6 / 6
第6話:春の光、繋がりゆく香り
しおりを挟む
悠真さんが旅立ってから、季節は一度死んだように動くのをやめた。 雪が解け、冷たい雨が降り、やがて街中の蕾が一斉に綻び始めても、私の心はあの雪降る病室に取り残されたままだった。
カフェ「珈音」のカウンターに立っても、窓際のあの席に視線を向けるのが怖かった。 そこに彼がいないことを、空っぽの椅子が何よりも饒舌に物語っているからだ。 「七海……。無理して立たなくていいのよ。少し、休んだら?」 オーナーの優しい言葉に、私は首を振る。 「いえ、大丈夫です。……珈琲を淹れている時だけは、彼との約束を守っている気がするんです」
けれど、私の淹れる珈琲は、どこか魂が抜けたような味がした。 あの日、彼に「愛」という隠し味を暴かれてから、私はどうやって「自分のため」ではなく「誰かのため」に淹れればいいのか、わからなくなっていた。
悠真さんがいなくなった世界は、あまりに色彩を欠いている。 私は、彼の読みかけだった本をエプロンのポケットに入れ、その感触を確かめることで、かろうじて現実の輪郭を繋ぎ止めていた。
四月の半ば。桜の花びらが風に舞い、カフェの床を薄桃色に染めていた午後のこと。 ドアベルが、どこか懐かしいリズムでチリンと鳴った。
顔を上げると、そこには一人の青年が立っていた。 年齢は二十歳そこそこだろうか。大学生風の落ち着いた身なり。そして何より、私の心臓を跳ねさせたのは、その青年の持つ「琥珀色の瞳」だった。
「……藤堂、さん?」 思わず声が漏れた。 青年は少し驚いたように目を丸くし、それから、悠真さんをもう少し幼くしたような、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「あ、すみません。兄にそっくりですか? 僕は藤堂悠太といいます。悠真の弟です」
悠太さんと名乗った青年は、悠真さんがいつも座っていたあの窓際の席に、吸い込まれるように腰を下ろした。 私は震える足で彼の元へ行き、お冷やを出した。 「……悠真さんの、弟さん。……どうして、ここが?」
「兄から、ずっと聞いていたんです。……入院中、意識が混濁している時でも、兄はうわ言のように言っていました。『珈音の窓際の席には、魔法使いがいるんだ』って」 悠太さんは、窓から差し込む春の光に目を細めた。 「『世界で一番優しい珈琲を、一番美しい音で淹れてくれる女性がいる。彼女の珈琲を飲むと、自分がただの人間だってことを思い出せるんだ』って。……だから、四十九日が過ぎたら、兄の代わりにその珈琲を飲みに行こうって、決めてたんです」
私はカウンターに戻り、豆を選んだ。 選んだのは、悠真さんが最後に愛したコロンビア産の豆。 ミルを回す。ガリガリ、という音が店内に響く。 悠太さんは、その音を聞いた瞬間、ハッとしたようにこちらを見た。 「あ……この音。……兄が言ってた通りだ。すごく、温かい」
私は丁寧にお湯を落としていく。 湯気と共に立ち上る香りは、悲しみを溶かすための魔法ではなく、彼が生きた証を、今ここに呼び戻すための祈りだった。 ラテアートを描く。描いたのは、大きな翼を広げた一羽の鳥。 あの日、第3話で彼のために描いたものと同じデザインだ。
「……どうぞ。悠真さんが、一番好きだったラテです」 悠太さんは、捧げ物を受け取るようにカップを手に取り、一口飲んだ。 そのまま、彼は長い間、沈黙した。 やがて、彼の琥珀色の瞳から、大粒の涙がポタポタと溢れ出し、カップの中に落ちた。 「……美味しいです。……兄が、あんなに幸せそうな顔をして病院に帰ってきていた理由が、今わかりました。……七海さん。兄は、本当に幸せだったんだと思います。最期まで、この味に守られていたんだから」
その言葉に、私の心の中で凍りついていた何かが、一気に崩れ落ちた。 私は、悠太さんの前で、子供のように声を上げて泣いた。 彼を失った悲しみの涙ではなく、私の「祈り」が、ちゃんと彼に届いていたのだという喜びと救いの涙。
日が傾き、店内にオレンジ色の光が満ちてくる。 悠太さんは帰りがけ、私に一冊のノートを差し出した。 「これ、兄の遺品を整理していたときに見つけたんです。七海さんに渡してほしいっていうメモと一緒に、机の奥にありました」
それは、悠真さんが使っていた日記帳だった。 彼が去ったあと、私は一人でそのページをめくった。 そこには、彼が店に通い始めたあの日からの記録が、繊細な文字で綴られていた。 『3月20日。今日のラテ:彼女の笑顔。少しだけ苦みが消えた気がする』 『4月10日。今日のラテ:祈りの音。生きたいと願ってしまった』 そして、最後の一ページ。 震える手で書かれた、私へのメッセージ。 『七海さんへ。僕の命のレシピを完成させてくれてありがとう。君の淹れる珈琲は、絶望を消す魔法じゃない。絶望を抱えたまま、それでも明日へ一歩踏み出すための、光のレシピだ。……泣かないで。君が笑って珈琲を淹れる音の中に、僕は永遠に住み続けるから』
窓の外では、夕陽に照らされた桜の花びらが、琥珀色の雪のように舞っている。 私はノートを胸に抱きしめ、窓際の空席を見つめた。 そこにはもう、彼の姿はない。 けれど、確かに感じる。豆を挽く音の中に。カップが触れ合う響きの中に。 そして、立ち上る温かな湯気の向こう側に、穏やかに微笑む彼の気配を。
「……悠真さん。見ていてくださいね」
私は涙を拭い、新しい豆を手に取った。 ドアベルが鳴り、新しい客が入ってくる。 「いらっしゃいませ!」 私は、これ以上ないほど晴れやかな笑顔で、挨拶をした。 珈琲の香りが、春の風に乗って街へと広がっていく。 それは、終わりの物語ではなく、ここから始まる新しい命の旋律。 一杯の珈琲に込められた嘘と恋のレシピは、今、誰かの明日を救うための、永遠の希望へと変わったのだ。
――第一部:完
カフェ「珈音」のカウンターに立っても、窓際のあの席に視線を向けるのが怖かった。 そこに彼がいないことを、空っぽの椅子が何よりも饒舌に物語っているからだ。 「七海……。無理して立たなくていいのよ。少し、休んだら?」 オーナーの優しい言葉に、私は首を振る。 「いえ、大丈夫です。……珈琲を淹れている時だけは、彼との約束を守っている気がするんです」
けれど、私の淹れる珈琲は、どこか魂が抜けたような味がした。 あの日、彼に「愛」という隠し味を暴かれてから、私はどうやって「自分のため」ではなく「誰かのため」に淹れればいいのか、わからなくなっていた。
悠真さんがいなくなった世界は、あまりに色彩を欠いている。 私は、彼の読みかけだった本をエプロンのポケットに入れ、その感触を確かめることで、かろうじて現実の輪郭を繋ぎ止めていた。
四月の半ば。桜の花びらが風に舞い、カフェの床を薄桃色に染めていた午後のこと。 ドアベルが、どこか懐かしいリズムでチリンと鳴った。
顔を上げると、そこには一人の青年が立っていた。 年齢は二十歳そこそこだろうか。大学生風の落ち着いた身なり。そして何より、私の心臓を跳ねさせたのは、その青年の持つ「琥珀色の瞳」だった。
「……藤堂、さん?」 思わず声が漏れた。 青年は少し驚いたように目を丸くし、それから、悠真さんをもう少し幼くしたような、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「あ、すみません。兄にそっくりですか? 僕は藤堂悠太といいます。悠真の弟です」
悠太さんと名乗った青年は、悠真さんがいつも座っていたあの窓際の席に、吸い込まれるように腰を下ろした。 私は震える足で彼の元へ行き、お冷やを出した。 「……悠真さんの、弟さん。……どうして、ここが?」
「兄から、ずっと聞いていたんです。……入院中、意識が混濁している時でも、兄はうわ言のように言っていました。『珈音の窓際の席には、魔法使いがいるんだ』って」 悠太さんは、窓から差し込む春の光に目を細めた。 「『世界で一番優しい珈琲を、一番美しい音で淹れてくれる女性がいる。彼女の珈琲を飲むと、自分がただの人間だってことを思い出せるんだ』って。……だから、四十九日が過ぎたら、兄の代わりにその珈琲を飲みに行こうって、決めてたんです」
私はカウンターに戻り、豆を選んだ。 選んだのは、悠真さんが最後に愛したコロンビア産の豆。 ミルを回す。ガリガリ、という音が店内に響く。 悠太さんは、その音を聞いた瞬間、ハッとしたようにこちらを見た。 「あ……この音。……兄が言ってた通りだ。すごく、温かい」
私は丁寧にお湯を落としていく。 湯気と共に立ち上る香りは、悲しみを溶かすための魔法ではなく、彼が生きた証を、今ここに呼び戻すための祈りだった。 ラテアートを描く。描いたのは、大きな翼を広げた一羽の鳥。 あの日、第3話で彼のために描いたものと同じデザインだ。
「……どうぞ。悠真さんが、一番好きだったラテです」 悠太さんは、捧げ物を受け取るようにカップを手に取り、一口飲んだ。 そのまま、彼は長い間、沈黙した。 やがて、彼の琥珀色の瞳から、大粒の涙がポタポタと溢れ出し、カップの中に落ちた。 「……美味しいです。……兄が、あんなに幸せそうな顔をして病院に帰ってきていた理由が、今わかりました。……七海さん。兄は、本当に幸せだったんだと思います。最期まで、この味に守られていたんだから」
その言葉に、私の心の中で凍りついていた何かが、一気に崩れ落ちた。 私は、悠太さんの前で、子供のように声を上げて泣いた。 彼を失った悲しみの涙ではなく、私の「祈り」が、ちゃんと彼に届いていたのだという喜びと救いの涙。
日が傾き、店内にオレンジ色の光が満ちてくる。 悠太さんは帰りがけ、私に一冊のノートを差し出した。 「これ、兄の遺品を整理していたときに見つけたんです。七海さんに渡してほしいっていうメモと一緒に、机の奥にありました」
それは、悠真さんが使っていた日記帳だった。 彼が去ったあと、私は一人でそのページをめくった。 そこには、彼が店に通い始めたあの日からの記録が、繊細な文字で綴られていた。 『3月20日。今日のラテ:彼女の笑顔。少しだけ苦みが消えた気がする』 『4月10日。今日のラテ:祈りの音。生きたいと願ってしまった』 そして、最後の一ページ。 震える手で書かれた、私へのメッセージ。 『七海さんへ。僕の命のレシピを完成させてくれてありがとう。君の淹れる珈琲は、絶望を消す魔法じゃない。絶望を抱えたまま、それでも明日へ一歩踏み出すための、光のレシピだ。……泣かないで。君が笑って珈琲を淹れる音の中に、僕は永遠に住み続けるから』
窓の外では、夕陽に照らされた桜の花びらが、琥珀色の雪のように舞っている。 私はノートを胸に抱きしめ、窓際の空席を見つめた。 そこにはもう、彼の姿はない。 けれど、確かに感じる。豆を挽く音の中に。カップが触れ合う響きの中に。 そして、立ち上る温かな湯気の向こう側に、穏やかに微笑む彼の気配を。
「……悠真さん。見ていてくださいね」
私は涙を拭い、新しい豆を手に取った。 ドアベルが鳴り、新しい客が入ってくる。 「いらっしゃいませ!」 私は、これ以上ないほど晴れやかな笑顔で、挨拶をした。 珈琲の香りが、春の風に乗って街へと広がっていく。 それは、終わりの物語ではなく、ここから始まる新しい命の旋律。 一杯の珈琲に込められた嘘と恋のレシピは、今、誰かの明日を救うための、永遠の希望へと変わったのだ。
――第一部:完
2
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結】
星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。
だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。
しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。
王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。
そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。
地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。
⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。
皆様ありがとう!今日で王妃、やめます!〜十三歳で王妃に、十八歳でこのたび離縁いたしました〜
百門一新
恋愛
セレスティーヌは、たった十三歳という年齢でアルフレッド・デュガウスと結婚し、国王と王妃になった。彼が王になる多には必要な結婚だった――それから五年、ようやく吉報がきた。
「君には苦労をかけた。王妃にする相手が決まった」
ということは……もうつらい仕事はしなくていいのねっ? 夫婦だと偽装する日々からも解放されるのね!?
ありがとうアルフレッド様! さすが私のことよく分かってるわ! セレスティーヌは離縁を大喜びで受け入れてバカンスに出かけたのだが、夫、いや元夫の様子が少しおかしいようで……?
サクッと読める読み切りの短編となっていります!お楽しみいただけましたら嬉しく思います!
※他サイト様にも掲載
妹の身代わりだった私に「本命は君だ」――王宮前で王子に抱き潰され、溺愛がバレました。~私が虐げられるきっかけになった少年が、私と王子を結び付
唯崎りいち
恋愛
妹の身代わりとして王子とデートすることになった私。でも王子の本命は最初から私で――。長年虐げられ、地味でみすぼらしい私が、王子の愛と溺愛に包まれ、ついに幸せを掴む甘々ラブファンタジー。妹や家族との誤解、影武者の存在も絡み、ハラハラと胸キュンが止まらない物語。
二十年以上無視してきた夫が、今さら文通を申し込んできました
小豆缶
恋愛
「お願いです。文通から始めてもらえませんか?」
二十年以上会話もなかった夫――この国の王が、ある日突然そう言ってきた。
第一王妃マリアは、公爵家出身の正妃。だが夫はかつて、寵愛する第三王妃の話のみを信じ、彼女を殴ったことがある。その事件が原因で、マリアは男性恐怖症が悪化して、夫と二人きりでは会話すらできなくなっていた。
それから二十年。
第三王妃はとある事故で亡くなり、夫は反省したらしい。だからといって――今さら夫婦関係をやり直したいと言われても遅すぎる。
なのに王は諦めない。毎日の手紙。花を一輪。夜食の差し入れ。
不器用すぎる求愛に振り回されるうち、マリアの中で止まっていた感情が少しずつ動き始める。
これは、冷えきった政略夫婦が「文通」からやり直す恋の話。
※本作は「存在されていないことにされていた管理ギフトの少女王宮で真の家族に出会う」のスピンオフですが、単体で読めます。
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
元婚約者からの嫌がらせでわたくしと結婚させられた彼が、ざまぁしたら優しくなりました。ですが新婚時代に受けた扱いを忘れてはおりませんよ?
3333(トリささみ)
恋愛
貴族令嬢だが自他ともに認める醜女のマルフィナは、あるとき王命により結婚することになった。
相手は王女エンジェに婚約破棄をされたことで有名な、若き公爵テオバルト。
あまりにも不釣り合いなその結婚は、エンジェによるテオバルトへの嫌がらせだった。
それを知ったマルフィナはテオバルトに同情し、少しでも彼が報われるよう努力する。
だがテオバルトはそんなマルフィナを、徹底的に冷たくあしらった。
その後あるキッカケで美しくなったマルフィナによりエンジェは自滅。
その日からテオバルトは手のひらを返したように優しくなる。
だがマルフィナが新婚時代に受けた仕打ちを、忘れることはなかった。
上手に騙してくださらなかった伯爵様へ
しきど
恋愛
アイルザート・ルテシオ伯爵は十七歳で家督を継いだ方だ。
文武両道、容姿端麗、人柄も良く領民の誰からも愛される方だった。そんな若き英雄の婚約者に選ばれたメリッサ・オードバーン子爵令嬢は、自身を果報者と信じて疑っていなかった。
彼が屋敷のメイドと関係を持っていると知る事になる、その時までは。
貴族に愛人がいる事など珍しくもない。そんな事は分かっているつもりだった。分かっていてそれでも、許せなかった。
メリッサにとってアイルザートは、本心から愛した人だったから。
思い出さなければ良かったのに
田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。
大事なことを忘れたまま。
*本編完結済。不定期で番外編を更新中です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる