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32.ある噂
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「いや、そんなことはないですよ。多少はどきっとした。ただし、驚いたのよりも、嬉しさの方が勝ったことによる感情の動きだったと思う」
「そんなに嬉しいですか、私が採用されていて?」
「エンドールさんは優秀だと分かっていたから、そういう人と一緒に仕事ができるのは頼もしい」
「なーんだ、そういうニュアンスだったんですね」
もちろん彼女に本気でがっかりした様子はなく、さばさばとして言ってのけると、「今日の仕事が終わったら、飲みに行きませんか」と誘ってきた。
「歓迎会はないみたいですからね。少なくともここ当分の間は。現に依頼案件を抱えていらっしゃる諸先輩がおられるのに加え、カラバン探偵が完治していない現状では難しいでしょう」
「うーん、どうかな。前者の理由はともかく、後者の、カラバン探偵の体調は関係ないんじゃないだろうか。そういうことで回りに迷惑が及ぶのを嫌う人だと、噂に聞いたよ」
「分かります、いかにも名探偵タイタス・カラバンです。あぁ、早くお目に掛かって、意気込みを見てもらいたいな。そしていつの日か、ご指導を」
「そういえば、近い内に、カラバンさんへご挨拶をする場を用意してもらえるそうだよ。ほんの少し前に、ギップスさんがモガラさんと話していた」
「願ってもない機会です! と言いたいところですが、ひょっとしてそれはお見舞いということなんじゃあ……」
「僕がここに入る前に聞いた噂では、リハビリが非常に長く続いていると聞いたから、普通の病院ではないかもしれないなあ」
「普通の病院以外でリハビリ……療養施設的な?」
「まったくの想像だけどね。名探偵がいるとなったらカラバン氏のみならず、他の患者や病院関係者にまで害が及ぶ危険性があるから、当然、病院名や担当医師などの詳細は公にされて来なかったんだし」
「お詳しいんですね」
「いやいや、だから想像に過ぎないって」
苦笑を浮かべ、顔の前で手を振った。本当のところを言うと、ハンソンとして裁判を受けている期間に、カラバン探偵がどうされているかについては、事務所の同僚からいくらか聞かされていた。ただし、その大半がモガラを通じての情報だったのは注意を要する点かもしれない。尤も、モガラからすれば僕を陥れてどんなにましな刑でも一生牢獄に閉じ込めるつもりだったろうから、カラバン探偵の症状に関しては案外、正確なところを言っていたかもしれない。
まだ務め始めて初日だから様子見の段階だけれども、いずれ確認するつもりでいる。近い内に挨拶できるのなら、まさしく願ったり叶ったりだ。
「そういえば、私が聞いた噂には、別の話もありました」
「え? どんな話だろう、気になるな」
「知っていたら途中で遮ってくださいね。休憩時間も余り残っていませんし、なるべくかいつまんで言うと――」
エンドールが声を潜める。極端に小さなボリュームだから、僕は耳をそばだてることになった。
「カラバン探偵は実はすでに回復しているが、故あって世間的には伏せている。体調がよくないふりをして、悪党連中や犯罪組織を油断させ、一網打尽にする狙いがあるのだ。その証拠に、カラバン探偵が実務から外れて長くなるのに、カラバン探偵事務所の実績はほとんど落ちていない――ということなんですけど、どう思います?」
声量をいきなり戻すエンドール嬢。僕は思わず顔をしかめた。
「そうだね。興味深い仮説であることは認める。ただ、その根拠がこの事務所の上げる成果が、カラバン探偵がいるときとほぼ同じだからというのは、いささか弱いよ。諸先輩方に失礼な話だし」
「ですよね。なので私も小声で言ったんです。反面、皆さんに対して失礼だ!と言っちゃうと、カラバン探偵の能力を低く見積もることになるような気がして……二律背反です」
「ははは、大げさだねえ。さ、そろそろ戻らないといけない」
軽い調子で笑い声を立てて、とりあえずこの話題は切り上げる意思を示す。時間もないことだし、分かってくれるだろう。
「もう一つだけ、教えてくれませんか。フランゴさんはこの噂をちらっとでも前に聞いたことはなかったかどうか」
「なかったなあ。君はいつ、どこで、誰から聞いたの?」
この質問返しはあまりよくないなと思いつつも、つい聞いてしまった。
「カラバン探偵が負傷したと報じられてから……ひと月後ぐらいだったかな? 学生時代の友達が、わざわざ知らせてくれたんです。私の将来の希望の一つが探偵だって知っていたから。場所は喫茶店かどこかだったと思いますけど、はっきりとは」
「ふうん。ひと月後なら、まだカラバンさん抜きの探偵事務所の業績がどうこう言えるほどじゃないな。友達は何か他に根拠を持っていた?」
「……いいえ。業績の話は、最近になってからゴシップ誌に載っていたのを私が見ただけです」
「じゃあ、ひとまず忘れることだね」
僕は安堵し、そんな助言をした。
「君の言う噂が万が一、真実だったとしたら、噂をあおり立てることでカラバンさんの作戦に支障を来すかもしれない。かといって、あからさまに全面否定すると、萎縮していた犯罪者が再び活発に動き出す恐れがある。僕らは知らぬふりを決め込むのが最適だと思うよ」
「……ですね。ということは、先輩にも聞かない方がよさそうですね」
強くうなずくエンドール嬢だった。
「そんなに嬉しいですか、私が採用されていて?」
「エンドールさんは優秀だと分かっていたから、そういう人と一緒に仕事ができるのは頼もしい」
「なーんだ、そういうニュアンスだったんですね」
もちろん彼女に本気でがっかりした様子はなく、さばさばとして言ってのけると、「今日の仕事が終わったら、飲みに行きませんか」と誘ってきた。
「歓迎会はないみたいですからね。少なくともここ当分の間は。現に依頼案件を抱えていらっしゃる諸先輩がおられるのに加え、カラバン探偵が完治していない現状では難しいでしょう」
「うーん、どうかな。前者の理由はともかく、後者の、カラバン探偵の体調は関係ないんじゃないだろうか。そういうことで回りに迷惑が及ぶのを嫌う人だと、噂に聞いたよ」
「分かります、いかにも名探偵タイタス・カラバンです。あぁ、早くお目に掛かって、意気込みを見てもらいたいな。そしていつの日か、ご指導を」
「そういえば、近い内に、カラバンさんへご挨拶をする場を用意してもらえるそうだよ。ほんの少し前に、ギップスさんがモガラさんと話していた」
「願ってもない機会です! と言いたいところですが、ひょっとしてそれはお見舞いということなんじゃあ……」
「僕がここに入る前に聞いた噂では、リハビリが非常に長く続いていると聞いたから、普通の病院ではないかもしれないなあ」
「普通の病院以外でリハビリ……療養施設的な?」
「まったくの想像だけどね。名探偵がいるとなったらカラバン氏のみならず、他の患者や病院関係者にまで害が及ぶ危険性があるから、当然、病院名や担当医師などの詳細は公にされて来なかったんだし」
「お詳しいんですね」
「いやいや、だから想像に過ぎないって」
苦笑を浮かべ、顔の前で手を振った。本当のところを言うと、ハンソンとして裁判を受けている期間に、カラバン探偵がどうされているかについては、事務所の同僚からいくらか聞かされていた。ただし、その大半がモガラを通じての情報だったのは注意を要する点かもしれない。尤も、モガラからすれば僕を陥れてどんなにましな刑でも一生牢獄に閉じ込めるつもりだったろうから、カラバン探偵の症状に関しては案外、正確なところを言っていたかもしれない。
まだ務め始めて初日だから様子見の段階だけれども、いずれ確認するつもりでいる。近い内に挨拶できるのなら、まさしく願ったり叶ったりだ。
「そういえば、私が聞いた噂には、別の話もありました」
「え? どんな話だろう、気になるな」
「知っていたら途中で遮ってくださいね。休憩時間も余り残っていませんし、なるべくかいつまんで言うと――」
エンドールが声を潜める。極端に小さなボリュームだから、僕は耳をそばだてることになった。
「カラバン探偵は実はすでに回復しているが、故あって世間的には伏せている。体調がよくないふりをして、悪党連中や犯罪組織を油断させ、一網打尽にする狙いがあるのだ。その証拠に、カラバン探偵が実務から外れて長くなるのに、カラバン探偵事務所の実績はほとんど落ちていない――ということなんですけど、どう思います?」
声量をいきなり戻すエンドール嬢。僕は思わず顔をしかめた。
「そうだね。興味深い仮説であることは認める。ただ、その根拠がこの事務所の上げる成果が、カラバン探偵がいるときとほぼ同じだからというのは、いささか弱いよ。諸先輩方に失礼な話だし」
「ですよね。なので私も小声で言ったんです。反面、皆さんに対して失礼だ!と言っちゃうと、カラバン探偵の能力を低く見積もることになるような気がして……二律背反です」
「ははは、大げさだねえ。さ、そろそろ戻らないといけない」
軽い調子で笑い声を立てて、とりあえずこの話題は切り上げる意思を示す。時間もないことだし、分かってくれるだろう。
「もう一つだけ、教えてくれませんか。フランゴさんはこの噂をちらっとでも前に聞いたことはなかったかどうか」
「なかったなあ。君はいつ、どこで、誰から聞いたの?」
この質問返しはあまりよくないなと思いつつも、つい聞いてしまった。
「カラバン探偵が負傷したと報じられてから……ひと月後ぐらいだったかな? 学生時代の友達が、わざわざ知らせてくれたんです。私の将来の希望の一つが探偵だって知っていたから。場所は喫茶店かどこかだったと思いますけど、はっきりとは」
「ふうん。ひと月後なら、まだカラバンさん抜きの探偵事務所の業績がどうこう言えるほどじゃないな。友達は何か他に根拠を持っていた?」
「……いいえ。業績の話は、最近になってからゴシップ誌に載っていたのを私が見ただけです」
「じゃあ、ひとまず忘れることだね」
僕は安堵し、そんな助言をした。
「君の言う噂が万が一、真実だったとしたら、噂をあおり立てることでカラバンさんの作戦に支障を来すかもしれない。かといって、あからさまに全面否定すると、萎縮していた犯罪者が再び活発に動き出す恐れがある。僕らは知らぬふりを決め込むのが最適だと思うよ」
「……ですね。ということは、先輩にも聞かない方がよさそうですね」
強くうなずくエンドール嬢だった。
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