桜花 ~いまも記憶に舞い散るは、かくも愛しき薄紅の君~

文字の大きさ
15 / 33

◆ 拾伍 ◆

しおりを挟む


目の前を、薄紅の花弁がひらりと横切った。

風に乗ってやってきた花びらが掃き清めたばかりの地面にひらひらと舞い散る。
もう一陣、強い風が吹いた。

片手で髪を押さえ、そしてなんの気なしにその手を伸ばした。
簡単に掴めそうに思えた薄紅の花弁は弥生の指先から逃げるように風に舞う。


「もしかして恋占?」

振り返れば弥生と同じようにほうきを手にしたゆきがいた。

「あっち、終わったから」

そう自分が居た方を指さしたゆきは弥生のそばへと寄ってくる。

生駒屋の看板娘も務めているこの娘はその気性のとおりに目尻の下がったおっとりと優し気な顔立ちの娘だ。
本人はよく「あたしなんかより弥生ちゃんの方がよっぽど別嬪べっぴんさんなのに」ともらしているが、格別美形というわけでなくとも常に笑顔の愛らしい娘は看板娘に不足はない。

弥生としてはとっつきにくい自分なんかよりよほど向いていると確信している。

「ね、それで恋占?」

身を寄せて囁くように確認してくるゆきに「え?」と戸惑いを浮かべると、その反応を見たゆきはちょっと残念そうに「なんだ違うのか」と身を引いた。

「恋占ってなに?」

「知らないの?弥生ちゃん」

丸っこい目を真ん丸にして驚く様子からすると、若い娘の流行はやりなのだろうなと思う。

「桜の花弁をね、見事につかめると恋が実るの。占いっていうかおまじないなのかな?」

説明を聞いてちょっと呆れた。

それはまた、ずいぶんと都合がいいおまじないだ。
根気さえあればお江戸といわず日本中の娘たちの想いが叶ってしまうじゃないか。

弥生の呆れを見てとったゆきは「違うの」と胸の前で手を振って、本当は誰にも姿を見られちゃいけないとか、最初に目にした一枚を掴み取らなきゃいけないとか細かい決め事がたくさんあるのよと説明した。

大人しいゆきにしては説明にも力がこもっており、語る口調も弾んでいる。

昨日の桜見物がよほど楽しかったのだろう。
いつもよりかなり早く生駒屋にきては主人夫婦に物見遊山の礼を告げ、いかに爛漫らんまんの桜が美しかったか語る彼女は楽しい気分もそのままに浮かれていた。
淡く蒸気した頬は桜と同じ薄紅で、今日は商品の売れ行きも一段といいかもしれない。

はしゃいでいたゆきは急に落ち着きを取り戻すと、ほうきを動かしながらすまなそうに上目遣いに弥生を見た。

「もしかして、あたしが桜見物に行きたいって言ってたから弥生ちゃん、ゆずってくれた?」

眉を下げる姿に小さく笑みが浮かんだ。
先に梅見に行った弥生が気を使って梅見を選んだのではと気にしていたのだろう。

「そんなんじゃないから気にしないで平気よ。それに梅見だって最初は留守番しますって言ってたのを、お嬢さんのお付きは仕事の内だって説得されたぐらいだもの」

「ええー。でも弥生ちゃんらしい気もする」

「それに桜はあまり得意じゃないから」

思いのほか、しんみりとした声が漏れた。
その響きに自分自身で驚きつつ、失敗したと心の中でそう思う。

案の定、心配そうな表情でゆきがこちらを見ていた。
ほうきを持つ手も止まっている。

「それは例の火事の件も関係あって?」

押し殺したその声に息を飲んだ。
じっと見つめるゆきの目と弥生の目が数秒見つめ合う。

まさかそれを聞かれるとは思わなかった。

弥生が生駒屋で働く前に火事にあったことは知られているし、いまでこそ話題に出す者は少ないがかつてはそのことで色々聞かれたりもしたものだ。
それでもゆきにその話題を振られたことはなかったし、過去を詮索されたことも一度もなかったから。

先に沈黙を破ったのはゆきだった。

「ごめんね、いやなこと聞いちゃったね」

それで弥生の緊張もほどけ、ううんと表情を取り繕いながら首を振ることが出来た。

「それもあるし、もともとあんまり得意じゃないの。奇麗だって思うし、嫌いじゃないんだけどね。苦手なの」

「そっか」

「火事のことも、もう忘れなきゃって思うんだけど……なかなか、ね」

「忘れられないよ」

誤魔化すように笑う声に固い響きの声が被さった。

怖いほどに真剣な表情でゆきが弥生を見ていた。

「忘れられないよ」

もう一度、言い聞かすように告げたゆきの表情が泣き出す寸前のようにくしゃりと歪む。

ゆきの唇が再び開きかけた時、店の方から二人を呼ぶおしまの声が響いた。
今日はゆきは早めに支度を手伝ってくれたから余裕があったとはいえ、そろそろ店が開く頃合だ。「片付けておく」とゆきの分もほうきを預かり、二人は慌ただしく動き始めた。

別れ際、店の方へと向かうゆきが「あとで」と小さく口にした。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

偽夫婦お家騒動始末記

紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】 故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。 紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。 隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。 江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。 そして、拾った陰間、紫音の正体は。 活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。

もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら

俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。 赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。 史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。 もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

対米戦、準備せよ!

湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。 そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。 3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。 小説家になろうで、先行配信中!

愛しているなら拘束してほしい

守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。

別れし夫婦の御定書(おさだめがき)

佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★ 嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。 離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。 月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。 おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。 されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて—— ※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

処理中です...