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1.冬の曇天の下、主人公は……現れない
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竹で出来た柵の間を、ぴゅうぴゅうと北風が抜けていく。曇天を見上げていた法助は目線を戻し、思わず己自身の腕を抱いた。御遺体の見張りを始めてから、かれこれ四半刻が過ぎようとしている。
「うー、さむっ。今の季節、物が腐りにくいのはいいが、やはり冷えるのは堪えるなあ。……あー、来た来た。やっと――あれ?」
柵の向こうに岡っ引き仲間の多吉の姿を認め、法助は一度は頬を緩めた。が、その隣を歩く同心の顔に見覚えがない。無意識のうちにだろう、当てが外れた思いを表情に出していた。まあ無理もない。初顔の同心と来ては不安に感じてもやむを得まい。
「ご苦労。そちらが法助だな」
同じ奉行所の同心として、急遽駆り出された高岩嘉右衛門は、特に気を悪くした風でもなしに、まずは確認から入った。
「へ、そうで。堀馬の旦那と懇意にさせてもらってます。今日も当然、堀馬さんが来てくれるもんだとばかり思ってたんで、びっくりしましたよ」
言葉遣いを急いで直したのが丸分かりの口ぶりで、法助は答えた。暑くないだろうに、額に汗が浮かび始めている。
「知らせてくれた遣いの者も、似たような反応をしていたな。堀馬は昨日からちょっと熱が出たとかでな。しばらく休みよ」
「そうでしたか。あとで見舞いに行かないと。何を持っていけばいいのやら……あ、いや、今はそれよりこちらの仏さんのことが先でした。ええっと、高岩の旦那とお呼びしても?」
遺体のある家屋――空き家の方へと足を向けたところで立ち止まり、法助は聞いた。
「何でも構わん。普段、堀馬を呼ぶときに倣って普通にすればよい」
「じゃ、高岩の旦那。最初に聞きにくいことを聞きますが、堀馬さんと同じことができるので?」
「心配いらん。経験が乏しいのは認めるが、死体に恐れをなすことはないぞ。さ、早う案内を」
「慣れ不慣れじゃなく、その、検屍の腕前は……」
「まだ心配するか。虎の巻を持って来た。おおよその内容は頭に入っているが、念のためにな」
高岩は言いながら、付き従う多吉に目で合図を送った。多吉は奉行所に知らせに行ったあと折り返し、検屍のための道具などを持って同行したものである。法助と違って、高岩と初対面ではないようだが、それでも緊張しているのが見て取れる。というのも、目配せを受け取っても、何をどうしていいのやら途方に暮れているからだ。
「出してくれ、中に入っている書を」
「あっ、そういうことでしたか」
具体的に指示されると早い。多吉は袋を解き、中から一冊の書を取り出す。題は『無冤録述』とある。中国は宋の時代にまとめられたいわゆる法医学の指南書であり、元は『洗冤録』として知られるが、数年前、日本に入ってきたときに『無冤録述』の名が付いた。刊行された当初はこれを必要とする“専門家”が重宝するばかりであったのだが、何がきっかけになったのやら今では廉価で平易な海賊版が庶民の間に出回るくらい、人気の本となっている。
「医者に聞いたところでは、この『無冤録述』に書かれた検屍のやり方は、蘭学よりもなお先を進んでいるそうだ。これさえあれば、死体の一つや二つ」
「一つで充分でさあ。お話は分かりました。早いとこ検屍をお願いします」
「うー、さむっ。今の季節、物が腐りにくいのはいいが、やはり冷えるのは堪えるなあ。……あー、来た来た。やっと――あれ?」
柵の向こうに岡っ引き仲間の多吉の姿を認め、法助は一度は頬を緩めた。が、その隣を歩く同心の顔に見覚えがない。無意識のうちにだろう、当てが外れた思いを表情に出していた。まあ無理もない。初顔の同心と来ては不安に感じてもやむを得まい。
「ご苦労。そちらが法助だな」
同じ奉行所の同心として、急遽駆り出された高岩嘉右衛門は、特に気を悪くした風でもなしに、まずは確認から入った。
「へ、そうで。堀馬の旦那と懇意にさせてもらってます。今日も当然、堀馬さんが来てくれるもんだとばかり思ってたんで、びっくりしましたよ」
言葉遣いを急いで直したのが丸分かりの口ぶりで、法助は答えた。暑くないだろうに、額に汗が浮かび始めている。
「知らせてくれた遣いの者も、似たような反応をしていたな。堀馬は昨日からちょっと熱が出たとかでな。しばらく休みよ」
「そうでしたか。あとで見舞いに行かないと。何を持っていけばいいのやら……あ、いや、今はそれよりこちらの仏さんのことが先でした。ええっと、高岩の旦那とお呼びしても?」
遺体のある家屋――空き家の方へと足を向けたところで立ち止まり、法助は聞いた。
「何でも構わん。普段、堀馬を呼ぶときに倣って普通にすればよい」
「じゃ、高岩の旦那。最初に聞きにくいことを聞きますが、堀馬さんと同じことができるので?」
「心配いらん。経験が乏しいのは認めるが、死体に恐れをなすことはないぞ。さ、早う案内を」
「慣れ不慣れじゃなく、その、検屍の腕前は……」
「まだ心配するか。虎の巻を持って来た。おおよその内容は頭に入っているが、念のためにな」
高岩は言いながら、付き従う多吉に目で合図を送った。多吉は奉行所に知らせに行ったあと折り返し、検屍のための道具などを持って同行したものである。法助と違って、高岩と初対面ではないようだが、それでも緊張しているのが見て取れる。というのも、目配せを受け取っても、何をどうしていいのやら途方に暮れているからだ。
「出してくれ、中に入っている書を」
「あっ、そういうことでしたか」
具体的に指示されると早い。多吉は袋を解き、中から一冊の書を取り出す。題は『無冤録述』とある。中国は宋の時代にまとめられたいわゆる法医学の指南書であり、元は『洗冤録』として知られるが、数年前、日本に入ってきたときに『無冤録述』の名が付いた。刊行された当初はこれを必要とする“専門家”が重宝するばかりであったのだが、何がきっかけになったのやら今では廉価で平易な海賊版が庶民の間に出回るくらい、人気の本となっている。
「医者に聞いたところでは、この『無冤録述』に書かれた検屍のやり方は、蘭学よりもなお先を進んでいるそうだ。これさえあれば、死体の一つや二つ」
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