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第6話:春の光、繋がりゆく香り
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悠真さんが旅立ってから、季節は一度死んだように動くのをやめた。 雪が解け、冷たい雨が降り、やがて街中の蕾が一斉に綻び始めても、私の心はあの雪降る病室に取り残されたままだった。
カフェ「珈音」のカウンターに立っても、窓際のあの席に視線を向けるのが怖かった。 そこに彼がいないことを、空っぽの椅子が何よりも饒舌に物語っているからだ。 「七海……。無理して立たなくていいのよ。少し、休んだら?」 オーナーの優しい言葉に、私は首を振る。 「いえ、大丈夫です。……珈琲を淹れている時だけは、彼との約束を守っている気がするんです」
けれど、私の淹れる珈琲は、どこか魂が抜けたような味がした。 あの日、彼に「愛」という隠し味を暴かれてから、私はどうやって「自分のため」ではなく「誰かのため」に淹れればいいのか、わからなくなっていた。
悠真さんがいなくなった世界は、あまりに色彩を欠いている。 私は、彼の読みかけだった本をエプロンのポケットに入れ、その感触を確かめることで、かろうじて現実の輪郭を繋ぎ止めていた。
四月の半ば。桜の花びらが風に舞い、カフェの床を薄桃色に染めていた午後のこと。 ドアベルが、どこか懐かしいリズムでチリンと鳴った。
顔を上げると、そこには一人の青年が立っていた。 年齢は二十歳そこそこだろうか。大学生風の落ち着いた身なり。そして何より、私の心臓を跳ねさせたのは、その青年の持つ「琥珀色の瞳」だった。
「……藤堂、さん?」 思わず声が漏れた。 青年は少し驚いたように目を丸くし、それから、悠真さんをもう少し幼くしたような、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「あ、すみません。兄にそっくりですか? 僕は藤堂悠太といいます。悠真の弟です」
悠太さんと名乗った青年は、悠真さんがいつも座っていたあの窓際の席に、吸い込まれるように腰を下ろした。 私は震える足で彼の元へ行き、お冷やを出した。 「……悠真さんの、弟さん。……どうして、ここが?」
「兄から、ずっと聞いていたんです。……入院中、意識が混濁している時でも、兄はうわ言のように言っていました。『珈音の窓際の席には、魔法使いがいるんだ』って」 悠太さんは、窓から差し込む春の光に目を細めた。 「『世界で一番優しい珈琲を、一番美しい音で淹れてくれる女性がいる。彼女の珈琲を飲むと、自分がただの人間だってことを思い出せるんだ』って。……だから、四十九日が過ぎたら、兄の代わりにその珈琲を飲みに行こうって、決めてたんです」
私はカウンターに戻り、豆を選んだ。 選んだのは、悠真さんが最後に愛したコロンビア産の豆。 ミルを回す。ガリガリ、という音が店内に響く。 悠太さんは、その音を聞いた瞬間、ハッとしたようにこちらを見た。 「あ……この音。……兄が言ってた通りだ。すごく、温かい」
私は丁寧にお湯を落としていく。 湯気と共に立ち上る香りは、悲しみを溶かすための魔法ではなく、彼が生きた証を、今ここに呼び戻すための祈りだった。 ラテアートを描く。描いたのは、大きな翼を広げた一羽の鳥。 あの日、第3話で彼のために描いたものと同じデザインだ。
「……どうぞ。悠真さんが、一番好きだったラテです」 悠太さんは、捧げ物を受け取るようにカップを手に取り、一口飲んだ。 そのまま、彼は長い間、沈黙した。 やがて、彼の琥珀色の瞳から、大粒の涙がポタポタと溢れ出し、カップの中に落ちた。 「……美味しいです。……兄が、あんなに幸せそうな顔をして病院に帰ってきていた理由が、今わかりました。……七海さん。兄は、本当に幸せだったんだと思います。最期まで、この味に守られていたんだから」
その言葉に、私の心の中で凍りついていた何かが、一気に崩れ落ちた。 私は、悠太さんの前で、子供のように声を上げて泣いた。 彼を失った悲しみの涙ではなく、私の「祈り」が、ちゃんと彼に届いていたのだという喜びと救いの涙。
日が傾き、店内にオレンジ色の光が満ちてくる。 悠太さんは帰りがけ、私に一冊のノートを差し出した。 「これ、兄の遺品を整理していたときに見つけたんです。七海さんに渡してほしいっていうメモと一緒に、机の奥にありました」
それは、悠真さんが使っていた日記帳だった。 彼が去ったあと、私は一人でそのページをめくった。 そこには、彼が店に通い始めたあの日からの記録が、繊細な文字で綴られていた。 『3月20日。今日のラテ:彼女の笑顔。少しだけ苦みが消えた気がする』 『4月10日。今日のラテ:祈りの音。生きたいと願ってしまった』 そして、最後の一ページ。 震える手で書かれた、私へのメッセージ。 『七海さんへ。僕の命のレシピを完成させてくれてありがとう。君の淹れる珈琲は、絶望を消す魔法じゃない。絶望を抱えたまま、それでも明日へ一歩踏み出すための、光のレシピだ。……泣かないで。君が笑って珈琲を淹れる音の中に、僕は永遠に住み続けるから』
窓の外では、夕陽に照らされた桜の花びらが、琥珀色の雪のように舞っている。 私はノートを胸に抱きしめ、窓際の空席を見つめた。 そこにはもう、彼の姿はない。 けれど、確かに感じる。豆を挽く音の中に。カップが触れ合う響きの中に。 そして、立ち上る温かな湯気の向こう側に、穏やかに微笑む彼の気配を。
「……悠真さん。見ていてくださいね」
私は涙を拭い、新しい豆を手に取った。 ドアベルが鳴り、新しい客が入ってくる。 「いらっしゃいませ!」 私は、これ以上ないほど晴れやかな笑顔で、挨拶をした。 珈琲の香りが、春の風に乗って街へと広がっていく。 それは、終わりの物語ではなく、ここから始まる新しい命の旋律。 一杯の珈琲に込められた嘘と恋のレシピは、今、誰かの明日を救うための、永遠の希望へと変わったのだ。
――第一部:完
カフェ「珈音」のカウンターに立っても、窓際のあの席に視線を向けるのが怖かった。 そこに彼がいないことを、空っぽの椅子が何よりも饒舌に物語っているからだ。 「七海……。無理して立たなくていいのよ。少し、休んだら?」 オーナーの優しい言葉に、私は首を振る。 「いえ、大丈夫です。……珈琲を淹れている時だけは、彼との約束を守っている気がするんです」
けれど、私の淹れる珈琲は、どこか魂が抜けたような味がした。 あの日、彼に「愛」という隠し味を暴かれてから、私はどうやって「自分のため」ではなく「誰かのため」に淹れればいいのか、わからなくなっていた。
悠真さんがいなくなった世界は、あまりに色彩を欠いている。 私は、彼の読みかけだった本をエプロンのポケットに入れ、その感触を確かめることで、かろうじて現実の輪郭を繋ぎ止めていた。
四月の半ば。桜の花びらが風に舞い、カフェの床を薄桃色に染めていた午後のこと。 ドアベルが、どこか懐かしいリズムでチリンと鳴った。
顔を上げると、そこには一人の青年が立っていた。 年齢は二十歳そこそこだろうか。大学生風の落ち着いた身なり。そして何より、私の心臓を跳ねさせたのは、その青年の持つ「琥珀色の瞳」だった。
「……藤堂、さん?」 思わず声が漏れた。 青年は少し驚いたように目を丸くし、それから、悠真さんをもう少し幼くしたような、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「あ、すみません。兄にそっくりですか? 僕は藤堂悠太といいます。悠真の弟です」
悠太さんと名乗った青年は、悠真さんがいつも座っていたあの窓際の席に、吸い込まれるように腰を下ろした。 私は震える足で彼の元へ行き、お冷やを出した。 「……悠真さんの、弟さん。……どうして、ここが?」
「兄から、ずっと聞いていたんです。……入院中、意識が混濁している時でも、兄はうわ言のように言っていました。『珈音の窓際の席には、魔法使いがいるんだ』って」 悠太さんは、窓から差し込む春の光に目を細めた。 「『世界で一番優しい珈琲を、一番美しい音で淹れてくれる女性がいる。彼女の珈琲を飲むと、自分がただの人間だってことを思い出せるんだ』って。……だから、四十九日が過ぎたら、兄の代わりにその珈琲を飲みに行こうって、決めてたんです」
私はカウンターに戻り、豆を選んだ。 選んだのは、悠真さんが最後に愛したコロンビア産の豆。 ミルを回す。ガリガリ、という音が店内に響く。 悠太さんは、その音を聞いた瞬間、ハッとしたようにこちらを見た。 「あ……この音。……兄が言ってた通りだ。すごく、温かい」
私は丁寧にお湯を落としていく。 湯気と共に立ち上る香りは、悲しみを溶かすための魔法ではなく、彼が生きた証を、今ここに呼び戻すための祈りだった。 ラテアートを描く。描いたのは、大きな翼を広げた一羽の鳥。 あの日、第3話で彼のために描いたものと同じデザインだ。
「……どうぞ。悠真さんが、一番好きだったラテです」 悠太さんは、捧げ物を受け取るようにカップを手に取り、一口飲んだ。 そのまま、彼は長い間、沈黙した。 やがて、彼の琥珀色の瞳から、大粒の涙がポタポタと溢れ出し、カップの中に落ちた。 「……美味しいです。……兄が、あんなに幸せそうな顔をして病院に帰ってきていた理由が、今わかりました。……七海さん。兄は、本当に幸せだったんだと思います。最期まで、この味に守られていたんだから」
その言葉に、私の心の中で凍りついていた何かが、一気に崩れ落ちた。 私は、悠太さんの前で、子供のように声を上げて泣いた。 彼を失った悲しみの涙ではなく、私の「祈り」が、ちゃんと彼に届いていたのだという喜びと救いの涙。
日が傾き、店内にオレンジ色の光が満ちてくる。 悠太さんは帰りがけ、私に一冊のノートを差し出した。 「これ、兄の遺品を整理していたときに見つけたんです。七海さんに渡してほしいっていうメモと一緒に、机の奥にありました」
それは、悠真さんが使っていた日記帳だった。 彼が去ったあと、私は一人でそのページをめくった。 そこには、彼が店に通い始めたあの日からの記録が、繊細な文字で綴られていた。 『3月20日。今日のラテ:彼女の笑顔。少しだけ苦みが消えた気がする』 『4月10日。今日のラテ:祈りの音。生きたいと願ってしまった』 そして、最後の一ページ。 震える手で書かれた、私へのメッセージ。 『七海さんへ。僕の命のレシピを完成させてくれてありがとう。君の淹れる珈琲は、絶望を消す魔法じゃない。絶望を抱えたまま、それでも明日へ一歩踏み出すための、光のレシピだ。……泣かないで。君が笑って珈琲を淹れる音の中に、僕は永遠に住み続けるから』
窓の外では、夕陽に照らされた桜の花びらが、琥珀色の雪のように舞っている。 私はノートを胸に抱きしめ、窓際の空席を見つめた。 そこにはもう、彼の姿はない。 けれど、確かに感じる。豆を挽く音の中に。カップが触れ合う響きの中に。 そして、立ち上る温かな湯気の向こう側に、穏やかに微笑む彼の気配を。
「……悠真さん。見ていてくださいね」
私は涙を拭い、新しい豆を手に取った。 ドアベルが鳴り、新しい客が入ってくる。 「いらっしゃいませ!」 私は、これ以上ないほど晴れやかな笑顔で、挨拶をした。 珈琲の香りが、春の風に乗って街へと広がっていく。 それは、終わりの物語ではなく、ここから始まる新しい命の旋律。 一杯の珈琲に込められた嘘と恋のレシピは、今、誰かの明日を救うための、永遠の希望へと変わったのだ。
――第一部:完
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