2 / 6
第2話:夜の底に沈む宇宙
しおりを挟む
藤堂悠真さんが店を去った後、店内に残されたのは、彼が座っていた席のわずかな体温と、冷めかけた珈琲の残り香だけだった。 私は彼が置き忘れた、あの小さな栞(しおり)を握りしめたまま、カウンターの影で立ち尽くしていた。
『あと何度、この香りを嗅げるだろうか』
栞に記されたその一筆は、鋭い針のように私の胸を刺したまま抜けない。 ただの感傷だろうか。それとも、彼が読み耽っていた小説の一節を書き写しただけなのだろうか。そう自分に言い聞かせようとするたびに、彼が店を出た直後に見せた、あの「胸を押さえて屈み込む後ろ姿」が脳裏に焼き付いて離れなかった。
「……七海、どうしたの? 手が止まってるわよ」 オーナーの声に我に返る。私は慌てて栞をエプロンのポケットに隠し、布巾を動かした。 「すみません、少し考えごとを……」 「そう。でも、珈琲は生き物なんだから。淹れる人の迷いは、全部味に出ちゃうわよ」
オーナーの指摘は正しかった。 その日の閉店後、自分用に淹れた一杯は、いつもよりずっと苦く、どこか濁った味がした。
店を閉め、夜の街へと踏み出す。 三月の夜風は、まだ昼間の暖かさをあざ笑うかのように鋭く冷たい。マフラーに顔を埋め、家路を急ごうとしたとき、私は母から頼まれていた買い出しを思い出した。
「……あ、常備薬、切らしてたんだ」
母の持病の薬を受け取るため、私は駅前の総合病院へと向かった。夜間窓口の灯りが、暗い夜道の中でそこだけ白く浮き上がっている。 無機質な消毒液の匂いが鼻を突く。昼間の「珈音」の温かな香りとは対極にある、死と生が交差する冷たい匂い。
薬を受け取り、病院の正面玄関を出たときだった。 街灯のオレンジ色の光が、白いタイルの地面に長い影を落としている。 その影の先に、見覚えのあるコートの背中があった。
「……藤堂、さん?」
声は、夜の静寂に吸い込まれるように小さかった。 けれど、彼は聞こえたかのようにゆっくりと振り返った。 その瞬間、私は息を呑んだ。
街灯に照らされた彼の顔は、昼間のカフェで見せる穏やかなものとは別人のように青白く、疲れ果てていた。 彼の目には、いつもの琥珀色の輝きはなく、底の見えない深い闇が沈んでいるようだった。
「七海さん……。どうして、こんなところに」 彼の声は掠れていた。白い吐息が、夜の闇に消えていく。
「母の薬を、受け取りに……。藤堂さんこそ、どうされたんですか? さっき、お店を出たときも……」 問いかけようとした言葉が、彼の足元に落ちている白い封筒を見て止まった。 封筒の隙間から覗く、検査結果らしき書類と、大きく印字された『内科・腫瘍科』の文字。
沈黙が、重く、冷たく二人の間に横たわる。 遠くで救急車のサイレンが聞こえる。その音が近づくにつれ、私の心臓の鼓動も速くなっていく。
「……見られてしまいましたね」 悠真さんは、力なく笑った。それは、昼間に語っていた「優しい嘘」が、粉々に砕け散った瞬間の顔だった。
「これ、忘れていかれました。……栞」 私は震える手で、ポケットからあの栞を取り出した。 彼はそれを受け取ろうとはせず、ただ悲しそうに目を細めた。
「七海さん。僕は、嘘つきなんです」 彼は街灯を見上げた。光に集まる小さな虫たちが、狂ったように円を描いている。 「君に『また明日』と言うとき、僕は心のどこかで、それが叶わないことを知っている。……スキルス胃がんです。見つかった時には、もう手の打ちようがないと言われました」
世界から音が消えた。 目の前の人が、消えてしまう。 あんなに美味しそうにラテを飲み、あんなに優しく本を読んでいた人が、内側から病魔に蝕まれている。その事実が、どうしても現実のものとして受け止められなかった。
「……嘘、ですよね?」 私の問いに、彼は答えなかった。ただ、冷たくなった自分の手を、もう片方の手で静かにさすった。
「どうして……どうして、そんな顔をして店に来るんですか。あんなに普通に、笑って……」 涙が込み上げてきて、視界が滲む。 なぜ私が泣いているのか、自分でもわからなかった。まだ彼とは、店員と客という関係でしかないはずなのに。
「……七海さんの珈琲が、僕の『命のレシピ』だからです」
悠真さんは、私の一歩手前まで歩み寄り、静かに私の瞳を覗き込んだ。 「病室の天井を見上げていると、自分がただの『番号のついた患者』になった気がする。でも、あの店で君の淹れる珈琲を飲んでいる時だけは、僕はただの『藤堂悠真』でいられる。……君の珈琲には、人の心が入っているから」
彼は震える手で、私の頬を伝う涙をそっと拭った。 指先は、氷のように冷たかった。けれど、その奥に微かな、でも確かな熱を感じた。
「残酷なことを言っているのは、わかっています。でも、七海さん。僕が消えるその日まで……僕に、あの『優しい嘘』を吐かせてくれませんか」
明日も、また。 その言葉が、どれほど重い絶望の上に成り立っているのかを、私はようやく理解した。 私は彼の冷たい手を、両手で包み込んだ。 自分の体温をすべて分け与えるように。父を亡くしたあの夜、母が私に珈琲を淹れてくれたときのように。
「……淹れます。何度でも」 声が震えないように、私は必死に言葉を絞り出した。 「藤堂さんが、私のラテを飽きるまで。……明日も、明後日も、ずっと。お店で待っていますから」
悠真さんは、今日一番の、そして一番切ない笑顔を見せた。 「……ありがとう。七海さん」
病院の白い外壁に、二人の重なった影が映し出される。 夜の底で、私たちは秘密を共有した。 それは、春が来る頃には消えてしまうかもしれない、脆くて儚い琥珀色の約束。
私は彼を見送ったあと、一人で夜空を見上げた。 カップの中に広がる宇宙のように、星たちが冷たく輝いている。 明日から、私はどんな顔をして彼を迎えればいいのだろう。 栞を握りしめた手のひらに、彼の冷たい感触がいつまでも残っていた。
――第2話:完
『あと何度、この香りを嗅げるだろうか』
栞に記されたその一筆は、鋭い針のように私の胸を刺したまま抜けない。 ただの感傷だろうか。それとも、彼が読み耽っていた小説の一節を書き写しただけなのだろうか。そう自分に言い聞かせようとするたびに、彼が店を出た直後に見せた、あの「胸を押さえて屈み込む後ろ姿」が脳裏に焼き付いて離れなかった。
「……七海、どうしたの? 手が止まってるわよ」 オーナーの声に我に返る。私は慌てて栞をエプロンのポケットに隠し、布巾を動かした。 「すみません、少し考えごとを……」 「そう。でも、珈琲は生き物なんだから。淹れる人の迷いは、全部味に出ちゃうわよ」
オーナーの指摘は正しかった。 その日の閉店後、自分用に淹れた一杯は、いつもよりずっと苦く、どこか濁った味がした。
店を閉め、夜の街へと踏み出す。 三月の夜風は、まだ昼間の暖かさをあざ笑うかのように鋭く冷たい。マフラーに顔を埋め、家路を急ごうとしたとき、私は母から頼まれていた買い出しを思い出した。
「……あ、常備薬、切らしてたんだ」
母の持病の薬を受け取るため、私は駅前の総合病院へと向かった。夜間窓口の灯りが、暗い夜道の中でそこだけ白く浮き上がっている。 無機質な消毒液の匂いが鼻を突く。昼間の「珈音」の温かな香りとは対極にある、死と生が交差する冷たい匂い。
薬を受け取り、病院の正面玄関を出たときだった。 街灯のオレンジ色の光が、白いタイルの地面に長い影を落としている。 その影の先に、見覚えのあるコートの背中があった。
「……藤堂、さん?」
声は、夜の静寂に吸い込まれるように小さかった。 けれど、彼は聞こえたかのようにゆっくりと振り返った。 その瞬間、私は息を呑んだ。
街灯に照らされた彼の顔は、昼間のカフェで見せる穏やかなものとは別人のように青白く、疲れ果てていた。 彼の目には、いつもの琥珀色の輝きはなく、底の見えない深い闇が沈んでいるようだった。
「七海さん……。どうして、こんなところに」 彼の声は掠れていた。白い吐息が、夜の闇に消えていく。
「母の薬を、受け取りに……。藤堂さんこそ、どうされたんですか? さっき、お店を出たときも……」 問いかけようとした言葉が、彼の足元に落ちている白い封筒を見て止まった。 封筒の隙間から覗く、検査結果らしき書類と、大きく印字された『内科・腫瘍科』の文字。
沈黙が、重く、冷たく二人の間に横たわる。 遠くで救急車のサイレンが聞こえる。その音が近づくにつれ、私の心臓の鼓動も速くなっていく。
「……見られてしまいましたね」 悠真さんは、力なく笑った。それは、昼間に語っていた「優しい嘘」が、粉々に砕け散った瞬間の顔だった。
「これ、忘れていかれました。……栞」 私は震える手で、ポケットからあの栞を取り出した。 彼はそれを受け取ろうとはせず、ただ悲しそうに目を細めた。
「七海さん。僕は、嘘つきなんです」 彼は街灯を見上げた。光に集まる小さな虫たちが、狂ったように円を描いている。 「君に『また明日』と言うとき、僕は心のどこかで、それが叶わないことを知っている。……スキルス胃がんです。見つかった時には、もう手の打ちようがないと言われました」
世界から音が消えた。 目の前の人が、消えてしまう。 あんなに美味しそうにラテを飲み、あんなに優しく本を読んでいた人が、内側から病魔に蝕まれている。その事実が、どうしても現実のものとして受け止められなかった。
「……嘘、ですよね?」 私の問いに、彼は答えなかった。ただ、冷たくなった自分の手を、もう片方の手で静かにさすった。
「どうして……どうして、そんな顔をして店に来るんですか。あんなに普通に、笑って……」 涙が込み上げてきて、視界が滲む。 なぜ私が泣いているのか、自分でもわからなかった。まだ彼とは、店員と客という関係でしかないはずなのに。
「……七海さんの珈琲が、僕の『命のレシピ』だからです」
悠真さんは、私の一歩手前まで歩み寄り、静かに私の瞳を覗き込んだ。 「病室の天井を見上げていると、自分がただの『番号のついた患者』になった気がする。でも、あの店で君の淹れる珈琲を飲んでいる時だけは、僕はただの『藤堂悠真』でいられる。……君の珈琲には、人の心が入っているから」
彼は震える手で、私の頬を伝う涙をそっと拭った。 指先は、氷のように冷たかった。けれど、その奥に微かな、でも確かな熱を感じた。
「残酷なことを言っているのは、わかっています。でも、七海さん。僕が消えるその日まで……僕に、あの『優しい嘘』を吐かせてくれませんか」
明日も、また。 その言葉が、どれほど重い絶望の上に成り立っているのかを、私はようやく理解した。 私は彼の冷たい手を、両手で包み込んだ。 自分の体温をすべて分け与えるように。父を亡くしたあの夜、母が私に珈琲を淹れてくれたときのように。
「……淹れます。何度でも」 声が震えないように、私は必死に言葉を絞り出した。 「藤堂さんが、私のラテを飽きるまで。……明日も、明後日も、ずっと。お店で待っていますから」
悠真さんは、今日一番の、そして一番切ない笑顔を見せた。 「……ありがとう。七海さん」
病院の白い外壁に、二人の重なった影が映し出される。 夜の底で、私たちは秘密を共有した。 それは、春が来る頃には消えてしまうかもしれない、脆くて儚い琥珀色の約束。
私は彼を見送ったあと、一人で夜空を見上げた。 カップの中に広がる宇宙のように、星たちが冷たく輝いている。 明日から、私はどんな顔をして彼を迎えればいいのだろう。 栞を握りしめた手のひらに、彼の冷たい感触がいつまでも残っていた。
――第2話:完
2
あなたにおすすめの小説
初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結】
星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。
だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。
しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。
王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。
そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。
地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。
⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。
妹の身代わりだった私に「本命は君だ」――王宮前で王子に抱き潰され、溺愛がバレました。~私が虐げられるきっかけになった少年が、私と王子を結び付
唯崎りいち
恋愛
妹の身代わりとして王子とデートすることになった私。でも王子の本命は最初から私で――。長年虐げられ、地味でみすぼらしい私が、王子の愛と溺愛に包まれ、ついに幸せを掴む甘々ラブファンタジー。妹や家族との誤解、影武者の存在も絡み、ハラハラと胸キュンが止まらない物語。
皆様ありがとう!今日で王妃、やめます!〜十三歳で王妃に、十八歳でこのたび離縁いたしました〜
百門一新
恋愛
セレスティーヌは、たった十三歳という年齢でアルフレッド・デュガウスと結婚し、国王と王妃になった。彼が王になる多には必要な結婚だった――それから五年、ようやく吉報がきた。
「君には苦労をかけた。王妃にする相手が決まった」
ということは……もうつらい仕事はしなくていいのねっ? 夫婦だと偽装する日々からも解放されるのね!?
ありがとうアルフレッド様! さすが私のことよく分かってるわ! セレスティーヌは離縁を大喜びで受け入れてバカンスに出かけたのだが、夫、いや元夫の様子が少しおかしいようで……?
サクッと読める読み切りの短編となっていります!お楽しみいただけましたら嬉しく思います!
※他サイト様にも掲載
上手に騙してくださらなかった伯爵様へ
しきど
恋愛
アイルザート・ルテシオ伯爵は十七歳で家督を継いだ方だ。
文武両道、容姿端麗、人柄も良く領民の誰からも愛される方だった。そんな若き英雄の婚約者に選ばれたメリッサ・オードバーン子爵令嬢は、自身を果報者と信じて疑っていなかった。
彼が屋敷のメイドと関係を持っていると知る事になる、その時までは。
貴族に愛人がいる事など珍しくもない。そんな事は分かっているつもりだった。分かっていてそれでも、許せなかった。
メリッサにとってアイルザートは、本心から愛した人だったから。
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
元婚約者からの嫌がらせでわたくしと結婚させられた彼が、ざまぁしたら優しくなりました。ですが新婚時代に受けた扱いを忘れてはおりませんよ?
3333(トリささみ)
恋愛
貴族令嬢だが自他ともに認める醜女のマルフィナは、あるとき王命により結婚することになった。
相手は王女エンジェに婚約破棄をされたことで有名な、若き公爵テオバルト。
あまりにも不釣り合いなその結婚は、エンジェによるテオバルトへの嫌がらせだった。
それを知ったマルフィナはテオバルトに同情し、少しでも彼が報われるよう努力する。
だがテオバルトはそんなマルフィナを、徹底的に冷たくあしらった。
その後あるキッカケで美しくなったマルフィナによりエンジェは自滅。
その日からテオバルトは手のひらを返したように優しくなる。
だがマルフィナが新婚時代に受けた仕打ちを、忘れることはなかった。
思い出さなければ良かったのに
田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。
大事なことを忘れたまま。
*本編完結済。不定期で番外編を更新中です。
これは王命です〜最期の願いなのです……抱いてください〜
涙乃(るの)
恋愛
これは王命です……抱いてください
「アベル様……これは王命です。触れるのも嫌かもしれませんが、最後の願いなのです……私を、抱いてください」
呪いの力を宿した瞳を持って生まれたサラは、王家管轄の施設で閉じ込められるように暮らしていた。
その瞳を見たものは、命を落とす。サラの乳母も母も、命を落としていた。
希望のもてない人生を送っていたサラに、唯一普通に接してくれる騎士アベル。
アベルに恋したサラは、死ぬ前の最期の願いとして、アベルと一夜を共にしたいと陛下に願いでる。
自分勝手な願いに罪悪感を抱くサラ。
そんなサラのことを複雑な心境で見つめるアベル。
アベルはサラの願いを聞き届けるが、サラには死刑宣告が……
切ない→ハッピーエンドです
※大人版はムーンライトノベルズ様にも投稿しています
後日談追加しました
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる