20 / 20
第20話(最終話):宛先のない手紙、再会の青
しおりを挟む
世界は、残酷なまでに穏やかだった。
三年前、銀河の果てで起きたあの「大崩壊」を、この青い星の誰も知らない。局長という名の神が支配していた、届かない手紙の墓標。何万、何億という代筆者たちの未練を吸い込んで肥大化した、青い大理石の伽藍。それが、一人の女性が自らの命を薪にして放った『輝』きによって粉々に打ち砕かれた瞬間、全宇宙の因果は書き換えられた。
かつて「紬」と呼ばれた女性は、今、海が見える坂道の途中で、小さな文房具店を営んでいる。店名は『銀河文具店』。なぜその名を付けたのか、彼女自身にもわからない。
彼女には、三年前以前の記憶が、霧に包まれたように欠落している。自分がどこで生まれ、どのような言葉を書き、誰を愛していたのか。医師からは、事故による脳へのダメージと精神的なショックが原因だと告げられたが、彼女の魂の深淵には、それだけでは説明のつかない、広大で、透き通るような「空白」が横たわっていた。
朝、波の音が聞こえる。紬は、磨き上げられた木のカウンターに立ち、並んだ万年筆を一本ずつ、丁寧に磨くのが日課だった。記憶はない。けれど、彼女の指先は、万年筆の重心を完璧に把握し、そのペン先が紙の上でどのように踊るべきかを知っていた。それは、知識ではなく、命に直接刻み込まれた「代筆者の本能」だった。
(私は、何かを待っている)
ふとした瞬間に、そう思う。棚に並んだインクボトルの深遠な青を見つめる時、あるいは、夕暮れ時の空が、かつての痣と同じロイヤルブルーに染まる時。彼女の胸は、千切れるような切なさと、言葉にできない期待で満たされる。自分という「器」は、かつて何かで満たされていた。そして、それをすべて、誰かのために「使い果たした」のだという、確信に近い予感だけがあった。
初夏の強い日差しが、店内に並ぶガラスのインク瓶に反射して、床に美しい光の幾何学模様を描いていた。カラン、と乾いたドアベルの音が響く。
「いらっしゃいませ」
紬は、いつものように穏やかな、どこか寂しげな微笑みを浮かべて振り返った。そこに立っていたのは、一人の青年だった。その瞬間、店内の空気が、凍りついたように止まった。
青年は、少し寝癖のついた髪を気にすることもなく、深い、数学の証明式を解き続けるような鋭さと、すべてを包み込むような優しさが同居した瞳で、じっと彼女を見つめていた。彼の背後には、キラキラと輝く海が見える。その光景があまりにも美しく、そしてあまりにも「既視感」に満ちていて、紬は呼吸を忘れた。
「……何か、お探しですか?」
声を出すのが精一杯だった。青年は、少しだけ戸惑ったように笑った。
「青いインクを、探しているんです。……普通の青じゃなくて、もっと深くて、暗闇の中で自ら光を放つような……そんな青を」
紬の指先が、カウンターの下で激しく震えた。彼女は、無意識のうちに一番奥の棚へ手を伸ばした。そこには、一本のインクボトルがあった。ラベルさえ貼られていない、透明なガラス瓶。その中には、かつて銀河を焼き尽くし、因果を断ち切った、あの究極の『輝』きの残滓が、ロイヤルブルーの液体となって揺れている。
「……これ、ですか」
差し出したボトルを、青年が受け取る。指と指が、触れ合う。その刹那。 ――脳内で、轟音が鳴り響いた。
白雪の中の事故。青い血が滴る万年筆。天文台の冷たい空気。「愛」と書き記した時の指先の震え。「算」じられた自己犠牲の真実。「断」ち切られた局長の執着。そして。崩壊する銀河の果てで、私を抱きしめた、あの温かな光。
(……あ…………あああ…………)
視界が、一瞬で歪んだ。ダムが決壊するように、彼女の目から、三年間溜め込み続けてきた透明な雫が、次から次へと溢れ出した。記憶が戻ったのではない。記憶という「情報の集積」を超えて、魂が、目の前にいる存在を「私のすべて」だと叫んでいた。
青年もまた、震えていた。彼の目からも、とめどなく涙がこぼれ、カウンターの木目を濡らしていく。彼は数学者だった。藤代航という、かつて死ぬはずだった男。紬がその存在をかけて「生」へと書き戻した、最愛の変数。
「……見つけた」
青年が、かすれた声で呟いた。彼女が紡いできた文字たちが、二人の周囲でオーロラのように光り輝く。二十文字目。それは、ただの再会ではない。一度は宇宙から完全に消え去った二つの孤独が、自らの意志で、再び同じ時を刻むことを選んだという、命の宣誓。
『逢』
「航……くん。……藤代、航くん」
名前を呼ぶ。世界で一番、綴りたかった名前。
「……はい。……紬さん」
青年が、彼女の手を握った。今度は、インクの痣となって彼を蝕むためではなく、ただの温もりとして。銀河文具店の外では、三年前と変わらない、けれど全く新しい風が吹き抜けていた。
一通の手紙があった。それは、銀河郵便局が消滅する瞬間、紬が最後の一滴の命を絞り出して投函した、宛先のない手紙。その手紙は、宇宙をさまよい、時間を遡り、今、この瞬間に届いた。
手紙の内容は、たった一行。 『私がいなくなっても、あなたが、あなたを愛せますように』
けれど、その手紙を受け取った航は、ペンを手に取り、その下に新しい言葉を書き足した。 『君がいるから、僕は、僕が生きる世界を愛せるんだ』
銀河の郵便局は、もうどこにもない。けれど、誰かが誰かを想って綴る文字の中に、あの青い耀きは永遠に宿り続ける。
小さな文房具店。並んで歩く、二人の影。波の音。 物語は、ここで終わりではない。これは、世界で一番不器用な、けれど世界で一番美しい「愛の話」の、始まりに過ぎないのだから。
完結の挨拶:あなたという「最後の手紙」へ
全20話、紬と航の物語を最後まで読み届けてくださり、本当に、本当にありがとうございました。
作家である紬が、自らの記憶という「インク」を使い果たしてまで守り抜きたかったもの。それは、過去への執着ではなく、誰かと共に生きる「明日」という名の真っ白な原稿用紙でした。
この物語を読んでくださったあなたも、もしかしたら、誰にも言えない喪失や、届かなかった言葉を胸に秘めているかもしれません。けれど、忘れないでください。紬が証明したように、たとえ形は変わっても、あなたが誰かを想ったという事実は、宇宙の因果さえも書き換える力を持っているということを。
この物語を閉じた後、ふと夜空を見上げたり、青いインクの万年筆を手に取ったりしたとき、あなたの心に小さな「耀き」が宿るなら、代筆者としての私の旅も、報われたのだと感じます。
終わりは、すべての始まり。 紬と航の物語は完結しましたが、あなたの人生という物語は、これからも新しいページが続いていきます。
どうか、その筆先が、あなた自身の幸福を綴るものでありますように。 最高の感動と、心からの感謝を込めて。
――真・銀河の郵便局 これにて閉局。
(完)
三年前、銀河の果てで起きたあの「大崩壊」を、この青い星の誰も知らない。局長という名の神が支配していた、届かない手紙の墓標。何万、何億という代筆者たちの未練を吸い込んで肥大化した、青い大理石の伽藍。それが、一人の女性が自らの命を薪にして放った『輝』きによって粉々に打ち砕かれた瞬間、全宇宙の因果は書き換えられた。
かつて「紬」と呼ばれた女性は、今、海が見える坂道の途中で、小さな文房具店を営んでいる。店名は『銀河文具店』。なぜその名を付けたのか、彼女自身にもわからない。
彼女には、三年前以前の記憶が、霧に包まれたように欠落している。自分がどこで生まれ、どのような言葉を書き、誰を愛していたのか。医師からは、事故による脳へのダメージと精神的なショックが原因だと告げられたが、彼女の魂の深淵には、それだけでは説明のつかない、広大で、透き通るような「空白」が横たわっていた。
朝、波の音が聞こえる。紬は、磨き上げられた木のカウンターに立ち、並んだ万年筆を一本ずつ、丁寧に磨くのが日課だった。記憶はない。けれど、彼女の指先は、万年筆の重心を完璧に把握し、そのペン先が紙の上でどのように踊るべきかを知っていた。それは、知識ではなく、命に直接刻み込まれた「代筆者の本能」だった。
(私は、何かを待っている)
ふとした瞬間に、そう思う。棚に並んだインクボトルの深遠な青を見つめる時、あるいは、夕暮れ時の空が、かつての痣と同じロイヤルブルーに染まる時。彼女の胸は、千切れるような切なさと、言葉にできない期待で満たされる。自分という「器」は、かつて何かで満たされていた。そして、それをすべて、誰かのために「使い果たした」のだという、確信に近い予感だけがあった。
初夏の強い日差しが、店内に並ぶガラスのインク瓶に反射して、床に美しい光の幾何学模様を描いていた。カラン、と乾いたドアベルの音が響く。
「いらっしゃいませ」
紬は、いつものように穏やかな、どこか寂しげな微笑みを浮かべて振り返った。そこに立っていたのは、一人の青年だった。その瞬間、店内の空気が、凍りついたように止まった。
青年は、少し寝癖のついた髪を気にすることもなく、深い、数学の証明式を解き続けるような鋭さと、すべてを包み込むような優しさが同居した瞳で、じっと彼女を見つめていた。彼の背後には、キラキラと輝く海が見える。その光景があまりにも美しく、そしてあまりにも「既視感」に満ちていて、紬は呼吸を忘れた。
「……何か、お探しですか?」
声を出すのが精一杯だった。青年は、少しだけ戸惑ったように笑った。
「青いインクを、探しているんです。……普通の青じゃなくて、もっと深くて、暗闇の中で自ら光を放つような……そんな青を」
紬の指先が、カウンターの下で激しく震えた。彼女は、無意識のうちに一番奥の棚へ手を伸ばした。そこには、一本のインクボトルがあった。ラベルさえ貼られていない、透明なガラス瓶。その中には、かつて銀河を焼き尽くし、因果を断ち切った、あの究極の『輝』きの残滓が、ロイヤルブルーの液体となって揺れている。
「……これ、ですか」
差し出したボトルを、青年が受け取る。指と指が、触れ合う。その刹那。 ――脳内で、轟音が鳴り響いた。
白雪の中の事故。青い血が滴る万年筆。天文台の冷たい空気。「愛」と書き記した時の指先の震え。「算」じられた自己犠牲の真実。「断」ち切られた局長の執着。そして。崩壊する銀河の果てで、私を抱きしめた、あの温かな光。
(……あ…………あああ…………)
視界が、一瞬で歪んだ。ダムが決壊するように、彼女の目から、三年間溜め込み続けてきた透明な雫が、次から次へと溢れ出した。記憶が戻ったのではない。記憶という「情報の集積」を超えて、魂が、目の前にいる存在を「私のすべて」だと叫んでいた。
青年もまた、震えていた。彼の目からも、とめどなく涙がこぼれ、カウンターの木目を濡らしていく。彼は数学者だった。藤代航という、かつて死ぬはずだった男。紬がその存在をかけて「生」へと書き戻した、最愛の変数。
「……見つけた」
青年が、かすれた声で呟いた。彼女が紡いできた文字たちが、二人の周囲でオーロラのように光り輝く。二十文字目。それは、ただの再会ではない。一度は宇宙から完全に消え去った二つの孤独が、自らの意志で、再び同じ時を刻むことを選んだという、命の宣誓。
『逢』
「航……くん。……藤代、航くん」
名前を呼ぶ。世界で一番、綴りたかった名前。
「……はい。……紬さん」
青年が、彼女の手を握った。今度は、インクの痣となって彼を蝕むためではなく、ただの温もりとして。銀河文具店の外では、三年前と変わらない、けれど全く新しい風が吹き抜けていた。
一通の手紙があった。それは、銀河郵便局が消滅する瞬間、紬が最後の一滴の命を絞り出して投函した、宛先のない手紙。その手紙は、宇宙をさまよい、時間を遡り、今、この瞬間に届いた。
手紙の内容は、たった一行。 『私がいなくなっても、あなたが、あなたを愛せますように』
けれど、その手紙を受け取った航は、ペンを手に取り、その下に新しい言葉を書き足した。 『君がいるから、僕は、僕が生きる世界を愛せるんだ』
銀河の郵便局は、もうどこにもない。けれど、誰かが誰かを想って綴る文字の中に、あの青い耀きは永遠に宿り続ける。
小さな文房具店。並んで歩く、二人の影。波の音。 物語は、ここで終わりではない。これは、世界で一番不器用な、けれど世界で一番美しい「愛の話」の、始まりに過ぎないのだから。
完結の挨拶:あなたという「最後の手紙」へ
全20話、紬と航の物語を最後まで読み届けてくださり、本当に、本当にありがとうございました。
作家である紬が、自らの記憶という「インク」を使い果たしてまで守り抜きたかったもの。それは、過去への執着ではなく、誰かと共に生きる「明日」という名の真っ白な原稿用紙でした。
この物語を読んでくださったあなたも、もしかしたら、誰にも言えない喪失や、届かなかった言葉を胸に秘めているかもしれません。けれど、忘れないでください。紬が証明したように、たとえ形は変わっても、あなたが誰かを想ったという事実は、宇宙の因果さえも書き換える力を持っているということを。
この物語を閉じた後、ふと夜空を見上げたり、青いインクの万年筆を手に取ったりしたとき、あなたの心に小さな「耀き」が宿るなら、代筆者としての私の旅も、報われたのだと感じます。
終わりは、すべての始まり。 紬と航の物語は完結しましたが、あなたの人生という物語は、これからも新しいページが続いていきます。
どうか、その筆先が、あなた自身の幸福を綴るものでありますように。 最高の感動と、心からの感謝を込めて。
――真・銀河の郵便局 これにて閉局。
(完)
1
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
嘘をつく唇に優しいキスを
松本ユミ
恋愛
いつだって私は本音を隠して嘘をつくーーー。
桜井麻里奈は優しい同期の新庄湊に恋をした。
だけど、湊には学生時代から付き合っている彼女がいることを知りショックを受ける。
麻里奈はこの恋心が叶わないなら自分の気持ちに嘘をつくからせめて同期として隣で笑い合うことだけは許してほしいと密かに思っていた。
そんなある日、湊が『結婚する』という話を聞いてしまい……。
一条さん結婚したんですか⁉︎
あさとよる
恋愛
みんなの憧れハイスペックエリートサラリーマン『一条 美郷(※超イケメン)』が、結婚してしまった⁉︎
嫁ラブの旦那様と毒舌地味嫁(花ちゃん)....とっ!その他大勢でお送りしますっ♡
((残念なイケメンの一途過ぎる溺愛♡))のはじまりはじまり〜
⭐︎本編は完結しております⭐︎
⭐︎番外編更新中⭐︎
今さらやり直しは出来ません
mock
恋愛
3年付き合った斉藤翔平からプロポーズを受けれるかもと心弾ませた小泉彩だったが、当日仕事でどうしても行けないと断りのメールが入り意気消沈してしまう。
落胆しつつ帰る道中、送り主である彼が見知らぬ女性と歩く姿を目撃し、いてもたってもいられず後を追うと二人はさっきまで自身が待っていたホテルへと入っていく。
そんなある日、夢に出てきた高木健人との再会を果たした彩の運命は少しずつ変わっていき……
借りてきたカレ
しじましろ
恋愛
都合の良い存在であるはずのレンタル彼氏に振り回されて……
あらすじ
システムエンジニアの萩野みさをは、仕事中毒でゾンビのような見た目になるほど働いている。
人の良さにつけ込まれ、面倒な仕事を押しつけられたり、必要のない物を買わされたり、損ばかりしているが、本人は好きでやっていることとあまり気にしていない。
人並みに結婚願望はあるものの、三十歳過ぎても男性経験はゼロ。
しかし、レンタル彼氏・キキとの出会いが、そんな色の無いみさをの日常を大きく変えていく。
基本的にはカラッと明るいラブコメですが、生き馬の目を抜くIT企業のお仕事ものでもあるので、癖のあるサブキャラや意外な展開もお楽しみください!
雪の日に
藤谷 郁
恋愛
私には許嫁がいる。
親同士の約束で、生まれる前から決まっていた結婚相手。
大学卒業を控えた冬。
私は彼に会うため、雪の金沢へと旅立つ――
※作品の初出は2014年(平成26年)。鉄道・駅などの描写は当時のものです。
すべてはあなたの為だった~狂愛~
矢野りと
恋愛
膨大な魔力を有する魔術師アレクサンダーは政略結婚で娶った妻をいつしか愛するようになっていた。だが三年経っても子に恵まれない夫妻に周りは離縁するようにと圧力を掛けてくる。
愛しているのは君だけ…。
大切なのも君だけ…。
『何があってもどんなことをしても君だけは離さない』
※設定はゆるいです。
※お話が合わないときは、そっと閉じてくださいませ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる