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第5話:最後の一杯、愛という名のレシピ
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ラテアート大会の華やかな喧騒から、わずか数週間。 季節は残酷なまでに速度を上げ、窓の外には季節外れの重たい雪が舞い始めていた。 私が今いる場所は、飴色のカウンターの中ではない。消毒液の匂いが鼻を突く、無機質な病室の一室だ。
ベッドに横たわる悠真さんは、あの海辺で見せた姿よりもさらに小さく、細くなっていた。 頬はこけ、琥珀色の瞳はまぶたの裏に閉じられている。肌の白さは、外で降り積もる雪の色と区別がつかないほどだった。
「……悠真さん」 私は彼の枕元で、静かに声をかけた。 彼はゆっくりと、重い石を持ち上げるような仕草で目を開けた。そこにはもう、本を読む力も、冗談を言う力も残っていない。けれど、私を見つめる眼差しだけは、初めて店に来たあの日と同じ、温かな光を宿していた。
「……七海、さん……。また、泣いてる」 「泣いてません。……ただ、少しだけ、外が寒いから」 私は彼に「優しい嘘」を返した。 彼はそれをわかっているように、かすかに口角を上げた。
「悠真さん。今日、特別な許可をもらってきたんです」 私は持ってきたカバンから、使い込んだドリップセットを取り出した。 本来、病院で火気や強い香りは禁じられている。けれど、主治医と看護師たちは、私が優勝したバリスタであることを知り、そして悠真さんの「最期の望み」を汲み取って、短時間だけ目をつぶってくれたのだ。
「……ここで、淹れてくれるんですか?」 「はい。世界で一番美味しい一杯を」
私はカセットコンロでお湯を沸かし始めた。 小さな火の粉が、薄暗い病室をオレンジ色に照らす。 豆を挽く。ガリガリ、という規則正しい音が、静まり返った病室に響き渡る。 かつて彼が「音にも温度がある」と言った、あの音だ。
お湯が沸き、私はドリッパーにセットした粉へ、細くお湯を落としていった。 その瞬間、無機質だった病室の空気が一変した。 立ち上る湯気。 深く、芳醇で、生命力に満ちた珈琲の香り。 それは、絶望が支配する死の際(きわ)において、唯一「生」を主張する鮮烈な狼煙(のろし)のようだった。
「……あぁ、いい香りだ。……珈音の、あの窓際の席にいるみたいだ」 悠真さんの鼻腔が、微かに動く。彼の意識が、珈琲の香りによって、あの幸せだった時間へと引き戻されていく。
私が淹れたのは、彼が一番愛したコロンビア産の豆。 そこに、少しだけ「嘘」を混ぜた。 隠し味に入れたのは、大会で優勝したときにも使わなかった、私の心そのものだ。
私はカップを彼の唇に近づけた。 彼の手はもう、自分でカップを支えることもできない。私の手が、彼の手代わりになって、ゆっくりと傾ける。
一口。 琥珀色の液体が、彼の喉を通っていく。 「……美味しい。……今まで飲んだ、どの一杯よりも、苦くて……甘い」
彼は深く息を吐き出し、私の目を見つめた。 「七海さん。……僕の人生は、ずっと『終わり』に向かうだけの旅だと思っていました。でも、あの日、あの店で君に出会って……珈琲を飲んで。僕は、終わるためじゃなく、この一杯を飲むために生まれてきたんだって、そう思えた」
「……悠真さん。私の方こそ……」 「聞いてください。……君の珈琲には、レシピにはないものが入っている。それは、優しさや祈り……そして、僕への愛です。……わかっていたんですよ。最初から」
涙が止まらなかった。 カップを持つ手が震えないよう、私は必死に自分を支えた。 隠していたつもりだった。プロとして、店員として。けれど、彼はすべてを受け取ってくれていた。
「……僕も、愛しています。……七海さん。君に会えて、本当によかった」
彼は満足そうに目を閉じると、私の手を、残った力すべてを使って握り返した。 指先は氷のように冷たい。けれど、その感触は、私の魂に深く、消えない烙印のように刻まれた。
「……少し、眠りますね。……また、明日」 彼は、最後の最後まで、あの「優しい嘘」を吐き通した。 私は彼の耳元で、そっと囁いた。 「……はい。また明日、美味しい珈琲を淹れて待っていますね」
雪は降り続いていた。 部屋の明かりを落とし、私は彼が眠る横で、冷めゆく珈琲の香りに包まれていた。 やがて、彼の呼吸が、夜の静寂に溶け込むように止まった。 機械の音も、悲鳴もなかった。 ただ、珈琲の余韻だけが、そこに残されていた。 窓の外、雪を照らす街灯の光が、まるで琥珀色の星屑のようにキラキラと輝いている。 その光の一粒一粒が、彼が私に残してくれた「レシピ」のように思えて、私は声を出さずに、ただ静かに泣き続けた。 彼との日々は、これで終わった。 けれど、私の指先には、まだあの熱いドリップポットの感触が、そして心には、彼が教えてくれた「愛」という名の隠し味が、永遠に残り続ける。
――第5話:完
ベッドに横たわる悠真さんは、あの海辺で見せた姿よりもさらに小さく、細くなっていた。 頬はこけ、琥珀色の瞳はまぶたの裏に閉じられている。肌の白さは、外で降り積もる雪の色と区別がつかないほどだった。
「……悠真さん」 私は彼の枕元で、静かに声をかけた。 彼はゆっくりと、重い石を持ち上げるような仕草で目を開けた。そこにはもう、本を読む力も、冗談を言う力も残っていない。けれど、私を見つめる眼差しだけは、初めて店に来たあの日と同じ、温かな光を宿していた。
「……七海、さん……。また、泣いてる」 「泣いてません。……ただ、少しだけ、外が寒いから」 私は彼に「優しい嘘」を返した。 彼はそれをわかっているように、かすかに口角を上げた。
「悠真さん。今日、特別な許可をもらってきたんです」 私は持ってきたカバンから、使い込んだドリップセットを取り出した。 本来、病院で火気や強い香りは禁じられている。けれど、主治医と看護師たちは、私が優勝したバリスタであることを知り、そして悠真さんの「最期の望み」を汲み取って、短時間だけ目をつぶってくれたのだ。
「……ここで、淹れてくれるんですか?」 「はい。世界で一番美味しい一杯を」
私はカセットコンロでお湯を沸かし始めた。 小さな火の粉が、薄暗い病室をオレンジ色に照らす。 豆を挽く。ガリガリ、という規則正しい音が、静まり返った病室に響き渡る。 かつて彼が「音にも温度がある」と言った、あの音だ。
お湯が沸き、私はドリッパーにセットした粉へ、細くお湯を落としていった。 その瞬間、無機質だった病室の空気が一変した。 立ち上る湯気。 深く、芳醇で、生命力に満ちた珈琲の香り。 それは、絶望が支配する死の際(きわ)において、唯一「生」を主張する鮮烈な狼煙(のろし)のようだった。
「……あぁ、いい香りだ。……珈音の、あの窓際の席にいるみたいだ」 悠真さんの鼻腔が、微かに動く。彼の意識が、珈琲の香りによって、あの幸せだった時間へと引き戻されていく。
私が淹れたのは、彼が一番愛したコロンビア産の豆。 そこに、少しだけ「嘘」を混ぜた。 隠し味に入れたのは、大会で優勝したときにも使わなかった、私の心そのものだ。
私はカップを彼の唇に近づけた。 彼の手はもう、自分でカップを支えることもできない。私の手が、彼の手代わりになって、ゆっくりと傾ける。
一口。 琥珀色の液体が、彼の喉を通っていく。 「……美味しい。……今まで飲んだ、どの一杯よりも、苦くて……甘い」
彼は深く息を吐き出し、私の目を見つめた。 「七海さん。……僕の人生は、ずっと『終わり』に向かうだけの旅だと思っていました。でも、あの日、あの店で君に出会って……珈琲を飲んで。僕は、終わるためじゃなく、この一杯を飲むために生まれてきたんだって、そう思えた」
「……悠真さん。私の方こそ……」 「聞いてください。……君の珈琲には、レシピにはないものが入っている。それは、優しさや祈り……そして、僕への愛です。……わかっていたんですよ。最初から」
涙が止まらなかった。 カップを持つ手が震えないよう、私は必死に自分を支えた。 隠していたつもりだった。プロとして、店員として。けれど、彼はすべてを受け取ってくれていた。
「……僕も、愛しています。……七海さん。君に会えて、本当によかった」
彼は満足そうに目を閉じると、私の手を、残った力すべてを使って握り返した。 指先は氷のように冷たい。けれど、その感触は、私の魂に深く、消えない烙印のように刻まれた。
「……少し、眠りますね。……また、明日」 彼は、最後の最後まで、あの「優しい嘘」を吐き通した。 私は彼の耳元で、そっと囁いた。 「……はい。また明日、美味しい珈琲を淹れて待っていますね」
雪は降り続いていた。 部屋の明かりを落とし、私は彼が眠る横で、冷めゆく珈琲の香りに包まれていた。 やがて、彼の呼吸が、夜の静寂に溶け込むように止まった。 機械の音も、悲鳴もなかった。 ただ、珈琲の余韻だけが、そこに残されていた。 窓の外、雪を照らす街灯の光が、まるで琥珀色の星屑のようにキラキラと輝いている。 その光の一粒一粒が、彼が私に残してくれた「レシピ」のように思えて、私は声を出さずに、ただ静かに泣き続けた。 彼との日々は、これで終わった。 けれど、私の指先には、まだあの熱いドリップポットの感触が、そして心には、彼が教えてくれた「愛」という名の隠し味が、永遠に残り続ける。
――第5話:完
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