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1.場末の探偵にきらびやかな依頼

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 がたのきている扉がノックされたのは、もう、そろそろ閉めようかと思ったときだった。立ち上がりながら、冷え切ったブラックコーヒーを飲み干したのがいけなかった。さっさと明かりを消してしまっておけば、今日も一日、静かに終えられたものを。
 ノックは立て続けに起こった。俺が返事さえしないものだから、いらいらしていると見える。
「はい、開いてますよ」
 自分の声ががらがらであるのに気付いた。こちとら客商売だ、一応、うがいでもしておこう。
「あの、こちらは探偵社でしょうか?」
 うがいをしてから顔をタオルで拭いていると、ノックの主が入ってきた。
「表の看板にある通り、ここは探偵社です」
 今の俺にとって、客はどうでもよかったので、そんないい加減な口調になってしまう。まあ、これで帰ってしまうようなら、大した依頼じゃないのだと断定したい。
「所長さんでいらっしゃますか」
 入ってきた男は、おどおどした態度で聞いてきた。見た目はぴしっとスーツに身を固め、眼鏡や時計、ネクタイなんかも一流品のようだが、中身の方はそうとは限らないらしい。
 俺の方はよれよれの背広――仕事着であり、冠婚葬祭何にでも使える便利物だ――を着こなしている。この外見から、相手の男は俺のことを単なる粗野な人間だと判断したらしく見受けられる。そこが一流でない。
「どんなことでも引き受けてもらえるのでしょうか」
 奇妙なまでに揃えられた髪をなで上げながら、男は言った。その言い方は、勇気を振り絞っている感じだ。
「内容によります。少なくとも、あからさまに法に引っかかるようなことはお断りしたいですね」
「いえ、法に触れるなんてことはございません」
 きっぱりと言い切る男。どうやら、本気でこの俺に相談したいらしい。俺は椅子をすすめることにした。
「ま、おかけください。所長の相原克あいはらかつです」
「あ、どうも。私は」
 と、男は内ポケットに手をやった。身分の説明にはなっていても証明にはならない紙切れ――名刺の登場だ。
「こういう者です」
 自分の口で説明すればいいものを、男は名刺をテーブルの上に置いた。仕方なしに、俺はそれを手に取り、読み上げてやった。
「芸能プロダクション G-セット 長辺広直おさべひろなおさん?」
 「おさべひろなお」と振り仮名があったからいいようなものの、なければ、つい「ちょうへんこうちょく」とでも読んでしまいかねない。
「はい、そこでタレントのマネージャーなんかをやっております」
 いやにへりくだって、長辺なる男は言う。探偵なんぞにへりくだるとは、この男、普段から頭を下げまくっているのではないか。
「芸能プロのマネージャーさんが、どんな用件でしょうかね?」
杠葉達也ゆずりはたつやの命を護ってやってほしいのです」
「杠葉達也と言うのは?」
 おおよそ、見当はついていたが、俺は初耳であるかのように返した。
 長辺は一瞬、あの杠葉達也を知らないのか、とでも言いたげな顔になったが、すぐに平常に戻った。
「うちのタレントの一人です。もちろん、私が面倒を見ています」
「タレント、便利な言葉ですな」
「は?」
「いや、何でもない。さっきのは冗談で、杠葉達也ならテレビで見たこと、あります。確認のために、わざと伺ったんです」
「そうでしたか」
 何とも言えぬ複雑な表情になる長辺。こちらは別にからかっているつもりはないんだが、どうも波長が合わない感じである。
「そのような人気者の命を護るだのどうだのとは、穏やかでない。いきさつを説明してもらえますか」
「はい。実は何日か前から、こんな物が私共に、より正確には杠葉達也宛に来るようになったんです」
 胸ポケットから、正方形に折り畳んだ一枚の白い紙が出てきた。当たり前だが、白いのは裏だけで、表には文字があった。いや、文字があるから表だと認識できるのに過ぎない。
 長辺が、声に出して読んでくれと目で訴えかけてくるようなので、その気がなかったのに俺は文字の羅列を読み上げた。ワープロ文字だ。
「『これは警告である 杠葉達也はテレビに出るな 映画に出るな 大衆の前に現れるな 以上が守られぬ場合 杠葉の生命は保証できない』ですか。簡潔で分かり易い」
「感心されては困ります」
「意味不明な物をよこされるよりは、救いがありましょう」
「それはそうでしょうけど、ねえ」
「これ、何通目ですか?」
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