1 / 19
忘れ物
しおりを挟む
私、秋上由子は一目惚れをしたことがない。ついでに言っておくと、されたこともない。
だから一目惚れのときに湧き起こる感情がどんなものなのか分かっていないのだが。
そんな私でも、“彼”に対するこの気持ちが一目惚れではないことくらい、理解できている。
一言で簡単に表すとすれば、気になる人、だった。
お店が賑わっているときも、閑散としているときも、同じような存在感で――あるいは存在感の無さで、彼はそこにいる。
長年の常連さんではない。初めて来られたのが五月の半ばだったと記憶しているから、まだ三週間ほど。毎日ではないし、曜日が決まっている訳でもない。それでも平均で週に二回か三回は足を運ばれているように思う。
身長は百七十センチほど。細身だけど、意外に力はありそう。お会計の際に近くで見られる袖から先の手は、とてもがっちりしているから。大人しそうな外見、穏やかな表情で二十歳過ぎぐらいの学生さんに見えるものの、あまりに落ち着きがあって年齢不詳のイメージも強い。
「店長~。あの人、また忘れ物みたいですよ」
客足が途切れ、店内にもカップルが一組だけになったとき、アルバイトの渡辺さんが知らせてくれた。
「あの人って?」
「例の歳なんだか若いんだか分からない男性です。今日、初めて丸眼鏡を掛けてるなあって思ってたんですけど、忘れて行ってます」
「丸眼鏡」
おうむ返しの呟きが、不思議そうな調子を帯びてしまった。私は、“気になる人”と言いながら、その男性が本日、丸眼鏡を掛けていたことに気付かなかった。
その小さなショックが顔に出ていたのか、渡辺さんが付け足して言った。
「本を読み始めると同時に、取り出して掛けたんですよ。ほら、あんなに薄くて鈍い銀色だったから、気付かなくても無理ないです」
彼女はテーブルを指差したけど、カウンターから一番遠い奥の席であり、はっきりとは見えない。
「とりあえず、保管しておきましょう」
アルバイトに任せて何かあったらことだから、店長の責任で私自ら保管に向かう。
テーブルの端、壁に着きそうな位置に丸眼鏡はあった。フレームは畳まれていないから、一度外してまた掛けるつもりだったがやめてしまった、という風に見える。
前はマスクだったなと思い起こす。初めて来られたときに、いきなり忘れ物をされていったのだが、そのときは極普通の白くて長方形の布マスクだった。すぐに気付いて追い掛けて、無事に渡すことができたのだけれど、走って追い掛けた私ばかりが息を切らして、やや興奮気味に「間に合ってよかったです」とか何とか言ったのだけれど、相手は「ああ、どうもすみません。忘れてしまった」とって、淡々とマスクを受け取った。
その温度差が一瞬、あのお客さんに悪い印象を抱きかけたのだけれど、直後に彼の見せたほんの少しの笑みが、全てを許した。彼はマスクを掛けながらだったので、その隙間からちょっと覗けただけだったけれど、えくぼができたんじゃないかと思えるくらいに男性にしてはかわいらしい笑みだった。
今になって思えば、その次に来たときに、マスクのことにかこつけて、お声がけしていればよかったかも。
男性の何を知りたいってわけでなく、でも何だか気になる存在。
丸眼鏡を持って、カウンターの内側に引っ込み、何か適切な容れ物はないかしらと思案していると、ふと、眼鏡のフレームに意識が行った。
mitsuko-misawa
細い筆記体でそう彫られていた。
だから一目惚れのときに湧き起こる感情がどんなものなのか分かっていないのだが。
そんな私でも、“彼”に対するこの気持ちが一目惚れではないことくらい、理解できている。
一言で簡単に表すとすれば、気になる人、だった。
お店が賑わっているときも、閑散としているときも、同じような存在感で――あるいは存在感の無さで、彼はそこにいる。
長年の常連さんではない。初めて来られたのが五月の半ばだったと記憶しているから、まだ三週間ほど。毎日ではないし、曜日が決まっている訳でもない。それでも平均で週に二回か三回は足を運ばれているように思う。
身長は百七十センチほど。細身だけど、意外に力はありそう。お会計の際に近くで見られる袖から先の手は、とてもがっちりしているから。大人しそうな外見、穏やかな表情で二十歳過ぎぐらいの学生さんに見えるものの、あまりに落ち着きがあって年齢不詳のイメージも強い。
「店長~。あの人、また忘れ物みたいですよ」
客足が途切れ、店内にもカップルが一組だけになったとき、アルバイトの渡辺さんが知らせてくれた。
「あの人って?」
「例の歳なんだか若いんだか分からない男性です。今日、初めて丸眼鏡を掛けてるなあって思ってたんですけど、忘れて行ってます」
「丸眼鏡」
おうむ返しの呟きが、不思議そうな調子を帯びてしまった。私は、“気になる人”と言いながら、その男性が本日、丸眼鏡を掛けていたことに気付かなかった。
その小さなショックが顔に出ていたのか、渡辺さんが付け足して言った。
「本を読み始めると同時に、取り出して掛けたんですよ。ほら、あんなに薄くて鈍い銀色だったから、気付かなくても無理ないです」
彼女はテーブルを指差したけど、カウンターから一番遠い奥の席であり、はっきりとは見えない。
「とりあえず、保管しておきましょう」
アルバイトに任せて何かあったらことだから、店長の責任で私自ら保管に向かう。
テーブルの端、壁に着きそうな位置に丸眼鏡はあった。フレームは畳まれていないから、一度外してまた掛けるつもりだったがやめてしまった、という風に見える。
前はマスクだったなと思い起こす。初めて来られたときに、いきなり忘れ物をされていったのだが、そのときは極普通の白くて長方形の布マスクだった。すぐに気付いて追い掛けて、無事に渡すことができたのだけれど、走って追い掛けた私ばかりが息を切らして、やや興奮気味に「間に合ってよかったです」とか何とか言ったのだけれど、相手は「ああ、どうもすみません。忘れてしまった」とって、淡々とマスクを受け取った。
その温度差が一瞬、あのお客さんに悪い印象を抱きかけたのだけれど、直後に彼の見せたほんの少しの笑みが、全てを許した。彼はマスクを掛けながらだったので、その隙間からちょっと覗けただけだったけれど、えくぼができたんじゃないかと思えるくらいに男性にしてはかわいらしい笑みだった。
今になって思えば、その次に来たときに、マスクのことにかこつけて、お声がけしていればよかったかも。
男性の何を知りたいってわけでなく、でも何だか気になる存在。
丸眼鏡を持って、カウンターの内側に引っ込み、何か適切な容れ物はないかしらと思案していると、ふと、眼鏡のフレームに意識が行った。
mitsuko-misawa
細い筆記体でそう彫られていた。
0
あなたにおすすめの小説
サウンド&サイレンス
崎田毅駿
青春
女子小学生の倉越正美は勉強も運動もでき、いわゆる“優等生”で“いい子”。特に音楽が好き。あるとき音楽の歌のテストを翌日に控え、自宅で練習を重ねていたが、風邪をひきかけなのか喉の調子が悪い。ふと、「喉は一週間あれば治るはず。明日、先生が交通事故にでも遭ってテストが延期されないかな」なんてことを願ったが、すぐに打ち消した。翌朝、登校してしばらくすると、先生が出勤途中、事故に遭ったことがクラスに伝えられる。「昨日、私があんなことを願ったせい?」まさかと思いならがらも、自分のせいだという考えが頭から離れなくなった正美は、心理的ショックからか、声を出せなくなった――。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
観察者たち
崎田毅駿
ライト文芸
夏休みの半ば、中学一年生の女子・盛川真麻が行方不明となり、やがて遺体となって発見される。程なくして、彼女が直近に電話していた、幼馴染みで同じ学校の同級生男子・保志朝郎もまた行方が分からなくなっていることが判明。一体何が起こったのか?
――事件からおよそ二年が経過し、探偵の流次郎のもとを一人の男性が訪ねる。盛川真麻の父親だった。彼の依頼は、子供に浴びせられた誹謗中傷をどうにかして晴らして欲しい、というものだった。
籠の鳥はそれでも鳴き続ける
崎田毅駿
ミステリー
あまり流行っているとは言えない、熱心でもない探偵・相原克のもとを、珍しく依頼人が訪れた。きっちりした身なりのその男は長辺と名乗り、芸能事務所でタレントのマネージャーをやっているという。依頼内容は、お抱えタレントの一人でアイドル・杠葉達也の警護。「芸能の仕事から身を退かねば命の保証はしない」との脅迫文が繰り返し送り付けられ、念のための措置らしい。引き受けた相原は比較的楽な仕事だと思っていたが、そんな彼を嘲笑うかのように杠葉の身辺に危機が迫る。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
神の威を借る狐
崎田毅駿
ライト文芸
大学一年の春、“僕”と桜は出逢った。少しずつステップを上がって、やがて結ばれる、それは運命だと思っていたが、親や親戚からは結婚を強く反対されてしまう。やむを得ず、駆け落ちのような形を取ったが、後悔はなかった。そうして暮らしが安定してきた頃、自分達の子供がほしいとの思いが高まり、僕らはお医者さんを訪ねた。そうする必要があった。
江戸の検屍ばか
崎田毅駿
歴史・時代
江戸時代半ばに、中国から日本に一冊の法医学書が入って来た。『無冤録述』と訳題の付いたその書物の知識・知見に、奉行所同心の堀馬佐鹿は魅了され、瞬く間に身に付けた。今や江戸で一、二を争う検屍の名手として、その名前から検屍馬鹿と言われるほど。そんな堀馬は人の死が絡む事件をいかにして解き明かしていくのか。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる