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23.ドンカスターの岩男
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伊藤がこのセメント試合で披露したのはポピュラーなメキシコ流のフライングヘッドバッドではなく、欧州は英国のプロレスラー、アルバート・ウォールが得意とした技である。言うなれば、ヨーロッパ式フライングヘッドバッドか。
華麗と形容されるメキシコ流のそれとは異なり、アルバート・ウォールのフライングヘッドバッドは無骨そのもの。「ドンカスターの岩男」「人間ミサイル」との異名を取ったことから分かるように、頭からまっすぐ相手の顔面や頭部に突っ込んでいくのだ。マットとほぼ平行に二メートル近い高さを飛んだ百キログラムオーバーの巨体が、同じくヘビー級クラスのレスラーに垂直に直撃する。その破壊力たるやすさまじいものがあったという。
タックルだと思って身構えていた井関に対して、この意表を突く技は最大限効果的にヒットした。崩れ落ちて片膝をついた井関は、左手で鼻を押さえている。その指の間から鮮血がぽたぽたぽたっと滴り落ち、マットを赤くしていく。
しばしぼーっとしている井関に、セコンドの入雲が怒声を張り上げているが、反応は鈍く動きは戻らない。
一方、伊藤はフライングヘッドバッドを放ったあと、マットに着地する際に多少受け身を取り損ねていたが、すぐに回復。体勢を整えると井関の前に仁王立ちし、さらには相手の両手首を強引に掴んだ。そして右膝頭を振り抜かんとする動作に入った。
「――あの技って、開発者の許可を得るのがお約束だった気がする」
若い伊藤が何を出すつもりなのか瞬時に分かった小石川が軽口を叩くと、福田が「固いこと言うな。伊藤はプロレスを代表して戦ってるんだからよ」と呼応する。二人とも、これで決着だと信じて疑わなかった。
しかし。
総合格闘家は、特に柔道経験が一定程度ある者は、手首を強く掴まれたら反射的に捻る。そして井関は柔道に加えて、合気道もかじったことがあった。半ば無意識の動作であっても、こつは心得ている。
(うっ? 滑る?)
さらに、伊藤の右手は濡れていた。井関の左手には鼻血がたっぷりと着いていたのだ。
伊藤の手は井関の左手首を放してしまった。渾身の膝蹴りは空を切った。力を込めていた分、空かされた反動は大きい。のけぞって仰向けに倒れる。かろうじて左手は相手の右手首を掴んでいるものの、一転して形勢不利に陥った。
「行けぇ、井関さん!」
セコンドの入雲らの声により、井関はようやく意識が覚醒。目の前で倒れている伊藤を見付けて、自由の利く左腕を振りかぶり、殴りに行った。
「やばいっ」
思わず吐き捨てた小石川。二人が折り重なっている位置はリングのほぼ中央で、ロープには遠い。このまま井関のパンチをもらって有利なポジションを作られては、逃げようがない。
「いや」
福田が手を一つ打った。
「まだ分からんぞ」
「どういうことです?」
「偶然か必然か知らねえけどよ、あの体勢は絶好のチャンスだと言えないか?」
「チャンスって……ああ!」
伊藤は多分、福田が胸の内で期待した通りに動いた。
空振りした右足を井関の首に掛け、さらに自らの右足首辺りを目安に、今度は左足をフックさせる。おあつらえ向きに、相手の右腕は左手でしっかり掴んでいる。
「そうか、トライアングルチョークだ」
「洒落た言い方するのな。三角締めでいいだろ」
腕ひしぎと頸動脈絞めを同時に極める三角締めがきれいに掛かった。
プロレスでもたまに使われる技だけあって、練習はしている。ただ伊藤が試合でこれを出すのは恐らく初めてだったろう。井関の右腕を両手を使って反らせるとともに、足の位置を調整して首を絞めていく。
ほんの数秒前まで伊藤を殴ろうとしていた左腕が宙を掻く。井関はマットに腰を落として耐えようとしたらしいが、伊藤の力が上回った。尻餅をつくことはかなわず、逆に身体を起こされ、前のめりに引っ張られ、どんどん極まっていく。鼻血が改めて噴き出し、伊藤の胸板や腹に落ちていく。
会場は耳をつんざかんばかりの歓声・コールに溢れていた。レフェリーが井関に降参の意志の有無を問い掛けるが、返答はない。
宙にあった井関の左腕が、不意に降りた。タクシーを止めるのをあきらめたみたいに、だらんと。
「スト~ップ! 伊藤、そこまでだ伊藤!」
レフェリーが身体をぶつけるようにして止めに入る。もちろん本当にぶつけていては、井関の右肘が一層逆方向に曲がりかねないので、その辺は間違いが起きないよう避けている。
仰向けの姿勢で三角締めを解いた伊藤は、そのまま両腕を天井に突き上げた。
「やったぞ! 勝った!」
喜びを露わにする伊藤に対し、会場のプロレスファンや関係者、そしてネット回線越しの小石川や福田も一斉に拍手を送った。
「すげーよ、伊藤。よく対応したな」
井関の手強さを肌身を持って知っている福田の言葉には、実感がこもっていた。そんな兄弟子とともに称賛のフレーズを口にしてから、小石川は福田へと向き直った。
「困りましたね福田さん。これでますます道場での立場、危うくなるんじゃないですか」
「うるせえよ、ばーか。今ぐらい勝利の余韻に浸らせろ」
続く
華麗と形容されるメキシコ流のそれとは異なり、アルバート・ウォールのフライングヘッドバッドは無骨そのもの。「ドンカスターの岩男」「人間ミサイル」との異名を取ったことから分かるように、頭からまっすぐ相手の顔面や頭部に突っ込んでいくのだ。マットとほぼ平行に二メートル近い高さを飛んだ百キログラムオーバーの巨体が、同じくヘビー級クラスのレスラーに垂直に直撃する。その破壊力たるやすさまじいものがあったという。
タックルだと思って身構えていた井関に対して、この意表を突く技は最大限効果的にヒットした。崩れ落ちて片膝をついた井関は、左手で鼻を押さえている。その指の間から鮮血がぽたぽたぽたっと滴り落ち、マットを赤くしていく。
しばしぼーっとしている井関に、セコンドの入雲が怒声を張り上げているが、反応は鈍く動きは戻らない。
一方、伊藤はフライングヘッドバッドを放ったあと、マットに着地する際に多少受け身を取り損ねていたが、すぐに回復。体勢を整えると井関の前に仁王立ちし、さらには相手の両手首を強引に掴んだ。そして右膝頭を振り抜かんとする動作に入った。
「――あの技って、開発者の許可を得るのがお約束だった気がする」
若い伊藤が何を出すつもりなのか瞬時に分かった小石川が軽口を叩くと、福田が「固いこと言うな。伊藤はプロレスを代表して戦ってるんだからよ」と呼応する。二人とも、これで決着だと信じて疑わなかった。
しかし。
総合格闘家は、特に柔道経験が一定程度ある者は、手首を強く掴まれたら反射的に捻る。そして井関は柔道に加えて、合気道もかじったことがあった。半ば無意識の動作であっても、こつは心得ている。
(うっ? 滑る?)
さらに、伊藤の右手は濡れていた。井関の左手には鼻血がたっぷりと着いていたのだ。
伊藤の手は井関の左手首を放してしまった。渾身の膝蹴りは空を切った。力を込めていた分、空かされた反動は大きい。のけぞって仰向けに倒れる。かろうじて左手は相手の右手首を掴んでいるものの、一転して形勢不利に陥った。
「行けぇ、井関さん!」
セコンドの入雲らの声により、井関はようやく意識が覚醒。目の前で倒れている伊藤を見付けて、自由の利く左腕を振りかぶり、殴りに行った。
「やばいっ」
思わず吐き捨てた小石川。二人が折り重なっている位置はリングのほぼ中央で、ロープには遠い。このまま井関のパンチをもらって有利なポジションを作られては、逃げようがない。
「いや」
福田が手を一つ打った。
「まだ分からんぞ」
「どういうことです?」
「偶然か必然か知らねえけどよ、あの体勢は絶好のチャンスだと言えないか?」
「チャンスって……ああ!」
伊藤は多分、福田が胸の内で期待した通りに動いた。
空振りした右足を井関の首に掛け、さらに自らの右足首辺りを目安に、今度は左足をフックさせる。おあつらえ向きに、相手の右腕は左手でしっかり掴んでいる。
「そうか、トライアングルチョークだ」
「洒落た言い方するのな。三角締めでいいだろ」
腕ひしぎと頸動脈絞めを同時に極める三角締めがきれいに掛かった。
プロレスでもたまに使われる技だけあって、練習はしている。ただ伊藤が試合でこれを出すのは恐らく初めてだったろう。井関の右腕を両手を使って反らせるとともに、足の位置を調整して首を絞めていく。
ほんの数秒前まで伊藤を殴ろうとしていた左腕が宙を掻く。井関はマットに腰を落として耐えようとしたらしいが、伊藤の力が上回った。尻餅をつくことはかなわず、逆に身体を起こされ、前のめりに引っ張られ、どんどん極まっていく。鼻血が改めて噴き出し、伊藤の胸板や腹に落ちていく。
会場は耳をつんざかんばかりの歓声・コールに溢れていた。レフェリーが井関に降参の意志の有無を問い掛けるが、返答はない。
宙にあった井関の左腕が、不意に降りた。タクシーを止めるのをあきらめたみたいに、だらんと。
「スト~ップ! 伊藤、そこまでだ伊藤!」
レフェリーが身体をぶつけるようにして止めに入る。もちろん本当にぶつけていては、井関の右肘が一層逆方向に曲がりかねないので、その辺は間違いが起きないよう避けている。
仰向けの姿勢で三角締めを解いた伊藤は、そのまま両腕を天井に突き上げた。
「やったぞ! 勝った!」
喜びを露わにする伊藤に対し、会場のプロレスファンや関係者、そしてネット回線越しの小石川や福田も一斉に拍手を送った。
「すげーよ、伊藤。よく対応したな」
井関の手強さを肌身を持って知っている福田の言葉には、実感がこもっていた。そんな兄弟子とともに称賛のフレーズを口にしてから、小石川は福田へと向き直った。
「困りましたね福田さん。これでますます道場での立場、危うくなるんじゃないですか」
「うるせえよ、ばーか。今ぐらい勝利の余韻に浸らせろ」
続く
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