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エピソード1:刻み屋ニック 1
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薄暗い。
「まだこんな馬鹿げたこと、やってんのか?」
「放っておいてくれ、カイン。私の自由だ」
ぴしゃり。石の床を水滴が打つ。
「動くのかねえ」
「今度こそ動くさ。いや、動くという言葉は正しくない。生まれる、だ」
「は! 何様のつもりだい? エフ・アベルは神になったてか?」
「生命を創造するということが神の業であるならば、それもよかろう」
長々と横たわる身体。胸から下がない。違う、胸からしか見えない。
「ふん。どこから身体をかき集めたか知らんが、こんな……。最後の仕上げは、雷ぴっしゃんか」
「遠い島国では雷とは『神鳴り』に通じるという。ふさわしいではないかね。さあ、その雷だ。危険があるかもしれないから、カイン、下がってくれないか」
不器用な金属の箱から伸びたレバー。下ろされる。閃光、衝撃。
そして――『僕』は目覚めた。
「あ、そこの人」
どう、あたしの声。この魅力的な声を聞いて、振り向かない野郎はいないよ。
「そう、そこのおにいさん。ねえ、あたしといいことしていかない?」
ほら、身体の方もいいでしょうが。
「分かるでしょう? だめかしら?」
「……」
何さ、黙っちゃって。お高く止まってるね。いいわよ、ここからが腕の見せどころってもの。
「ね、恥をかかせないで」
最上の艶やかなポーズよ。ほら、近付いてきた。
「あら、暗くて気付かなかったけど、凄くいい男なのね」
お世辞じゃない。あたしの頭上の外灯に照らし出された相手の顔、これまでで最高。これからもないかも……。
「身なりもばっちり決めちゃって。さぞ、もてるんでしょうねえ」
「……」
いつまで喋らないつもり? まあ、いいわ。帽子もコートも高価そう。そんだけ身なりがよけりゃ、たんまりとお代をもらえるってもの。
「ねえ、いいでしょ? 場所はこっちで用意してるんだし。こっちよ」
あれ、案外と素直についてくるじゃない。むっつりスケベのタイプかしら。どうでもいいけど。
「あそこよ。でも、まだ入らせない。先に声を聞かせて。きっと素敵な声だと思うんだけど」
「……」
聞き取れなかったけど、今度は何か喋っていた。
「なあに?」
「欠陥品は取り除く」
あ? な、何を言ってんの、こいつ?
「どういう意味なのかしら? あんまり難しいこと言われたって、分からないわ。……そ、そうだ。名前を教えて。まだ聞いてなかった」
「……近頃は、ニック、と言えば通じるようになったらしい」
ニック!
あのニック? 冗談? で、でも、こいつの眼……。逃げなきゃ!
「無駄だ」
痛い! 背中に鋭い痛みが走る。だけど、逃げないと。
「悪性の細胞は切り刻むのみ」
あ!
音が……聞こえる。ざくざくって。これ……私の……身体が……。
石畳が敷き詰められた霧濃い都市は、殺人鬼の話題で持ち切りであった。
殺人鬼に付けられた名は『刻み屋ニック』。察せられるだろうが、犠牲者の身体を執拗に切り刻むことに由来する、畏怖すべきあだ名である。
最初の事件が発生してからすでに一ヶ月と少し。犠牲者はちょうど十を数えていた。最近になって、ようやくその猛威は弱まっている。が、それは当初と比較してのことで、現在も七日から十日に一人の犠牲者が出る気配に満ちている。
狙われる者に、男女年齢の区別はない。犠牲者に共通する他の条件も見当たらぬ様子で、正しく無差別殺人と見なされている。
さらに付け加えるならば、刻み屋ニックに襲われ、助かった者はいない……。
「警部! あ、あの、大変、申し上げにくいのですが、十一人目が」
その若い男に、部屋に飛び込んできたときの勢いはなかった。無理もなかろう。大した情報を持って来たのだが、その内容が上司の不手際――新たな犠牲者を出したなると、伝えにくくなるに違いない。
「何てこった! どこでだ?」
コナン警部は中身の残っていた紙コップを床に叩きつけると、派手な音を立
てて椅子から立ち上がった。当然ながら、これまでの十人の事件全部を、コナ
ン警部が担当しているのではない。それでも彼にかかる責任は重かった。
「ギョーム街の……」
先に飛び出した警部の背中を追いながら、部下の刑事は必死に答えていた。
現場は、うらさびしい通りをさらに内に入った、人気の乏しい区画。慣れない者にとって、入り組んだ小径は迷路さながらである。第一発見者がいるから迷わないですんでいる。付き従っているのは、コナン警部とその部下一人、それに街の巡査、監察医、検視官の合計五人。
「娼婦街か」
汚れた壁の四角い建物を見上げながら、コナン警部が言った。
「いいえ。娼婦街は大通りを挟んだ向こうでして、被害者はたまたま、こちらまで出てきていたようです」
上司の言葉を、部下はすぐに訂正した。
「十一人目の被害者は娼婦なんだな」
「あ、その通りで……。こちらだそうです」
角を曲がる。その途端、道端に横たわっていた遺体が目に入った。
「……慣れるもんじゃないと思ってたが、十一人目ともなると慣れたかな……」
警部はぽつりと漏らす。
普通、往来で死体が転がっていたら、付近の連中が取り巻いて見ているものだ。が、一連の刻み屋ニックの事件では、まず野次馬がいない。いるにはいるが、遠巻きにするだけでほとんど誰も近付こうとしないのだ。それほどまでに、犠牲者の遺体は酷くいたぶられているのが常である。
今回の犠牲者の遺体も陰惨を極めていた。
ウェーブのかかったロングヘアに隠れ、顔が見えないのは唯一の幸いだろう。それでも、髪の合間からべっとりとしたどす黒い赤が見える。
喉に眼が行く。黒い絵の具で汚れているんじゃないかと思えるほど、ぽっかりと暗い穴が開いていた。それも一つでなく、確認できるだけで三つはあった。
両肩に相当な出血跡が見られる。腕を切断しようとしてあきらめたのか、それとも最初から切り刻むだけが目的だったのか。
ついで手の指を見ると、これも当然のごとく、切断されていた。ご丁寧に第一関節と第二関節の二箇所を刻んでいる。野菜を包丁で切り刻む要領でやったのだろうか。
乳房は二つともない。脂の黄色と凝固した血の黒とで、切断面は汚く彩られていた。切り取られた乳房はどこにあるのだろう?
腹も大きく切り裂かれていた。内臓として機能していた物が、ぐちゃぐちゃと飛び出し、ちぎれている。どれが何の臓器かは見分けがつかない。
足は左右とも、赤黒い縞模様が描かれてあった。まるで定規で測ったかのように、等間隔で刻まれ、血がにじんだ結果だ。足の指もきれいに切り取られていた。
「うわっ!」
不意に巡査が声を上げた。みっともないほど慌てふためき、その場から飛び退くと、腰を抜かしてしまった。
「どうした?」
コナンはおおよそ、見当をつけながらも聞いた。
「あ、足下に……その、乳房が!」
「ははあ」
コナンは巡査の指差す方へ近寄り、確認した。彼は、ジョーク用のプディングで、こんなのを見たことがあった。が、それを思い出すことはなかった。
「ん? 他にも何かある」
警部は地面に顔を近付けた。異臭なんかにかまっている場合でない。
「う……耳、か」
警部は、乳房の横に落ちていた肉片を、耳だと認識した。
「ルクソール! 被害者の耳はないか?」
「ない。切断面が三日月のようになっとる」
警部に呼びかけられた監察医――遺体の調べ役の方――は、抑揚のない返事をよこす。
「ついでに聞いておこう。乳房と耳、指の他、完全に切断されている部位はあるか?」
「こっちきて、自分の目で調べたらどうだぃ」
きゅうにくくっと笑いながら、ルクソールは振り向いた。
「冗談じゃない。仕事をしろ」
「ふん。内臓は分からんが、他は引っ付いてる」
「分かった。くそ、ニックめ、今度は時間の余裕があったらしいな。念入りに刻んでやがる」
吐き捨ててから、ふとコナンは、遺体にかなり接近している男がいるのに気付いた。何と表すのが適当だろうか、岩のような厳つい顔に、薄開きの両眼が光っている。無表情で不気味な作りだが、恐ろしさよりも悲しさが宿っていた。背はかなり高く、バランスの取れた立派な身体つき。手も足も常人より一回りは大きかった。
容貌はともかくとして、ニック事件には珍しくなった野次馬だ。それとも単なる恐い物見たさから出た行動か。どちらにしても追い払うのは同じだ。
「こら、近寄ってはいかん」
警部が注意する。しかし、男は聞こえないのか、監察医の頭越しに覗き込んでいる。
警部は無表情な男を見ていて、急にいたずら心を起こした。
「ルクソール、どいてやれ。見たがっているお客さんがいる」
「はあ? ――ああ、分かりました」
にやつきながら、横歩きをしてその場を離れたルクソール。
さあ、あの無表情が悲鳴でゆがむぞ。いくら図体がでかくても、あの遺体を見たら……。警部は半ば、そんな気分で様子を見ていた。
「……」
しかし、男は未だに悲鳴を上げない。恐怖で声が出ないのでもないらしく、しげしげと観察を続けている。
いつだったか、二枚目の若者が眼前の男と同様、平気でいたことがあったな。そんなことを思い出しながら、しばし唖然としていたコナンは、頭を振って、男へ近付いた。
「おいおい。信じられん奴だな。おまえさんの度胸のよさには参った。だが、ここまでだ。引っ込んでくれ」
警部はゆっくりと重みのある声を響かせた。相手の肩に手を置こうとしたが、届きそうになかったため、背中をぽんと叩くにとどめる。
それでも、相手の男は立ち去ろうとしない。
警部は相手の顔を正面から見て、改めてぎょっとした。右目の下辺りから左頬まで、鼻を横断する大きな傷跡があったのだ。そのすさまじさにややたじろいだが、警部は警告を重ねた。
「おい、どいてくれと言ってるだろう。おまえ……医者の卵か何かか? これだけの遺体を見といて、ちっとも動じとらんとは」
「医者じゃない」
早口で答えてから、さらに男はこうつぶやいたようだった。
「やっぱり……」
聞き咎めた警部は、何のことだと問い詰めようとしたが、そのときにはもう、男はきびすを返し、遠ざかって行くところだった。巨体の割に素早い動きだ。
「何者だ、あれは……」
訝しむものの、他にやるべき項目が山積していた警部は、深く詮索しようとは思わなかった。
舞台は、ちょっと洒落た喫茶だった。窓際の席はどこも、カップルらしき男女が占めている。
その反対側、光も必要以上は差し込まぬ奥の、二人用の席に、男が向かい合っていた。一人は巨体で顔に傷のある男。もう一人はがっしりした身体つきだが、相手と比べるとはるかに小柄だった。こちらは整った顔立ちをしている。
二人は濃いコーヒーを前に、始めた。
「今さら何なんです、マスター・アベル」
「マスターはやめてくれ。久しぶりの対面だからと言って、改まる必要はない。アベルでもエフでも、好きなように呼んだらいい。私も君をフランクと呼ばせてもらうよ」
「では、アベル。どうした風の吹き回しですか? 僕とは縁が切れたものと思っていましたが……」
「あれは昔の話だ。ちょっとした感情のすれ違いがあったのは事実だが、今となってはさしたる問題ではない」
「……現在の返答を期待してよろしいのでしょうか?」
「……『何故、僕を造ったのですか?』というあの問いか」
アベルは難しい顔になった。間を持たすためにか、カップを手に取り、のろのろと口をつけ、またのろのろとテーブルに戻す。
「答は変わらない。残念ながらと言うべきかね。私は信念だけで君を造ったようなものだ。カインや他の連中を見返してやるためにね」
フランクの眼が寂しそうになった。アベルはわずかに慌てたように、急いで言い足した。
「だが、現在は君を我が子のように思っている。本当だ。当時の気持ちは不遜なものであり、君には受け入れがたかったかもしれぬが……この通りだ、どうか許してくれないか」
アベルは大げさまでの身ぶりで、頭を深く下げた。
「やめてください、マスター・アベル。他人の眼があります」
「どうせ恋人しか目に入ってない輩がほとんどだろう。それに」
顔を上げ、上目遣いでアベルは言った。
「君はまたマスターと言ったね」
「……はは。昔の癖は抜け切らないってことですか、お互いに」
ようやく表情をゆるめたフランク。
「それでは、どうして最近になって、あんなに激しい調子の手紙をくれるようになったのです? これまでも近況報告まがいの手紙はいただいていましたが……」
「そこなんだよ、フランク」
身を乗り出すアベル。真剣さが増した。
「刻み屋ニック、知っているだろう」
唐突に飛び出した殺人鬼のあだ名に、フランクは戸惑いの色を見せた。それでもうなずくと、
「ええ、もちろんです」
と、すぐに答えた。
「でも、何故、その名が?」
「私が見るところ、あれは『魔玉』の力を帯びた者の仕業だ」
続く
「まだこんな馬鹿げたこと、やってんのか?」
「放っておいてくれ、カイン。私の自由だ」
ぴしゃり。石の床を水滴が打つ。
「動くのかねえ」
「今度こそ動くさ。いや、動くという言葉は正しくない。生まれる、だ」
「は! 何様のつもりだい? エフ・アベルは神になったてか?」
「生命を創造するということが神の業であるならば、それもよかろう」
長々と横たわる身体。胸から下がない。違う、胸からしか見えない。
「ふん。どこから身体をかき集めたか知らんが、こんな……。最後の仕上げは、雷ぴっしゃんか」
「遠い島国では雷とは『神鳴り』に通じるという。ふさわしいではないかね。さあ、その雷だ。危険があるかもしれないから、カイン、下がってくれないか」
不器用な金属の箱から伸びたレバー。下ろされる。閃光、衝撃。
そして――『僕』は目覚めた。
「あ、そこの人」
どう、あたしの声。この魅力的な声を聞いて、振り向かない野郎はいないよ。
「そう、そこのおにいさん。ねえ、あたしといいことしていかない?」
ほら、身体の方もいいでしょうが。
「分かるでしょう? だめかしら?」
「……」
何さ、黙っちゃって。お高く止まってるね。いいわよ、ここからが腕の見せどころってもの。
「ね、恥をかかせないで」
最上の艶やかなポーズよ。ほら、近付いてきた。
「あら、暗くて気付かなかったけど、凄くいい男なのね」
お世辞じゃない。あたしの頭上の外灯に照らし出された相手の顔、これまでで最高。これからもないかも……。
「身なりもばっちり決めちゃって。さぞ、もてるんでしょうねえ」
「……」
いつまで喋らないつもり? まあ、いいわ。帽子もコートも高価そう。そんだけ身なりがよけりゃ、たんまりとお代をもらえるってもの。
「ねえ、いいでしょ? 場所はこっちで用意してるんだし。こっちよ」
あれ、案外と素直についてくるじゃない。むっつりスケベのタイプかしら。どうでもいいけど。
「あそこよ。でも、まだ入らせない。先に声を聞かせて。きっと素敵な声だと思うんだけど」
「……」
聞き取れなかったけど、今度は何か喋っていた。
「なあに?」
「欠陥品は取り除く」
あ? な、何を言ってんの、こいつ?
「どういう意味なのかしら? あんまり難しいこと言われたって、分からないわ。……そ、そうだ。名前を教えて。まだ聞いてなかった」
「……近頃は、ニック、と言えば通じるようになったらしい」
ニック!
あのニック? 冗談? で、でも、こいつの眼……。逃げなきゃ!
「無駄だ」
痛い! 背中に鋭い痛みが走る。だけど、逃げないと。
「悪性の細胞は切り刻むのみ」
あ!
音が……聞こえる。ざくざくって。これ……私の……身体が……。
石畳が敷き詰められた霧濃い都市は、殺人鬼の話題で持ち切りであった。
殺人鬼に付けられた名は『刻み屋ニック』。察せられるだろうが、犠牲者の身体を執拗に切り刻むことに由来する、畏怖すべきあだ名である。
最初の事件が発生してからすでに一ヶ月と少し。犠牲者はちょうど十を数えていた。最近になって、ようやくその猛威は弱まっている。が、それは当初と比較してのことで、現在も七日から十日に一人の犠牲者が出る気配に満ちている。
狙われる者に、男女年齢の区別はない。犠牲者に共通する他の条件も見当たらぬ様子で、正しく無差別殺人と見なされている。
さらに付け加えるならば、刻み屋ニックに襲われ、助かった者はいない……。
「警部! あ、あの、大変、申し上げにくいのですが、十一人目が」
その若い男に、部屋に飛び込んできたときの勢いはなかった。無理もなかろう。大した情報を持って来たのだが、その内容が上司の不手際――新たな犠牲者を出したなると、伝えにくくなるに違いない。
「何てこった! どこでだ?」
コナン警部は中身の残っていた紙コップを床に叩きつけると、派手な音を立
てて椅子から立ち上がった。当然ながら、これまでの十人の事件全部を、コナ
ン警部が担当しているのではない。それでも彼にかかる責任は重かった。
「ギョーム街の……」
先に飛び出した警部の背中を追いながら、部下の刑事は必死に答えていた。
現場は、うらさびしい通りをさらに内に入った、人気の乏しい区画。慣れない者にとって、入り組んだ小径は迷路さながらである。第一発見者がいるから迷わないですんでいる。付き従っているのは、コナン警部とその部下一人、それに街の巡査、監察医、検視官の合計五人。
「娼婦街か」
汚れた壁の四角い建物を見上げながら、コナン警部が言った。
「いいえ。娼婦街は大通りを挟んだ向こうでして、被害者はたまたま、こちらまで出てきていたようです」
上司の言葉を、部下はすぐに訂正した。
「十一人目の被害者は娼婦なんだな」
「あ、その通りで……。こちらだそうです」
角を曲がる。その途端、道端に横たわっていた遺体が目に入った。
「……慣れるもんじゃないと思ってたが、十一人目ともなると慣れたかな……」
警部はぽつりと漏らす。
普通、往来で死体が転がっていたら、付近の連中が取り巻いて見ているものだ。が、一連の刻み屋ニックの事件では、まず野次馬がいない。いるにはいるが、遠巻きにするだけでほとんど誰も近付こうとしないのだ。それほどまでに、犠牲者の遺体は酷くいたぶられているのが常である。
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ウェーブのかかったロングヘアに隠れ、顔が見えないのは唯一の幸いだろう。それでも、髪の合間からべっとりとしたどす黒い赤が見える。
喉に眼が行く。黒い絵の具で汚れているんじゃないかと思えるほど、ぽっかりと暗い穴が開いていた。それも一つでなく、確認できるだけで三つはあった。
両肩に相当な出血跡が見られる。腕を切断しようとしてあきらめたのか、それとも最初から切り刻むだけが目的だったのか。
ついで手の指を見ると、これも当然のごとく、切断されていた。ご丁寧に第一関節と第二関節の二箇所を刻んでいる。野菜を包丁で切り刻む要領でやったのだろうか。
乳房は二つともない。脂の黄色と凝固した血の黒とで、切断面は汚く彩られていた。切り取られた乳房はどこにあるのだろう?
腹も大きく切り裂かれていた。内臓として機能していた物が、ぐちゃぐちゃと飛び出し、ちぎれている。どれが何の臓器かは見分けがつかない。
足は左右とも、赤黒い縞模様が描かれてあった。まるで定規で測ったかのように、等間隔で刻まれ、血がにじんだ結果だ。足の指もきれいに切り取られていた。
「うわっ!」
不意に巡査が声を上げた。みっともないほど慌てふためき、その場から飛び退くと、腰を抜かしてしまった。
「どうした?」
コナンはおおよそ、見当をつけながらも聞いた。
「あ、足下に……その、乳房が!」
「ははあ」
コナンは巡査の指差す方へ近寄り、確認した。彼は、ジョーク用のプディングで、こんなのを見たことがあった。が、それを思い出すことはなかった。
「ん? 他にも何かある」
警部は地面に顔を近付けた。異臭なんかにかまっている場合でない。
「う……耳、か」
警部は、乳房の横に落ちていた肉片を、耳だと認識した。
「ルクソール! 被害者の耳はないか?」
「ない。切断面が三日月のようになっとる」
警部に呼びかけられた監察医――遺体の調べ役の方――は、抑揚のない返事をよこす。
「ついでに聞いておこう。乳房と耳、指の他、完全に切断されている部位はあるか?」
「こっちきて、自分の目で調べたらどうだぃ」
きゅうにくくっと笑いながら、ルクソールは振り向いた。
「冗談じゃない。仕事をしろ」
「ふん。内臓は分からんが、他は引っ付いてる」
「分かった。くそ、ニックめ、今度は時間の余裕があったらしいな。念入りに刻んでやがる」
吐き捨ててから、ふとコナンは、遺体にかなり接近している男がいるのに気付いた。何と表すのが適当だろうか、岩のような厳つい顔に、薄開きの両眼が光っている。無表情で不気味な作りだが、恐ろしさよりも悲しさが宿っていた。背はかなり高く、バランスの取れた立派な身体つき。手も足も常人より一回りは大きかった。
容貌はともかくとして、ニック事件には珍しくなった野次馬だ。それとも単なる恐い物見たさから出た行動か。どちらにしても追い払うのは同じだ。
「こら、近寄ってはいかん」
警部が注意する。しかし、男は聞こえないのか、監察医の頭越しに覗き込んでいる。
警部は無表情な男を見ていて、急にいたずら心を起こした。
「ルクソール、どいてやれ。見たがっているお客さんがいる」
「はあ? ――ああ、分かりました」
にやつきながら、横歩きをしてその場を離れたルクソール。
さあ、あの無表情が悲鳴でゆがむぞ。いくら図体がでかくても、あの遺体を見たら……。警部は半ば、そんな気分で様子を見ていた。
「……」
しかし、男は未だに悲鳴を上げない。恐怖で声が出ないのでもないらしく、しげしげと観察を続けている。
いつだったか、二枚目の若者が眼前の男と同様、平気でいたことがあったな。そんなことを思い出しながら、しばし唖然としていたコナンは、頭を振って、男へ近付いた。
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警部はゆっくりと重みのある声を響かせた。相手の肩に手を置こうとしたが、届きそうになかったため、背中をぽんと叩くにとどめる。
それでも、相手の男は立ち去ろうとしない。
警部は相手の顔を正面から見て、改めてぎょっとした。右目の下辺りから左頬まで、鼻を横断する大きな傷跡があったのだ。そのすさまじさにややたじろいだが、警部は警告を重ねた。
「おい、どいてくれと言ってるだろう。おまえ……医者の卵か何かか? これだけの遺体を見といて、ちっとも動じとらんとは」
「医者じゃない」
早口で答えてから、さらに男はこうつぶやいたようだった。
「やっぱり……」
聞き咎めた警部は、何のことだと問い詰めようとしたが、そのときにはもう、男はきびすを返し、遠ざかって行くところだった。巨体の割に素早い動きだ。
「何者だ、あれは……」
訝しむものの、他にやるべき項目が山積していた警部は、深く詮索しようとは思わなかった。
舞台は、ちょっと洒落た喫茶だった。窓際の席はどこも、カップルらしき男女が占めている。
その反対側、光も必要以上は差し込まぬ奥の、二人用の席に、男が向かい合っていた。一人は巨体で顔に傷のある男。もう一人はがっしりした身体つきだが、相手と比べるとはるかに小柄だった。こちらは整った顔立ちをしている。
二人は濃いコーヒーを前に、始めた。
「今さら何なんです、マスター・アベル」
「マスターはやめてくれ。久しぶりの対面だからと言って、改まる必要はない。アベルでもエフでも、好きなように呼んだらいい。私も君をフランクと呼ばせてもらうよ」
「では、アベル。どうした風の吹き回しですか? 僕とは縁が切れたものと思っていましたが……」
「あれは昔の話だ。ちょっとした感情のすれ違いがあったのは事実だが、今となってはさしたる問題ではない」
「……現在の返答を期待してよろしいのでしょうか?」
「……『何故、僕を造ったのですか?』というあの問いか」
アベルは難しい顔になった。間を持たすためにか、カップを手に取り、のろのろと口をつけ、またのろのろとテーブルに戻す。
「答は変わらない。残念ながらと言うべきかね。私は信念だけで君を造ったようなものだ。カインや他の連中を見返してやるためにね」
フランクの眼が寂しそうになった。アベルはわずかに慌てたように、急いで言い足した。
「だが、現在は君を我が子のように思っている。本当だ。当時の気持ちは不遜なものであり、君には受け入れがたかったかもしれぬが……この通りだ、どうか許してくれないか」
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「……はは。昔の癖は抜け切らないってことですか、お互いに」
ようやく表情をゆるめたフランク。
「それでは、どうして最近になって、あんなに激しい調子の手紙をくれるようになったのです? これまでも近況報告まがいの手紙はいただいていましたが……」
「そこなんだよ、フランク」
身を乗り出すアベル。真剣さが増した。
「刻み屋ニック、知っているだろう」
唐突に飛び出した殺人鬼のあだ名に、フランクは戸惑いの色を見せた。それでもうなずくと、
「ええ、もちろんです」
と、すぐに答えた。
「でも、何故、その名が?」
「私が見るところ、あれは『魔玉』の力を帯びた者の仕業だ」
続く
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