君が吐いた「明日も来る」という優しい嘘を、私は一杯の珈琲で包み込む。

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第2話:夜の底に沈む宇宙

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 藤堂悠真さんが店を去った後、店内に残されたのは、彼が座っていた席のわずかな体温と、冷めかけた珈琲の残り香だけだった。  私は彼が置き忘れた、あの小さな栞(しおり)を握りしめたまま、カウンターの影で立ち尽くしていた。

『あと何度、この香りを嗅げるだろうか』

 栞に記されたその一筆は、鋭い針のように私の胸を刺したまま抜けない。  ただの感傷だろうか。それとも、彼が読み耽っていた小説の一節を書き写しただけなのだろうか。そう自分に言い聞かせようとするたびに、彼が店を出た直後に見せた、あの「胸を押さえて屈み込む後ろ姿」が脳裏に焼き付いて離れなかった。

「……七海、どうしたの? 手が止まってるわよ」  オーナーの声に我に返る。私は慌てて栞をエプロンのポケットに隠し、布巾を動かした。 「すみません、少し考えごとを……」 「そう。でも、珈琲は生き物なんだから。淹れる人の迷いは、全部味に出ちゃうわよ」

 オーナーの指摘は正しかった。  その日の閉店後、自分用に淹れた一杯は、いつもよりずっと苦く、どこか濁った味がした。


 店を閉め、夜の街へと踏み出す。  三月の夜風は、まだ昼間の暖かさをあざ笑うかのように鋭く冷たい。マフラーに顔を埋め、家路を急ごうとしたとき、私は母から頼まれていた買い出しを思い出した。

「……あ、常備薬、切らしてたんだ」

 母の持病の薬を受け取るため、私は駅前の総合病院へと向かった。夜間窓口の灯りが、暗い夜道の中でそこだけ白く浮き上がっている。  無機質な消毒液の匂いが鼻を突く。昼間の「珈音」の温かな香りとは対極にある、死と生が交差する冷たい匂い。

 薬を受け取り、病院の正面玄関を出たときだった。    街灯のオレンジ色の光が、白いタイルの地面に長い影を落としている。  その影の先に、見覚えのあるコートの背中があった。

「……藤堂、さん?」

 声は、夜の静寂に吸い込まれるように小さかった。  けれど、彼は聞こえたかのようにゆっくりと振り返った。  その瞬間、私は息を呑んだ。

 街灯に照らされた彼の顔は、昼間のカフェで見せる穏やかなものとは別人のように青白く、疲れ果てていた。  彼の目には、いつもの琥珀色の輝きはなく、底の見えない深い闇が沈んでいるようだった。


「七海さん……。どうして、こんなところに」  彼の声は掠れていた。白い吐息が、夜の闇に消えていく。

「母の薬を、受け取りに……。藤堂さんこそ、どうされたんですか? さっき、お店を出たときも……」  問いかけようとした言葉が、彼の足元に落ちている白い封筒を見て止まった。  封筒の隙間から覗く、検査結果らしき書類と、大きく印字された『内科・腫瘍科』の文字。

 沈黙が、重く、冷たく二人の間に横たわる。  遠くで救急車のサイレンが聞こえる。その音が近づくにつれ、私の心臓の鼓動も速くなっていく。

「……見られてしまいましたね」  悠真さんは、力なく笑った。それは、昼間に語っていた「優しい嘘」が、粉々に砕け散った瞬間の顔だった。

「これ、忘れていかれました。……栞」  私は震える手で、ポケットからあの栞を取り出した。  彼はそれを受け取ろうとはせず、ただ悲しそうに目を細めた。

「七海さん。僕は、嘘つきなんです」  彼は街灯を見上げた。光に集まる小さな虫たちが、狂ったように円を描いている。 「君に『また明日』と言うとき、僕は心のどこかで、それが叶わないことを知っている。……スキルス胃がんです。見つかった時には、もう手の打ちようがないと言われました」

 世界から音が消えた。  目の前の人が、消えてしまう。  あんなに美味しそうにラテを飲み、あんなに優しく本を読んでいた人が、内側から病魔に蝕まれている。その事実が、どうしても現実のものとして受け止められなかった。

「……嘘、ですよね?」  私の問いに、彼は答えなかった。ただ、冷たくなった自分の手を、もう片方の手で静かにさすった。


「どうして……どうして、そんな顔をして店に来るんですか。あんなに普通に、笑って……」  涙が込み上げてきて、視界が滲む。  なぜ私が泣いているのか、自分でもわからなかった。まだ彼とは、店員と客という関係でしかないはずなのに。

「……七海さんの珈琲が、僕の『命のレシピ』だからです」

 悠真さんは、私の一歩手前まで歩み寄り、静かに私の瞳を覗き込んだ。 「病室の天井を見上げていると、自分がただの『番号のついた患者』になった気がする。でも、あの店で君の淹れる珈琲を飲んでいる時だけは、僕はただの『藤堂悠真』でいられる。……君の珈琲には、人の心が入っているから」

 彼は震える手で、私の頬を伝う涙をそっと拭った。  指先は、氷のように冷たかった。けれど、その奥に微かな、でも確かな熱を感じた。

「残酷なことを言っているのは、わかっています。でも、七海さん。僕が消えるその日まで……僕に、あの『優しい嘘』を吐かせてくれませんか」

 明日も、また。  その言葉が、どれほど重い絶望の上に成り立っているのかを、私はようやく理解した。    私は彼の冷たい手を、両手で包み込んだ。  自分の体温をすべて分け与えるように。父を亡くしたあの夜、母が私に珈琲を淹れてくれたときのように。

「……淹れます。何度でも」  声が震えないように、私は必死に言葉を絞り出した。 「藤堂さんが、私のラテを飽きるまで。……明日も、明後日も、ずっと。お店で待っていますから」

 悠真さんは、今日一番の、そして一番切ない笑顔を見せた。 「……ありがとう。七海さん」

 病院の白い外壁に、二人の重なった影が映し出される。  夜の底で、私たちは秘密を共有した。  それは、春が来る頃には消えてしまうかもしれない、脆くて儚い琥珀色の約束。

 私は彼を見送ったあと、一人で夜空を見上げた。  カップの中に広がる宇宙のように、星たちが冷たく輝いている。  明日から、私はどんな顔をして彼を迎えればいいのだろう。    栞を握りしめた手のひらに、彼の冷たい感触がいつまでも残っていた。  

  ――第2話:完
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