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先生、教室で舟を漕ぐ
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「先生。起きてください。ゆー先生」
ゆさゆさと緩やかかつ一定の周期で揺さぶられても、心地よさが勝ってすぐには目覚められない。せめて声をもっと大きく……そう思った矢先、結月柚希の耳元で、「起きろっ」と叫び声がした。
覚醒した。前のめりになっていた上体を起こし、周囲を見渡す。
結月はここが教室であることと、自分の記憶に齟齬がないことを頭の中で確かめた。右手に赤ペンを握り、机の上にはプリント用紙が何枚も。添削の途中でうつらうつらすることはたまにあったが、こうまで本格的に寝入ったのは初めての経験かもしれない。
それから起こしてくれた相手――安藤英美に改めて眼を向ける。
「ありがとう安藤さん、起こしてくれて」
「どういたしましてと言いたいところだけど、それよりも。こんな人の目に付く場所で、赤ペンを入れるのはやめてください」
「何で。誰も覗きやしないと思うけど」
「ゆー先生には恋人がいないどころか交際歴もこれまでほとんどなくて、その上友達も少なめって言うのは知っています。けれどもそれとこれとは別。覗かれたら秘密の漏洩になってしまうんだから」
軽くディスられているな~と感じて苦笑いを浮かべながら、結月は答える。
「うーん、秘密かぁ。確かにそうか」
自分達以外には誰もいなくなった教室をもう一度見て、もしこの部屋いっぱいの人数に秘密を知られるとしたら、大ごとだなと理解する。人の口に戸は立てられないと言うし。
「それで今日のテストだけれども」
「点数なら心配無用」
結月はにっこりとした笑みを広げた。
「ばっちり、勉強したところが出た。手応えがあったから及第点には充分に届いたはず」
「ならよかった。これで一応、目処は付いたと言えますね?」
「うん。次の一年間、休学しても大丈夫」
大学二年生の結月は、手元に広げていた原稿をプリントアウトした物を揃え、ひとまとめにした。
結月を担当する編集者の安藤は、念のためにという風に机の下を覗き込む。人気シリーズ『思い思われふるものか』の未発表原稿が一枚でも落ちていたら、大変だ。
結月柚希が文像社のホラー短編新人賞を受賞して世に出たのは、五年前。まだ高校一年生のときだった。短編一つだけだったならさほど話題にならないご時世だったが、これに加えてもう一つ、純幸出版主催の青春小説長編賞でも奨励賞をもらって後に出版までこぎ着けた。これらの活躍により、ちょっとした注目の人になった結月だったが、家族、特に父親が顔写真や本名などを公にすることに反対した。未成年の高校生であるというのが一番の理由だが、それ以上にただただ我が子かわいさがあったのかもしれない。
出版社サイドとしては、見目の悪くない結月をアイドルまがいにルックス込みで売り出す思惑もあったようだが、父親からの強硬な反対を受けて一転、覆面作家として注目を集める作戦に切り替えられた。幸いにも結月の周囲で、結月が小説を書いていることを知っているのはほんの数名だけだったので、この売り出しプランは順調に滑り出し、効果を上げながら今も続いている。
「打ち合わせ、どこでします?」
「ちょうど昼時だし、食べながらということで。ゆー先生の食べたい料理に合わせます」
「リクエストしていいのなら、この前は中華、そのまた前はステーキとこってり系が続いているから、今日はあっさりしたのがいいなあ」
「自分が知っているところで比較的近くにあるのは……出汁料理専門店か、お茶漬け専門店」
「専門店と聞いただけで美味しそう。出汁料理は夜も行けそうだから、また今度にして、今日はお茶漬けで」
「分かりました」
車で移動した先は商業ビル街の一角で、その地下にあるお店だった。行列が少しできている。昼食のピークは越えた時間帯だったものの、人気店なのか盛況だった。
「寒いのに待たせて申し訳ない。もう少しすいていると思っていたんですが」
推薦した手前、気まずそうに謝罪し、頭を下げる安藤。年下の結月は慌ててかぶりを振った。
「いえいえ。こっちが学生のくせに時間の融通を付けられなくて、すみません。おまけに眠りこけていたし」
「そこを差し引いても、この混み具合は……」
「美味しい証だと思えば楽しみです」
それよりもと仕事の話をちょっとでも進めておく。
「夏向けの怪談、ホラー色強めの話の件ですが、ちょっと前に流行った刀と組み合わせるのはどうですか」
「刀剣ほにゃらら的なあれですか。後追いどころか周回遅れって感じですが、固定の読者層は見込めるから一概にだめとも言えないかと。どんな具合のを構想してるんで?」
「怖い方に針を振るなら、呪いの刀ですよね。所有者を不幸にするとか、恨みのある人物を刀の事故に見せ掛けて殺していくとか」
「あんまり怖くない方に振るとどうなります?」
「そっちはまだほとんど考えてなくて……でもやるとしたら、刀はやめて、もう少し日常的な物品がいいんじゃないか、ぐらいは考えてます。かんざしとか壺とか。ご先祖様は見ているんだぞ的な話の運び、因果応報、もしくは幸せになれたけど何か違う、といった展開が想定できるんじゃないかと」
「いわゆるあやかし物に近くなりそうですね、それだと。ホラーっぽさは弱い」
「確か、背筋が少し寒くなるくらいでもいいと前に聞いたものですから」
「何にしても和物は食傷気味。もう椅子は空いていないと思ってくれた方がよいでしょう」
「だったら単純に、西洋に変えてみます? 呪いの刀剣なら西洋にも合います」
「安直ではあるけれど一つの手かな。まあ、西洋じゃなくても他の外国でもいい訳ですが」
「――だったら、あそこにいる人なんてどうですか?」
ゆさゆさと緩やかかつ一定の周期で揺さぶられても、心地よさが勝ってすぐには目覚められない。せめて声をもっと大きく……そう思った矢先、結月柚希の耳元で、「起きろっ」と叫び声がした。
覚醒した。前のめりになっていた上体を起こし、周囲を見渡す。
結月はここが教室であることと、自分の記憶に齟齬がないことを頭の中で確かめた。右手に赤ペンを握り、机の上にはプリント用紙が何枚も。添削の途中でうつらうつらすることはたまにあったが、こうまで本格的に寝入ったのは初めての経験かもしれない。
それから起こしてくれた相手――安藤英美に改めて眼を向ける。
「ありがとう安藤さん、起こしてくれて」
「どういたしましてと言いたいところだけど、それよりも。こんな人の目に付く場所で、赤ペンを入れるのはやめてください」
「何で。誰も覗きやしないと思うけど」
「ゆー先生には恋人がいないどころか交際歴もこれまでほとんどなくて、その上友達も少なめって言うのは知っています。けれどもそれとこれとは別。覗かれたら秘密の漏洩になってしまうんだから」
軽くディスられているな~と感じて苦笑いを浮かべながら、結月は答える。
「うーん、秘密かぁ。確かにそうか」
自分達以外には誰もいなくなった教室をもう一度見て、もしこの部屋いっぱいの人数に秘密を知られるとしたら、大ごとだなと理解する。人の口に戸は立てられないと言うし。
「それで今日のテストだけれども」
「点数なら心配無用」
結月はにっこりとした笑みを広げた。
「ばっちり、勉強したところが出た。手応えがあったから及第点には充分に届いたはず」
「ならよかった。これで一応、目処は付いたと言えますね?」
「うん。次の一年間、休学しても大丈夫」
大学二年生の結月は、手元に広げていた原稿をプリントアウトした物を揃え、ひとまとめにした。
結月を担当する編集者の安藤は、念のためにという風に机の下を覗き込む。人気シリーズ『思い思われふるものか』の未発表原稿が一枚でも落ちていたら、大変だ。
結月柚希が文像社のホラー短編新人賞を受賞して世に出たのは、五年前。まだ高校一年生のときだった。短編一つだけだったならさほど話題にならないご時世だったが、これに加えてもう一つ、純幸出版主催の青春小説長編賞でも奨励賞をもらって後に出版までこぎ着けた。これらの活躍により、ちょっとした注目の人になった結月だったが、家族、特に父親が顔写真や本名などを公にすることに反対した。未成年の高校生であるというのが一番の理由だが、それ以上にただただ我が子かわいさがあったのかもしれない。
出版社サイドとしては、見目の悪くない結月をアイドルまがいにルックス込みで売り出す思惑もあったようだが、父親からの強硬な反対を受けて一転、覆面作家として注目を集める作戦に切り替えられた。幸いにも結月の周囲で、結月が小説を書いていることを知っているのはほんの数名だけだったので、この売り出しプランは順調に滑り出し、効果を上げながら今も続いている。
「打ち合わせ、どこでします?」
「ちょうど昼時だし、食べながらということで。ゆー先生の食べたい料理に合わせます」
「リクエストしていいのなら、この前は中華、そのまた前はステーキとこってり系が続いているから、今日はあっさりしたのがいいなあ」
「自分が知っているところで比較的近くにあるのは……出汁料理専門店か、お茶漬け専門店」
「専門店と聞いただけで美味しそう。出汁料理は夜も行けそうだから、また今度にして、今日はお茶漬けで」
「分かりました」
車で移動した先は商業ビル街の一角で、その地下にあるお店だった。行列が少しできている。昼食のピークは越えた時間帯だったものの、人気店なのか盛況だった。
「寒いのに待たせて申し訳ない。もう少しすいていると思っていたんですが」
推薦した手前、気まずそうに謝罪し、頭を下げる安藤。年下の結月は慌ててかぶりを振った。
「いえいえ。こっちが学生のくせに時間の融通を付けられなくて、すみません。おまけに眠りこけていたし」
「そこを差し引いても、この混み具合は……」
「美味しい証だと思えば楽しみです」
それよりもと仕事の話をちょっとでも進めておく。
「夏向けの怪談、ホラー色強めの話の件ですが、ちょっと前に流行った刀と組み合わせるのはどうですか」
「刀剣ほにゃらら的なあれですか。後追いどころか周回遅れって感じですが、固定の読者層は見込めるから一概にだめとも言えないかと。どんな具合のを構想してるんで?」
「怖い方に針を振るなら、呪いの刀ですよね。所有者を不幸にするとか、恨みのある人物を刀の事故に見せ掛けて殺していくとか」
「あんまり怖くない方に振るとどうなります?」
「そっちはまだほとんど考えてなくて……でもやるとしたら、刀はやめて、もう少し日常的な物品がいいんじゃないか、ぐらいは考えてます。かんざしとか壺とか。ご先祖様は見ているんだぞ的な話の運び、因果応報、もしくは幸せになれたけど何か違う、といった展開が想定できるんじゃないかと」
「いわゆるあやかし物に近くなりそうですね、それだと。ホラーっぽさは弱い」
「確か、背筋が少し寒くなるくらいでもいいと前に聞いたものですから」
「何にしても和物は食傷気味。もう椅子は空いていないと思ってくれた方がよいでしょう」
「だったら単純に、西洋に変えてみます? 呪いの刀剣なら西洋にも合います」
「安直ではあるけれど一つの手かな。まあ、西洋じゃなくても他の外国でもいい訳ですが」
「――だったら、あそこにいる人なんてどうですか?」
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