかけて眠れるよ。その方が身体に優しいから」
「うん……。でも、動きたくないな……。藤城さんの肩、貸して」
皐月は一瞬、躊躇した。絵梨花は男子の間で人気がある。男子から嫉妬されるのは間違いないだろう。それに真理はどう思うのか。美耶はどう思うのか。様々な思いが去来した。
「いいよ」
「ありがとう」
絵梨花は少し体を寄せ、皐月の肩に頭を預けてきた。絵梨花の体は真理よりも軽かった。皐月はこの状況を喜んでいたが、あまりドキドキしなかった。女慣れをしてきたんだと思った。
時間が経つにつれて、だんだんこの姿勢が苦痛になってきた。絵梨花を起こすかもしれないと思うと、身動き一つ取れない。
相手が真理ならもっと雑に扱えるが、絵梨花とはそんな関係ではない。皐月は絵梨花のことをまだ、壊れ物のようにしか扱えない。
皐月はしおりを見たり、窓の外を眺めたりするしかなかった。このシチュエーションは絵梨花のことを好きな男子から見れば羨ましい限りだろうが、皐月はこの後のことを考えるとだんだん憂鬱になってきた
しばらく走ると、バスは最後の小休止のために刈谷ハイウェイオアシスへ入った。ここで停まると何人かの児童に絵梨花に寄りかかられているところを見られてしまう。絵梨花を起こそうと思ったが、寝息を立てている絵梨花を見ると皐月には起こすことができなかった。
バスが止まりそうになったので、皐月は狸寝入りをした。顔を絵梨花から背け、窓の外の方に向けてうつむいた。バスが出るまではこの姿勢を絶対に維持しなければならない。
バスが止まると、何人かの児童がバスの外に出たようだ。皐月は目を瞑っているので、誰に見られたかはわからない。全神経を周囲に張り巡らせ、自分に向けられた視線や気配を探ろうとした。だが、特に嫌な感じはしなかった。
前の席に座っている真理も外に出たようだ。皐月は絵梨花と肩を寄せ合って寝ているところを見られたのは間違いないと思った。
これまでは女子と仲良くしていても寛大だった真理だが、この姿を見てどう思うか。皐月は目を閉じながら少し考えたが、まあどうにかなるだろうと思った。
バスの中は静かだった。寝ている者が多いのだろうか。みんなだって修学旅行で疲れているはずだ。
車内に流れているみんなの選んだ曲はまだ一周していない。リピートにしていないので、全員の曲が流れたら、そこで音楽が終わる。今流れているのは少し前に流行ったが、皐月の全然興味のない曲だった。
再びバスが走り始めた。
目を瞑っていたせいか、皐月は眠くなっていた。もう愛知県内にいると思うと安心するのか、気持ちが安らかになり、睡魔に抗えなくなってきた。絵梨花と触れ合っているところが温かい。
皐月はこの夢心地を失いたくないと思い、寝ないように頑張っていた。だが、この状況があまりにも気持ちいい。皐月は幸せを感じながら、いつしか眠りに落ちていた。
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