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◆ 拾伍 ◆
しおりを挟む目の前を、薄紅の花弁がひらりと横切った。
風に乗ってやってきた花びらが掃き清めたばかりの地面にひらひらと舞い散る。
もう一陣、強い風が吹いた。
片手で髪を押さえ、そしてなんの気なしにその手を伸ばした。
簡単に掴めそうに思えた薄紅の花弁は弥生の指先から逃げるように風に舞う。
「もしかして恋占?」
振り返れば弥生と同じように箒を手にしたゆきがいた。
「あっち、終わったから」
そう自分が居た方を指さしたゆきは弥生のそばへと寄ってくる。
生駒屋の看板娘も務めているこの娘はその気性のとおりに目尻の下がったおっとりと優し気な顔立ちの娘だ。
本人はよく「あたしなんかより弥生ちゃんの方がよっぽど別嬪さんなのに」ともらしているが、格別美形というわけでなくとも常に笑顔の愛らしい娘は看板娘に不足はない。
弥生としてはとっつきにくい自分なんかよりよほど向いていると確信している。
「ね、それで恋占?」
身を寄せて囁くように確認してくるゆきに「え?」と戸惑いを浮かべると、その反応を見たゆきはちょっと残念そうに「なんだ違うのか」と身を引いた。
「恋占ってなに?」
「知らないの?弥生ちゃん」
丸っこい目を真ん丸にして驚く様子からすると、若い娘の流行りなのだろうなと思う。
「桜の花弁をね、見事につかめると恋が実るの。占いっていうかおまじないなのかな?」
説明を聞いてちょっと呆れた。
それはまた、ずいぶんと都合がいいおまじないだ。
根気さえあればお江戸といわず日本中の娘たちの想いが叶ってしまうじゃないか。
弥生の呆れを見てとったゆきは「違うの」と胸の前で手を振って、本当は誰にも姿を見られちゃいけないとか、最初に目にした一枚を掴み取らなきゃいけないとか細かい決め事がたくさんあるのよと説明した。
大人しいゆきにしては説明にも力がこもっており、語る口調も弾んでいる。
昨日の桜見物がよほど楽しかったのだろう。
いつもよりかなり早く生駒屋にきては主人夫婦に物見遊山の礼を告げ、いかに爛漫の桜が美しかったか語る彼女は楽しい気分もそのままに浮かれていた。
淡く蒸気した頬は桜と同じ薄紅で、今日は商品の売れ行きも一段といいかもしれない。
はしゃいでいたゆきは急に落ち着きを取り戻すと、箒を動かしながらすまなそうに上目遣いに弥生を見た。
「もしかして、あたしが桜見物に行きたいって言ってたから弥生ちゃん、ゆずってくれた?」
眉を下げる姿に小さく笑みが浮かんだ。
先に梅見に行った弥生が気を使って梅見を選んだのではと気にしていたのだろう。
「そんなんじゃないから気にしないで平気よ。それに梅見だって最初は留守番しますって言ってたのを、お嬢さんのお付きは仕事の内だって説得されたぐらいだもの」
「ええー。でも弥生ちゃんらしい気もする」
「それに桜はあまり得意じゃないから」
思いのほか、しんみりとした声が漏れた。
その響きに自分自身で驚きつつ、失敗したと心の中でそう思う。
案の定、心配そうな表情でゆきがこちらを見ていた。
箒を持つ手も止まっている。
「それは例の火事の件も関係あって?」
押し殺したその声に息を飲んだ。
じっと見つめるゆきの目と弥生の目が数秒見つめ合う。
まさかそれを聞かれるとは思わなかった。
弥生が生駒屋で働く前に火事にあったことは知られているし、いまでこそ話題に出す者は少ないがかつてはそのことで色々聞かれたりもしたものだ。
それでもゆきにその話題を振られたことはなかったし、過去を詮索されたことも一度もなかったから。
先に沈黙を破ったのはゆきだった。
「ごめんね、いやなこと聞いちゃったね」
それで弥生の緊張もほどけ、ううんと表情を取り繕いながら首を振ることが出来た。
「それもあるし、もともとあんまり得意じゃないの。奇麗だって思うし、嫌いじゃないんだけどね。苦手なの」
「そっか」
「火事のことも、もう忘れなきゃって思うんだけど……なかなか、ね」
「忘れられないよ」
誤魔化すように笑う声に固い響きの声が被さった。
怖いほどに真剣な表情でゆきが弥生を見ていた。
「忘れられないよ」
もう一度、言い聞かすように告げたゆきの表情が泣き出す寸前のようにくしゃりと歪む。
ゆきの唇が再び開きかけた時、店の方から二人を呼ぶおしまの声が響いた。
今日はゆきは早めに支度を手伝ってくれたから余裕があったとはいえ、そろそろ店が開く頃合だ。「片付けておく」とゆきの分も箒を預かり、二人は慌ただしく動き始めた。
別れ際、店の方へと向かうゆきが「あとで」と小さく口にした。
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