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第9話:届かない叫び
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視界が、物理的な衝撃を伴ってはぜた。 カシオペアの深淵を支配していた黄金の天秤も、局長が刻む銀時計の冷徹な秒針も、すべてが漆黒のインクに飲み込まれ、次の瞬間、私は暴力的なほどの重力と冷気に叩きつけられていた。
鼻を突くのは、焼けたゴムと漏れ出したガソリンの、むせ返るような死の匂い。 耳を劈(つんざ)くのは、降りしきる雪がアスファルトを叩く無機質な音と、遠くで泣き叫ぶように響く救急車のサイレン。
私は、冷たいコンクリートの上に這いつくばっていた。手のひらから伝わる凍えるような感触と、皮膚を刺す雪の鋭さ。それがここを、かつて綴った「記憶の再現」ではなく、逃げ場のない「現実」という名の戦場であることを突きつけてくる。
「……あ、……ぁ……」
声が、出ない。喉の奥に熱い鉄を流し込まれたように、呼吸をするたびに肺が焼ける。 顔を上げると、そこには無残にひっくり返った黒い車があった。粉々に砕け散ったフロントガラスが、街灯の鈍い光を反射して、まるで死神の鱗のように不気味に輝いている。片方だけ生き残ったヘッドライトが、虚しく空を照らし、降りしきる牡丹雪を白く、残酷なほど美しく浮き上がらせていた。
そして、その光の檻の中に。 雪の上に投げ出され、白い地を赤く染めながら、ピクリとも動かなくなっている一人の青年がいた。
胸の奥で、何かが致命的な音を立てて砕け散った。 理由はわからない。今の私には、彼と出会った日の雨の匂いも、初めて名前を呼ばれた時の震えも、彼を愛した全ての根源も、何一つ残っていない。あの銀河の深淵で、彼を救うための重りとして、天秤の皿にすべて投げ捨ててしまったからだ。 けれど、彼を見た瞬間、私の全身の細胞が、魂が、理屈を越えた悲鳴を上げた。 誰なの。この人は、誰なの。 私はなぜ、自分の命が削れることよりも、目の前のこの人が壊れていくことの方が耐えられないの。
「…………っ、……ああぁあ!」
私は震える足で、泥を舐めるようにして彼に歩み寄った。膝が割れ、指先が凍傷で痺れても構わなかった。彼の傍らに崩れ落ちるように膝をつき、その手を取った。 氷のように冷たかった。生命という名の灯火が、指先から一滴ずつ零れ落ちていくような、心許ない冷たさ。 けれど、微かに、本当に微かに、彼の指が私の手のひらの中で跳ねた。 彼は血の混じった雪を吐き出しながら、焦点の合わない瞳をゆっくりと、苦痛に耐えながら動かし、私を見た。
「……つ、む……ぎ……?」
私の名前。 作家としての矜持と共に、かつてインクに変えて差し出したはずの、私の名前。 彼はそれを呼んだ。宇宙で一番愛おしい宝物に触れるような、掠れた、けれど魂の底から絞り出したような優しい声で。 けれど、今の私には、その響きさえも知らない誰かの言葉のようにしか聞こえない。 彼が誰なのか。どんな夢を語り合い、どんな朝食を共に食べたのか。その記憶の欠片さえ、今の私の脳内には存在しない。 ただ、彼が私の名前を呼ぶたびに、空っぽになったはずの胸の空洞に、激痛という名の黒いインクが満ちていく。
「誰……? あなたは、誰なの……? 答えてよ……お願いだから!」
私の唇から零れたのは、彼にとって死よりも残酷な問いだった。 青年の瞳に、絶望よりも深い、凪のような静かな悲しみが宿る。彼は笑おうとした。血に濡れた唇を、寒さと痛みに震わせながら、自分を忘れ去った女のために、最期の力を振るい絞って微笑もうとした。
「……それで、いいんだ……。君が……僕を、忘れて……笑える未来に、届くなら……。僕の計算は、間違って……なかった……」
彼の言葉は、激しい咳と共に途切れた。口端から鮮血があふれ、雪の上に新しい、濃い紅の紋様を描く。 その瞬間、私の頭上に銀河郵便局の幻影が重なった。 降りしきる雪の中に、執行官・九条が立っている。彼は感情の欠落した瞳で、手元の懐中時計を見つめていた。局長の声が、凍てつく風に乗って、私の脳髄を直接揺さぶる。
『紬さん。これがあなたの望んだ現実の結末です。因果律の天秤は、無情にも彼を死の淵へと引き寄せようとしています。あなたが彼を愛した理由を捨てたことで、この世界における彼の存在意義を繋ぎ止める鎖は、今、完全に断たれた。彼の命は、間もなく零に帰すでしょう。』
零に、なる。 彼が生きた証が。私と重ねた手の温度が。彼という一人の人間が、幾千万の言葉を費やして紡いできた時間のすべてが。この雪の下で、誰にも愛されず、誰にも記憶されないまま、無価値な無へと還元される。 そんなこと、許されるはずがない。 名前が思い出せなくてもいい。恋をしたきっかけなんて、もういらない。 ただ、この人がここにいたことを、今この瞬間に私の指先が感じているこの命の震えだけは、神様にだって消させはしない。
「理由なんて……後から作ればいい! あなたが誰か分からなくても、私があなたを救いたいと思っている、この瞬間が新しい伏線になるんだから!」
私は、右手の万年筆を握りしめた。 ペンを握る指はすでに感覚を失い、死のインクが変質させた痣は、肘を越え、肩を舐め、私の心臓を喰らおうと脈打っている。 私は彼の血に濡れた胸元に、震える手で真っ白な便箋を押し当てた。いや、それは便箋などではない。私の残り少ない寿命そのもの、魂の最後の断片だった。
世界から、音が消えていく。 サイレンの音も、野次馬の騒ぎも、雪が降る音さえも、遠い宇宙の彼方へと遠ざかっていく。 全ての因果が、このペン先に一点集中し、そして重力さえも消失した純白の空洞へと落ちていく感覚。
私は、声にならない絶唱を、万年筆のペン先に込めた。
『零』
それは、過去のすべてを失った私の、終わりの始まり。 それは、失った愛に縋ることをやめ、何も持たない無のまま、今この瞬間の絶望をすべて引き受けるという、究極の受容。 思い出という過去ではなく、存在という現在を肯定するための、血を吐くような一文字。 文字が刻まれた瞬間、世界が反転した。 降りしきる雪が空中で静止し、重力から解き放たれたように上へと舞い上がる。青年の体から漏れ出していた血が、逆流するようにロイヤルブルーの輝きを帯び、彼の傷口を縫い合わせるように光り輝く。
「……叫んでも、届かないのなら。思い出が、零に帰るというのなら。私は、その零の中に、あなたをもう一度刻み直す。誰でもないあなたを、私はここからもう一度、愛してみせる!」
私は青年の胸に顔を埋めた。 冷たい雪の匂いと、鉄のような血の匂い。 記憶は何一つ戻らない。けれど、私の魂が叫んでいる。 この零から始まる物語こそが、彼が立てた死の計算を根底から覆し、神の定めた結末を塗りつぶす、唯一の生への叛逆なのだと。
背後で、九条が短く、けれど憐れむような溜め息をついた。 「……どこまでも無謀だな。代筆者。すべてを捨て、地獄の真っ只中で、なおもその男の存在を肯定するか。その先に待っているのは、救済ではなく、ただの消失だとしても」
私の意識が、再び銀河の闇へと引きずり込まれる。 雪の感触が消え、ガソリンの匂いが遠のく。気付けば私は再び銀河郵便局の、どこまでも続く回廊に立っていた。 右手の痣は、より深く、より黒く、不気味に脈動を刻んでいる。 それは心臓まであと数センチの場所まで迫り、私の肉体を言葉へと作り変えようとしていた。
「紬さん。一歩、踏み出しましたね」 局長が、闇の中から音もなく現れる。彼の銀時計は、再び時を刻み始めていた。 「しかし、代償は確実にあなたの身体を蝕んでいます。見てなさい。あなたの腕に広がる、その言葉の呪いを。それはあなたが人間を止め、ただの物語の部品になるまでのカウントダウンです」
私は、重くなった自分の右腕を見つめた。 そこには、インクが滲んだような、禍々しいあざが浮かび上がっていた。 それは彼を救うための救済の代償であり、私という存在が消滅する前兆。 私は、感覚を失いつつある指を強く握りしめた。 たとえこの腕が、この身体がすべてインクに変わったとしても。 あの雪の中で感じた、名もなき熱だけは、絶対に手放さない。
(第10話へ続く)
【第9話 あとがき】
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。 雪降る事故現場、記憶も名前も失った中で「存在」だけを肯定しようとする紬の魂を、極限まで濃縮して描き切りました。
文字『零』は、過去との決別、そして何もない無の状態から航を救い出そうとする究極の再出発を意味しています。名前さえ思い出せなくても、魂がその人を「守るべき光」だと認識している。この矛盾こそが、銀河の理を覆す唯一の力となります。現実と虚構の境界が溶け出す雪の中で、二人の運命は今、真の「始まり」を迎えようとしています。
▼『銀河の郵便局』の深淵を聴く(物語を「完成」させるために) 単なるBGMではありません。これらは、紬が失った記憶の残響であり、航が数式に込めた祈りの結晶です。音楽という名のインクで綴られた、もう一つの物語を体験してください。
①『祝福の螺旋 ―Bleeding Blue―』 ――この瞬間の推奨曲。事故現場の静寂を切り裂く、紬の魂の絶唱。 激しく重厚なシンフォニック・サウンドが、紬の絶望と決意を象徴します。歌詞に刻まれた「Bleeding Blue(滴る青い血)」は、文字を綴るたびに魂が削られていく痛みの記録。美しさと暴力性が同居するこの旋律を聴くとき、あなたは紬と共に、銀河郵便局の重き扉を押し開けることになるでしょう。
②『Stardust Ink ― 神様にも消せない宛先 ―』 ――全てが零に帰る雪の中で、青白く輝く一文字。 疾走感溢れるリズムと、天を貫くような高潔なボーカルが、神(局長)の支配に抗う紬の「叛逆」を奏でます。宇宙の塵(Stardust)となって消えゆく記憶を、強引に言葉として定着させようとする切実な祈り。聴く者の胸を締め付けるサビの旋律は、時空を超えて航へと届く「光の道標」そのものです。
③『Inkwell of Galaxy -The Core Score-』 ――現実と銀河が交錯する不協和音と、心臓に迫る痣の鼓動。 局長が刻む銀時計の秒針、そして航が遺した死の数式……。それらが噛み合う不穏な胎動を、電子音と重低音が完璧に描き出します。物語の裏側でうごめく「宇宙の真理」を覗き込むような、没入型のスコア。この音を聴くとき、あなたは銀河の「インク壺(Inkwell)」の中に沈み、物語の真実へと加速します。
④『銀河の郵便局 (GALAXY POST)』 ――全てを燃やし尽くした先、静寂の中に灯る「再会」の主題歌。 19の文字を綴り終え、自己を消滅させた紬が辿り着いた、最終回答。温かくもどこか儚いメロディは、記憶を失ってもなお消えない「魂の筆跡」を祝福します。物語のグランドフィナーレを飾るこの曲の最後の一音を聴き終えたとき、あなたの心には、一通の「宛先のない手紙」が静かに届いているはずです。
音楽と共に、物語の真の結末へ。
これらの楽曲は、物語を彩る装飾ではなく、紬と航が命を懸けて奏でた「叫び」そのものです。 テキストを読み、音楽を聴き、二つの感覚が交差したとき――『真・銀河の郵便局』は、あなたの心の中で本当の「完成」を迎えます。
【物語とシンクロする公式リンク】
Music (Suno): https://suno.com/song/@108sund (※ここで全曲のフルバージョンを、物語の進行に合わせて聴くことができます)
TikTok: @108sund
X (Official): @108Sund
もし少しでも「零の中で誓いを立てる紬の魂」に触れることができたなら、【お気に入り登録】や【感想】、【ポイント投票】をいただけますと、彼女のペンを動かす大きな力になります。
【次回予告:第10話「インクの代償」】
紬の右腕を浸食する、禍々しい黒い痣。 それは代筆者が「言葉」そのものになって消滅する、逃れられぬ運命の前兆だった。 絶望する彼女の前に現れたのは、かつてこの場所で全てを失い、インクの海に沈んだ「もう一人の代筆者」、柊摩耶。
「その痣が心臓に届けば、あなたは二度と人間には戻れない。……私のようにね」
第10話:インクの代償 ――10文字目、それは破滅を告げる『痣』。
鼻を突くのは、焼けたゴムと漏れ出したガソリンの、むせ返るような死の匂い。 耳を劈(つんざ)くのは、降りしきる雪がアスファルトを叩く無機質な音と、遠くで泣き叫ぶように響く救急車のサイレン。
私は、冷たいコンクリートの上に這いつくばっていた。手のひらから伝わる凍えるような感触と、皮膚を刺す雪の鋭さ。それがここを、かつて綴った「記憶の再現」ではなく、逃げ場のない「現実」という名の戦場であることを突きつけてくる。
「……あ、……ぁ……」
声が、出ない。喉の奥に熱い鉄を流し込まれたように、呼吸をするたびに肺が焼ける。 顔を上げると、そこには無残にひっくり返った黒い車があった。粉々に砕け散ったフロントガラスが、街灯の鈍い光を反射して、まるで死神の鱗のように不気味に輝いている。片方だけ生き残ったヘッドライトが、虚しく空を照らし、降りしきる牡丹雪を白く、残酷なほど美しく浮き上がらせていた。
そして、その光の檻の中に。 雪の上に投げ出され、白い地を赤く染めながら、ピクリとも動かなくなっている一人の青年がいた。
胸の奥で、何かが致命的な音を立てて砕け散った。 理由はわからない。今の私には、彼と出会った日の雨の匂いも、初めて名前を呼ばれた時の震えも、彼を愛した全ての根源も、何一つ残っていない。あの銀河の深淵で、彼を救うための重りとして、天秤の皿にすべて投げ捨ててしまったからだ。 けれど、彼を見た瞬間、私の全身の細胞が、魂が、理屈を越えた悲鳴を上げた。 誰なの。この人は、誰なの。 私はなぜ、自分の命が削れることよりも、目の前のこの人が壊れていくことの方が耐えられないの。
「…………っ、……ああぁあ!」
私は震える足で、泥を舐めるようにして彼に歩み寄った。膝が割れ、指先が凍傷で痺れても構わなかった。彼の傍らに崩れ落ちるように膝をつき、その手を取った。 氷のように冷たかった。生命という名の灯火が、指先から一滴ずつ零れ落ちていくような、心許ない冷たさ。 けれど、微かに、本当に微かに、彼の指が私の手のひらの中で跳ねた。 彼は血の混じった雪を吐き出しながら、焦点の合わない瞳をゆっくりと、苦痛に耐えながら動かし、私を見た。
「……つ、む……ぎ……?」
私の名前。 作家としての矜持と共に、かつてインクに変えて差し出したはずの、私の名前。 彼はそれを呼んだ。宇宙で一番愛おしい宝物に触れるような、掠れた、けれど魂の底から絞り出したような優しい声で。 けれど、今の私には、その響きさえも知らない誰かの言葉のようにしか聞こえない。 彼が誰なのか。どんな夢を語り合い、どんな朝食を共に食べたのか。その記憶の欠片さえ、今の私の脳内には存在しない。 ただ、彼が私の名前を呼ぶたびに、空っぽになったはずの胸の空洞に、激痛という名の黒いインクが満ちていく。
「誰……? あなたは、誰なの……? 答えてよ……お願いだから!」
私の唇から零れたのは、彼にとって死よりも残酷な問いだった。 青年の瞳に、絶望よりも深い、凪のような静かな悲しみが宿る。彼は笑おうとした。血に濡れた唇を、寒さと痛みに震わせながら、自分を忘れ去った女のために、最期の力を振るい絞って微笑もうとした。
「……それで、いいんだ……。君が……僕を、忘れて……笑える未来に、届くなら……。僕の計算は、間違って……なかった……」
彼の言葉は、激しい咳と共に途切れた。口端から鮮血があふれ、雪の上に新しい、濃い紅の紋様を描く。 その瞬間、私の頭上に銀河郵便局の幻影が重なった。 降りしきる雪の中に、執行官・九条が立っている。彼は感情の欠落した瞳で、手元の懐中時計を見つめていた。局長の声が、凍てつく風に乗って、私の脳髄を直接揺さぶる。
『紬さん。これがあなたの望んだ現実の結末です。因果律の天秤は、無情にも彼を死の淵へと引き寄せようとしています。あなたが彼を愛した理由を捨てたことで、この世界における彼の存在意義を繋ぎ止める鎖は、今、完全に断たれた。彼の命は、間もなく零に帰すでしょう。』
零に、なる。 彼が生きた証が。私と重ねた手の温度が。彼という一人の人間が、幾千万の言葉を費やして紡いできた時間のすべてが。この雪の下で、誰にも愛されず、誰にも記憶されないまま、無価値な無へと還元される。 そんなこと、許されるはずがない。 名前が思い出せなくてもいい。恋をしたきっかけなんて、もういらない。 ただ、この人がここにいたことを、今この瞬間に私の指先が感じているこの命の震えだけは、神様にだって消させはしない。
「理由なんて……後から作ればいい! あなたが誰か分からなくても、私があなたを救いたいと思っている、この瞬間が新しい伏線になるんだから!」
私は、右手の万年筆を握りしめた。 ペンを握る指はすでに感覚を失い、死のインクが変質させた痣は、肘を越え、肩を舐め、私の心臓を喰らおうと脈打っている。 私は彼の血に濡れた胸元に、震える手で真っ白な便箋を押し当てた。いや、それは便箋などではない。私の残り少ない寿命そのもの、魂の最後の断片だった。
世界から、音が消えていく。 サイレンの音も、野次馬の騒ぎも、雪が降る音さえも、遠い宇宙の彼方へと遠ざかっていく。 全ての因果が、このペン先に一点集中し、そして重力さえも消失した純白の空洞へと落ちていく感覚。
私は、声にならない絶唱を、万年筆のペン先に込めた。
『零』
それは、過去のすべてを失った私の、終わりの始まり。 それは、失った愛に縋ることをやめ、何も持たない無のまま、今この瞬間の絶望をすべて引き受けるという、究極の受容。 思い出という過去ではなく、存在という現在を肯定するための、血を吐くような一文字。 文字が刻まれた瞬間、世界が反転した。 降りしきる雪が空中で静止し、重力から解き放たれたように上へと舞い上がる。青年の体から漏れ出していた血が、逆流するようにロイヤルブルーの輝きを帯び、彼の傷口を縫い合わせるように光り輝く。
「……叫んでも、届かないのなら。思い出が、零に帰るというのなら。私は、その零の中に、あなたをもう一度刻み直す。誰でもないあなたを、私はここからもう一度、愛してみせる!」
私は青年の胸に顔を埋めた。 冷たい雪の匂いと、鉄のような血の匂い。 記憶は何一つ戻らない。けれど、私の魂が叫んでいる。 この零から始まる物語こそが、彼が立てた死の計算を根底から覆し、神の定めた結末を塗りつぶす、唯一の生への叛逆なのだと。
背後で、九条が短く、けれど憐れむような溜め息をついた。 「……どこまでも無謀だな。代筆者。すべてを捨て、地獄の真っ只中で、なおもその男の存在を肯定するか。その先に待っているのは、救済ではなく、ただの消失だとしても」
私の意識が、再び銀河の闇へと引きずり込まれる。 雪の感触が消え、ガソリンの匂いが遠のく。気付けば私は再び銀河郵便局の、どこまでも続く回廊に立っていた。 右手の痣は、より深く、より黒く、不気味に脈動を刻んでいる。 それは心臓まであと数センチの場所まで迫り、私の肉体を言葉へと作り変えようとしていた。
「紬さん。一歩、踏み出しましたね」 局長が、闇の中から音もなく現れる。彼の銀時計は、再び時を刻み始めていた。 「しかし、代償は確実にあなたの身体を蝕んでいます。見てなさい。あなたの腕に広がる、その言葉の呪いを。それはあなたが人間を止め、ただの物語の部品になるまでのカウントダウンです」
私は、重くなった自分の右腕を見つめた。 そこには、インクが滲んだような、禍々しいあざが浮かび上がっていた。 それは彼を救うための救済の代償であり、私という存在が消滅する前兆。 私は、感覚を失いつつある指を強く握りしめた。 たとえこの腕が、この身体がすべてインクに変わったとしても。 あの雪の中で感じた、名もなき熱だけは、絶対に手放さない。
(第10話へ続く)
【第9話 あとがき】
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。 雪降る事故現場、記憶も名前も失った中で「存在」だけを肯定しようとする紬の魂を、極限まで濃縮して描き切りました。
文字『零』は、過去との決別、そして何もない無の状態から航を救い出そうとする究極の再出発を意味しています。名前さえ思い出せなくても、魂がその人を「守るべき光」だと認識している。この矛盾こそが、銀河の理を覆す唯一の力となります。現実と虚構の境界が溶け出す雪の中で、二人の運命は今、真の「始まり」を迎えようとしています。
▼『銀河の郵便局』の深淵を聴く(物語を「完成」させるために) 単なるBGMではありません。これらは、紬が失った記憶の残響であり、航が数式に込めた祈りの結晶です。音楽という名のインクで綴られた、もう一つの物語を体験してください。
①『祝福の螺旋 ―Bleeding Blue―』 ――この瞬間の推奨曲。事故現場の静寂を切り裂く、紬の魂の絶唱。 激しく重厚なシンフォニック・サウンドが、紬の絶望と決意を象徴します。歌詞に刻まれた「Bleeding Blue(滴る青い血)」は、文字を綴るたびに魂が削られていく痛みの記録。美しさと暴力性が同居するこの旋律を聴くとき、あなたは紬と共に、銀河郵便局の重き扉を押し開けることになるでしょう。
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③『Inkwell of Galaxy -The Core Score-』 ――現実と銀河が交錯する不協和音と、心臓に迫る痣の鼓動。 局長が刻む銀時計の秒針、そして航が遺した死の数式……。それらが噛み合う不穏な胎動を、電子音と重低音が完璧に描き出します。物語の裏側でうごめく「宇宙の真理」を覗き込むような、没入型のスコア。この音を聴くとき、あなたは銀河の「インク壺(Inkwell)」の中に沈み、物語の真実へと加速します。
④『銀河の郵便局 (GALAXY POST)』 ――全てを燃やし尽くした先、静寂の中に灯る「再会」の主題歌。 19の文字を綴り終え、自己を消滅させた紬が辿り着いた、最終回答。温かくもどこか儚いメロディは、記憶を失ってもなお消えない「魂の筆跡」を祝福します。物語のグランドフィナーレを飾るこの曲の最後の一音を聴き終えたとき、あなたの心には、一通の「宛先のない手紙」が静かに届いているはずです。
音楽と共に、物語の真の結末へ。
これらの楽曲は、物語を彩る装飾ではなく、紬と航が命を懸けて奏でた「叫び」そのものです。 テキストを読み、音楽を聴き、二つの感覚が交差したとき――『真・銀河の郵便局』は、あなたの心の中で本当の「完成」を迎えます。
【物語とシンクロする公式リンク】
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もし少しでも「零の中で誓いを立てる紬の魂」に触れることができたなら、【お気に入り登録】や【感想】、【ポイント投票】をいただけますと、彼女のペンを動かす大きな力になります。
【次回予告:第10話「インクの代償」】
紬の右腕を浸食する、禍々しい黒い痣。 それは代筆者が「言葉」そのものになって消滅する、逃れられぬ運命の前兆だった。 絶望する彼女の前に現れたのは、かつてこの場所で全てを失い、インクの海に沈んだ「もう一人の代筆者」、柊摩耶。
「その痣が心臓に届けば、あなたは二度と人間には戻れない。……私のようにね」
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