私を騙したあなたへ ―― 記憶を盗んだのは、あなたでした。

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19話【運命の楔(くさび) ―― ダイヤモンドに隠された父の遺志】

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 夜が明ける頃、窓の外の海面に朝日が反射し、最上階のスイートルームを眩いばかりの光で満たした。  彩花はまぶたの裏で小さく揺れる白い光に目を覚ました。意識が覚醒すると同時に、昨夜の情熱的な記憶が波のように押し寄せ、胸の奥が締め付けられる。ふと視線を向けると、窓辺に蓮が立っていた。  朝の黄金色の光が、彼の横顔の輪郭をゆっくりと照らし出す。黒髪に混じった数本の銀糸がきらめき、その背中には、自らの人生を他者に捧げた者特有の、言葉にはできない静けさと深い哀愁が漂っていた。

「……蓮さん、おはよう」

 その名を呼んだ瞬間、彩花の唇はかすかに震え、喉の奥に熱い塊が詰まったような感覚に襲われた。  これまで数えきれないほど愛おしく口にしてきた「涼太さん」という響きが、脳内のどこかでノイズのように激しく拒絶反応を起こす。心に染み付いた音の記憶を殺し、未知の「蓮」という新しい音を唇に乗せる作業は、ひどく口に馴染まない違和感となって彩花を苛んだ。愛した男の魂に別の名前を刻み込むような残酷な感覚。その身体的な苦痛が、二人の間に横たわる「喪失」の大きさを改めて浮き彫りにしていた。

 蓮はゆっくりと振り返り、穏やかだがどこか影を宿した微笑を浮かべた。もう“涼太”の虚像ではない、仮面を剥いだ本物の桐谷蓮の瞳だった。

「おはよう、彩花さん。昨夜は……僕の告白で、傷つけませんでしたか?」 「いいえ。でも……蓮さんは?」

 彩花はベッドから身を起こし、蓮の目の下にある深い疲労の隈へそっと指を伸ばした。触れた瞬間、蓮の肩がかすかに揺れる。 「大丈夫だ。少し……君を騙し続けてきた罪と、これから君をさらなる危険に晒すことへの恐怖を考えていた」

「……でも、どうして“涼太”から“蓮”に戻れたんですか? あの告白を聞いた時、私は、涼太はもういないのだと思っていました」

 彩花の問いに、蓮はふと目を伏せた。窓から差し込む光が、彼の顔に長い影を落とす。失われた記憶の海へ、深く意識が沈んでいくような沈黙が流れた。  彼はしばらくして顔を上げると、真っ直ぐに彩花を見つめた。その瞳に宿っていたのは――偽りの“涼太”ではなく、“桐谷蓮”としての確かな意志と感謝だった。

「それは……君の愛と、そして“涼太”のおかげだ」

 蓮の声は、静かで、温かくて、どこか切ない感謝に満ちていた。

「君と過ごした時間、君の笑顔、君の言葉。その全部が、眠っていた“僕自身”を呼び戻してくれた。でも、決定的に僕を救ったのは、僕に流し込まれたはずの“涼太”の人格だったんだ」

 蓮は彩花の手を包み込むように握った。その温もりは、言葉では足りないほどの、複雑な真実の愛を運んでいた。  そして、蓮は語り始めた。それは、暗闇を裸足で歩くような、痛みと孤独に満ちた道のりだった。静寂の底で、ときおり自分ではない「もう一つの声」が響くことがあった。優しく、どこか懐かしい声――涼太。

『蓮、君は独りじゃない。僕がそばにいるよ』

 その声音は、凍りついた蓮の心に、じんわりと灯をともした。蓮は初め、彼を必死に拒んだ。涼太はクロノスによって作り上げられた“偽りの人格”であり、自分を支配するための檻だと知っていたからだ。  だが涼太は、蓮の胸の深い傷へそっと手を伸ばすように語りかけてきた。蓮が言葉にできない痛みや恐怖を、まるで自分のことのように理解しながら。

『蓮。真実は君を傷つける。でも、同時に君を自由にもするんだ。僕が君に教えた愛を信じて、前に進め』

 その声は、濃い霧の中に差し込む光だった。  蓮は少しずつ、自分の過去へと向き合い始める。実験台で味わった悲鳴のような記憶。自分の手がどれほど多くの人を傷つけてきたかという現実。その全てが蓮の胸に突き刺さり、彼を絶望へと沈めたが、涼太が彩花を通じて経験した愛の残響が、彼を支え続けた。

「偽りの人格が、僕にとっては真実の愛を運ぶ光になったんだ。涼太が君を想う気持ちが強かったからこそ、僕は僕を取り戻すことができた。……だから、今の僕の中には、涼太も共に生きている」

 その告白は、彩花の心を震わせた。愛した涼太は消えたのではなく、蓮という一人の男の魂の一部として昇華されたのだ。

 蓮は決意を固めたように、彩花をバルコニーへ誘った。海は光を受けて黄金色に染まり、空は夜明けの藍と朱が溶け合う劇的なグラデーションを描いていた。  蓮はポケットから、小さなダイヤモンドのネックレスを取り出した。 「君が、僕を信じると決めた理由……それが、このネックレスの存在だと言うのなら、僕は真実を告げなければならない。……彩花さん。このネックレスは、涼太からの贈り物ではありません。いいえ、これは──君のお父様、奥野聡史さんが、僕に命を賭して託したものです」

 彩花の胸が凍りつく。蓮の声は、真実の重みで震えていた。 「奥野博士は、僕が記憶を消される直前、これを僕の掌に押し込んだ。いつか、君を見つけ出し、この輝きが君を守る楔(くさび)になるようにと。……涼太として君を愛したのは偽装かもしれない。でも、このネックレスを持って君の前に現れたのは、僕の中に残った唯一の『真実の意志』だったんだ」

 蓮はネックレスを彩花の手に乗せた。それは、奥野博士が、自分の死と引き換えに、娘と、蓮の魂を救うために遺した、運命の楔だった。ネックレスが、朝陽を受けて、運命の光のように輝きを放った。

 ***

 ――だが、その一瞬の希望は、無慈悲な音によって叩き潰された。  彩花のスマートフォンが、静寂を切り裂くように甲高く鳴り響いたのだ。  見慣れない番号。彩花の胸に氷のような予感が落ちる。  一瞬前まで「希望」に見えた朝の光が、急に冷え切った鋭いものに感じられる。このスイートルームの**「冷たい豪華さ」**――広すぎる部屋、高価な調度品、眩しすぎる朝日が、自分たちを外界から隔絶し、逃げ場のない檻に閉じ込めているような錯覚を彩花に抱かせた。

「……もしもし?」

 受話器から聞こえてきたのは、低く、感情の一切を削ぎ落とした、砂を噛むような冷酷な男の声だった。

『奥野彩花さん……ですね。……騙されてはいけません。桐谷蓮は、クロノスが放ったスパイだ。お前の父親を死に追いやった、計画の実行犯でもある』

 心臓を氷の楔で貫かれたような衝撃。彩花は、無意識に蓮から一歩だけ距離を取った。その身体的な断絶に、蓮の顔から血の気が引く。

「……あなたは誰? なぜ父のことを」

『……忘れたのですか。あなたのすぐそばに、死神がいるということを』

 男は最後に、ふっと鼻を鳴らすように笑うと、小さな声である**「旋律」**をハミングした。  彩花の全身が、かつてないほどの恐怖で硬直した。  それは、記憶の底に沈んでいた、かつて自分に優しくしてくれた「あのお兄さん」の鼻歌。そして何より、父が亡くなったあの夜、書斎の廊下を去っていく人影が口ずさんでいた「死の旋律」そのものだった。

「……うそ……なんで……」

 切断音が響き、世界が急に静まり返る。ネックレスの重みが、今は父を裏切った証のように重く、冷たく感じられた。昨夜の告白も、このネックレスも、すべてはあの夜の「犯人」が仕組んだ、さらなる罠だったのではないか。

「彩花さん、どうかしましたか?」

 蓮は眉間に深い皺を寄せた。その瞳の奥には、怒りと、「再び疑われることへの激しい絶望」が混じり合っていた。

「……クロノスの、最後の抵抗か」

 低く呟くその声は、過去の地獄の扉を再び開くように、かすかに震えていた。  蓮は、蘇った悪夢を振り払うように、深く息を吸った。  ――白い実験室。自分を形作る記憶が、脳の奥からナイフで削り取られ、別の「誰かの人生」が無理やり流し込まれていく恐怖。 「クロノスは、新薬の開発を隠れ蓑に、記憶操作技術を完成させようとしている。彼らが作っている《ネメシス》は、人間の記憶と感情を――自由に書き換えるための道具、記憶操作兵器です」

 蓮の声には、底知れない怒りが宿っていた。彩花は、まっすぐに蓮を見つめる。先ほどの電話の声、そして「あの歌」の衝撃が胸を抉るが、目の前の蓮の苦痛もまた真実に見えた。

「それが『偽り』だったとしても、私に届いた愛は、本物でした。蓮さん。あなたは、涼太としての幻を超えて、私にとってかけがえのない、ただ一人の人になったんです」

 蓮の瞳に、初めて、救いの光が灯った。だが、その光をさえぎるように、再び現実が牙を剥く。


【第19話:あとがき】
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます!

「蓮。君は強い。……そして、彩花さんをよろしくね」 物語の最初から彩花を支え、読者の皆様にも愛されてきた「涼太」という人格が、その役割を終えて蓮へとすべてを託すシーン。切なくも温かい、究極の自己犠牲と愛の継承に、執筆しながら胸が熱くなりました。

そして、父・奥野博士が遺した執念の暗号。 それは、娘にしか解けない、そして蓮と共になければ辿り着けない「映画の台詞」の中に隠されていました。スクリーン越しに語りかけてくる父の「老教授」としての姿。父は、研究者としての知性と、親としての情愛のすべてを賭けて、この日のための「台本」を書き上げていたのです。

次なる目的地は、地図から消された「廃墟リゾート」。 そこには、父が命を懸けて隠したクロノスの核心的秘密、そして蓮が「死神」と呼ばれたあの夜の真実が眠っています。

「もし、君がすべてを忘れてしまっても……必ず迎えに行く」

父の約束を胸に、二人はついに禁断の地へと足を踏み入れます。

次回、第20話『完全覚醒 ―― 暗号が示す廃墟リゾートの危険な座標』。 闇の奥で待ち受けるのは、救済か、それともさらなる絶望か。物語はクライマックスへ向けて加速します!

涼太との別れに涙した!お父さんの愛が深すぎる!と思った方は、 ぜひ【お気に入り登録】と【応援ポイント】をお願いいたします! 皆様の応援が、彩花たちが廃墟の闇を切り裂くための力になります!
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