九十九歳の砂時計、十の後悔、十の忘却

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第8話:暴走の果て、凪の若き日

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 ——やっつめの後悔:無謀な疾走の果てに、友の翼を折ったあの日——


 九十九歳の石川慎一郎は、病床で奇妙な違和感に苛まれていた。  本来ならば、長年の過労と持病、そして老衰によって、彼の肉体は悲鳴を上げているはずだった。しかし、七つの後悔を消し去り、人生を「より善いもの」へと書き換えてきた結果、今の彼の体には、あるはずの「古傷」が一つもなかった。    本来の歴史では、彼は若き日に大きな事故を起こし、左足に生涯消えない痛みを抱えていたはずだ。雨の日には疼き、歩くたびに自分自身の「過ち」を思い出させてくれた、あの鈍い痛み。  それが、今の彼にはない。  記憶だけでなく、肉体に刻まれた「罰」さえも消え去り、慎一郎はますます自分という存在が、誰かが描いた滑らかな物語の登場人物になったような空恐ろしさを感じていた。

「……私の痛みは、どこへ行った」  無機質な医療機器の音だけが響く中、心臓の奥で、かつてのガソリンの匂いと、タイヤが悲鳴を上げる音が蘇った。    八つ目の後悔。  一九五〇年代。慎一郎がまだ、自分は何者にもなれると信じて疑わなかった、血気盛んな青年期の暗部。  砂時計の砂が火花を散らし、慎一郎の意識は、真夏の深夜、峠を越えるワインディングロードへと引き戻された。


 ——一九五〇年代、夏。  慎一郎は、当時手に入れたばかりの輸入車を走らせていた。隣に乗っていたのは、同じ大学の友人であり、将来を有望視されていたピアニスト志望の青年、河野(こうの)だった。 「慎ちゃん、少し飛ばしすぎだよ。狭い道なんだ、危ないよ」  河野の忠告を、当時の慎一郎は鼻で笑った。 「臆病だな、河野。このマシンと俺の腕を信じろ。世界は、スピードを制した者の手にあるんだ」

 万能感という名の麻薬に酔っていた慎一郎は、急カーブでさらにアクセルを踏み込んだ。  対向車のライト。悲鳴。ハンドルを切る手応えが消え、視界が激しく回転する。  激突音。そして、静寂。    慎一郎は奇跡的に軽傷で済んだ。しかし、隣の河野は違った。車体は助手席側から激しく潰れ、河野の右腕は、二度と鍵盤を叩けないほど無惨に砕かれた。  慎一郎は金で解決を図り、河野は「不慮の事故だった」と彼を責めなかった。だが、河野はその後の人生で、音楽への道を絶たれ、酒に溺れ、若くして世を去った。  慎一郎が成功の階段を上るたびに、折れたピアノの音色が幻聴となって彼を責め続けた。

(……俺の傲慢さが、あいつの空を奪ったんだ)


 慎一郎の意識が、熱を帯びた二十代の肉体に宿る。  真夏の夜。虫の音。排気ガスの熱気。  隣には、楽しそうに明日の演奏会のプログラムを語る、若き日の河野がいる。

「慎ちゃん、今日は一段と飛ばすね。何かいいことでもあった?」  史実ではここで「もっと速くしてやる」と加速した。  だが、今の慎一郎は、静かにブレーキを踏んだ。車は路肩に止まり、アイドリングの音だけが響く。 「……慎ちゃん? どうしたんだよ、急に」  慎一郎はハンドルを握る手を緩め、深く、長く息を吐いた。 「……河野。明日の演奏会、最高の出来になるといいな」 「え? ああ、もちろんさ。そのために練習してきたんだから」 「……行こう。ゆっくりとな。俺には、お前の腕を守る責任があるんだ」

 慎一郎は、制限速度を守り、慎重に車を走らせた。  背後から来る車に追い抜かれ、煽られても、彼は決して動じなかった。  河野は不思議そうにしていたが、やがて窓から入る涼しい夜風を楽しみながら、穏やかに話し始めた。 「……不思議だね。急いでいた時より、今のほうが、星がよく見えるよ」  その言葉を聞いた瞬間、慎一郎の目から熱いものが溢れた。  


 そこからの歴史は、鮮やかに書き換えられた。  河野は翌日の演奏会で大成功を収め、その後、日本を代表するピアニストとして世界中を飛び回るようになった。  慎一郎は、彼のパトロンとして、そして親友として、常に客席の最前列でその音色に耳を傾けた。

 ある年の秋。パリのコンセルトヘボウでのリサイタル後。 「慎一郎。あの日、峠道で君が車を止めてくれた時、僕はなんだか、自分の人生の『流れ』が変わったような気がしたんだ。君に救われたような気がするんだよ」  楽屋でシャンパンを傾けながら、河野が笑う。 「……大げさだよ、河野。俺はただ、安全運転を心がけただけだ」  慎一郎は微笑みながら答えたが、その胸には、史実の自分が決して得ることのできなかった「親友の幸福」という、何物にも代えがたい安らぎがあった。

 河野の腕は砕かれることなく、その指先からは、何十年にもわたって数百万人の人々の心を癒す旋律が奏でられ続けた。慎一郎の人生もまた、暴力的な後悔に苛まれることなく、穏やかで誠実な実業家としてのキャリアを積んでいった。


 数十年後。書き換えられた未来の慎一郎は、河野の引退公演を見届け、共に老境を楽しんでいた。  二人は、あの日事故を起こすはずだった峠道を、今度はゆっくりと散策した。 「いい人生だったな、慎ちゃん」 「ああ、河野。本当に、いい人生だった」    ——だが。  幸せな老後の風景が、突然、音もなく色褪せていく。 「……! 待ってくれ、この旋律だけは……河野の弾く、あの音だけは……!」  慎一郎は、頭の中で響いている美しいピアノの調べを、必死に記憶の檻に閉じ込めようとした。  しかし、タイムリープの代償は、彼の情動の最も繊細な部分を奪い去っていった。

 ——九十九歳の病室。  慎一郎は、奇妙なほど「静かな」心で目を開けた。  枕元には、世界的なピアニスト「河野一郎」の全集CDと、彼からの献辞が記された楽譜が置かれていた。 『私の親友、慎一郎へ。君という「聴衆」がいなければ、私の音楽は完成しなかった』

「……よかった。彼は、弾き続けたんだな」  慎一郎は、その楽譜に触れた。  だが。    ……河野。  この名前を読んでも、もう、何の感情も湧いてこない。  彼の弾く音楽がどんなものだったか。なぜ、自分が彼のパトロンになったのか。  あの日、峠道で車を止めた時の、あの身を切るような「覚悟」も。    記憶が、消えていく。  河野の笑顔も、彼と共に旅をした各国の風景も。  さらには、「自分があの日、重大な罪を犯しかけた」という事実さえも。   「……私は、なぜこの音楽家を支援していたのだ?」  慎一郎は、無表情にCDのジャケットを見つめる。    彼は、後悔を解消するたびに、人生の重みを失ってきた。  そして今、彼は「自分が他者を救った」という満足感だけでなく、「かつて自分が抱えていた痛み」さえも失った。  苦しみが消え、悲しみが消え、悔恨が消える。  その後に残されたのは、真っ白なキャンバスのような、平坦で、空虚な、誰の人生でもない「美しい物語」の残骸だけだった。

 カレンダーの数字が、また一枚、光の中へ消える。  残された時間は、あと二日。  そして、九つ目の後悔。  それは、自分自身の成功のために、自分が愛した「故郷の自然」を、金のために売り払った——社会への裏切りの記憶が、彼を待っていた。
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