マスクなしでも会いましょう

崎田毅駿

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忘れ物

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 私、秋上由子あきがみゆうこは一目惚れをしたことがない。ついでに言っておくと、されたこともない。
 だから一目惚れのときに湧き起こる感情がどんなものなのか分かっていないのだが。
 そんな私でも、“彼”に対するこの気持ちが一目惚れではないことくらい、理解できている。
 一言で簡単に表すとすれば、気になる人、だった。
 お店が賑わっているときも、閑散としているときも、同じような存在感で――あるいは存在感の無さで、彼はそこにいる。
 長年の常連さんではない。初めて来られたのが五月の半ばだったと記憶しているから、まだ三週間ほど。毎日ではないし、曜日が決まっている訳でもない。それでも平均で週に二回か三回は足を運ばれているように思う。
 身長は百七十センチほど。細身だけど、意外に力はありそう。お会計の際に近くで見られる袖から先の手は、とてもがっちりしているから。大人しそうな外見、穏やかな表情で二十歳過ぎぐらいの学生さんに見えるものの、あまりに落ち着きがあって年齢不詳のイメージも強い。
「店長~。あの人、また忘れ物みたいですよ」
 客足が途切れ、店内にもカップルが一組だけになったとき、アルバイトの渡辺わたなべさんが知らせてくれた。
「あの人って?」
「例の歳なんだか若いんだか分からない男性です。今日、初めて丸眼鏡を掛けてるなあって思ってたんですけど、忘れて行ってます」
「丸眼鏡」
 おうむ返しの呟きが、不思議そうな調子を帯びてしまった。私は、“気になる人”と言いながら、その男性が本日、丸眼鏡を掛けていたことに気付かなかった。
 その小さなショックが顔に出ていたのか、渡辺さんが付け足して言った。
「本を読み始めると同時に、取り出して掛けたんですよ。ほら、あんなに薄くて鈍い銀色だったから、気付かなくても無理ないです」
 彼女はテーブルを指差したけど、カウンターから一番遠い奥の席であり、はっきりとは見えない。
「とりあえず、保管しておきましょう」
 アルバイトに任せて何かあったらことだから、店長の責任で私自ら保管に向かう。
 テーブルの端、壁に着きそうな位置に丸眼鏡はあった。フレームは畳まれていないから、一度外してまた掛けるつもりだったがやめてしまった、という風に見える。
 前はマスクだったなと思い起こす。初めて来られたときに、いきなり忘れ物をされていったのだが、そのときは極普通の白くて長方形の布マスクだった。すぐに気付いて追い掛けて、無事に渡すことができたのだけれど、走って追い掛けた私ばかりが息を切らして、やや興奮気味に「間に合ってよかったです」とか何とか言ったのだけれど、相手は「ああ、どうもすみません。忘れてしまった」とって、淡々とマスクを受け取った。
 その温度差が一瞬、あのお客さんに悪い印象を抱きかけたのだけれど、直後に彼の見せたほんの少しの笑みが、全てを許した。彼はマスクを掛けながらだったので、その隙間からちょっと覗けただけだったけれど、えくぼができたんじゃないかと思えるくらいに男性にしてはかわいらしい笑みだった。
 今になって思えば、その次に来たときに、マスクのことにかこつけて、お声がけしていればよかったかも。
 男性の何を知りたいってわけでなく、でも何だか気になる存在。
 丸眼鏡を持って、カウンターの内側に引っ込み、何か適切な容れ物はないかしらと思案していると、ふと、眼鏡のフレームに意識が行った。

   mitsuko-misawa

 細い筆記体でそう彫られていた。

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