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第3話 泥だらけの採掘と絶体絶命
翌朝。宿の窓から差し込む光が、埃っぽい室内を照らし出した。
俺はベッドの脇で、優斗の寝顔を見下ろしていた。
あのフードの男――グレンと呼ばれていたか――の処置のおかげで、優斗の呼吸はまだ安定している。頬には血色が差し、昨日のような死相は消えていた。
だが、これは一時的な魔法だと言われた。魔法が解ければ、またあの苦しみが襲ってくる。
時間がない。
「行ってくるよ、優斗」
俺は眠っている優斗の小さなおでこに、そっと自分の額を押し当てた。
柔らかくて温かい。この体温を守るためなら、俺は何だってできる。恐怖なんて、この温もりが消える怖さに比べればチリのようなものだ。
俺は部屋を出て、宿の女将さんに頭を下げた。
女将さんは恰幅の良い中年女性で、俺たちの事情をギルド経由で聞いているらしい。
「あの子のことは任せておきな。ご飯も食べさせておくし、様子がおかしくなったらすぐに人を呼ぶから」
「ありがとうございます。……あの、これ」
俺は、なけなしの銅貨数枚をカウンターに置いた。これで、優斗の温かいスープ代くらいにはなるはずだ。自分の昼食代など残すつもりはなかった。
「……バカだねぇ、あんたは。出世払いでいいって言ってるのに」
「いえ、払わせてください。必ず戻ってきますから」
そう言い切って、俺は宿を後にした。
◇◇◇
冒険者ギルドは、朝から活気づいていた。
俺が受付に向かうと、アンナさんがすでに書類を用意して待っていた。その顔には、隠しきれない不安が張り付いている。
「おはよう、湊くん。……本当に行くのね?」
「はい。装備を貸してください」
「これにサインして。装備のレンタル料と、ポーション代、その他諸々……ギルドからの借金という形になるわ」
提示された羊皮紙には、読めない文字が並んでいたが、アンナさんが読み上げてくれた金額は、今の俺が逆立ちしても払えない額だった。
もし生きて戻れなければ、あるいは魔石が採れなければ、俺はどうなるのだろう。奴隷として売られるのか、一生牢屋の中か。
だが、俺は迷わずペンを取り、震える手で『Minato』とサインした。
「契約成立ね。……ついてきて」
裏の倉庫に通され、渡されたのは古びた革の胸当てと、刃こぼれしたショートソード、そして重たいつるはしだった。
どれも使い古されていて、革の匂いと鉄の錆びた匂いが染み付いている。
「いい? 湊くんが向かうのはダンジョンの『第一層』。初心者向けだけど、それでも魔物は出るわ。魔石は壁や地面に埋まっているから、魔力を感じ取って掘るの。……と言っても、魔法が使えないなら勘で掘るしかないわね」
「勘、ですか……」
「そう。キラキラ光る場所や、空気が少し違う場所を探して。……絶対に、無理はしないで。危ないと思ったら走って逃げること。約束よ」
アンナさんは、俺の手に小さな小瓶を押し付けた。下級ポーションだと言う。
彼女の指先が震えているのがわかった。見ず知らずの異世界人のために、ここまで心配してくれる人がいる。その事実に、胸が熱くなる。
「行ってきます。必ず、魔石を持って帰ります」
俺はつるはしを背負い、剣を腰に差した。
重い。
その重さが、命の重さだと言い聞かせて、俺は街の北側にある巨大な洞窟――ダンジョンの入り口へと向かった。
◇◇◇
ダンジョンの中は、ひんやりとした冷気に満ちていた。
入り口付近はまだ外の光が届いていたが、少し進むと完全な闇になった。入り口で借りた魔導ランタンの淡い光だけが頼りだ。
コツン、コツン。
自分の足音が反響して、どこまでも響いていく。
壁は湿っていて、所々に苔が生えている。空気は澱んでいて、カビと土の匂いが充満していた。
「……よし」
俺は第一層の、少し開けた場所で足を止めた。
他の冒険者たちはもっと奥へ進んでいくが、俺には戦闘能力がない。入り口に近い場所で、おこぼれを探すしかないのだ。
壁を見渡す。
どこにでもあるただの岩壁に見える。だが、アンナさんは「勘で掘れ」と言っていた。
俺はランタンを地面に置き、つるはしを構えた。
思った以上に重い。これを振り上げるだけで、痩せっぽちの俺の腕は悲鳴を上げる。
「えいっ!」
ガキンッ!
鈍い音とともに、火花が散った。
硬い。コンクリートを叩いているような硬さだ。手のひらにビリビリと衝撃が走り、骨がきしむ。
削れたのは、ほんの表面のわずかな欠片だけ。
「こんなの……っ、でも、やるしかない!」
俺は歯を食いしばり、何度も、何度もつるはしを振り下ろした。
ガッ、ガキン、ゴッ。
単調な音が洞窟内に響く。
十分も経たないうちに、息が上がった。汗が吹き出し、目に入って染みる。
手のひらの皮がめくれ、血が滲んでくるのがわかった。つるはしの柄が血で滑る。
「はぁ……はぁ……優斗……待ってろ……」
休憩なんてしている暇はない。
一回つるはしを振るうたびに、優斗の命が繋がると信じて。
俺は無心で壁を叩き続けた。
一時間、二時間。
何も出ない。ただの石ころと土が出るだけだ。
通りかかった冒険者たちが、「おいおい、そんな入り口で掘ってどうすんだ?」「物好きなガキだな」と笑って通り過ぎていく。
悔しさと情けなさで視界が歪む。
わかってるよ。俺が一番わかってる。こんな効率の悪いやり方じゃダメだってことくらい。
でも、俺にはこれしかできないんだ。
場所を変えよう。
俺は重い体を引きずり、少し奥へと進んだ。
薄暗い通路の先。ふと、空気が変わったような気がした。
湿度が少し下がり、肌を撫でる風が微かに温かい。
壁の一部が、ランタンの光を反射して微かに光ったように見えた。
「……あそこか?」
吸い寄せられるように近づき、壁に触れる。冷たい岩肌の中で、そこだけほんのりと温かい気がする。
俺は震える手でつるはしを構えた。
渾身の力で振り下ろす。
ガキンッ! ボロッ。
大きな岩の塊が崩れ落ちた。
その奥に、淡い水色の光が見えた。
俺は慌ててつるはしを捨て、泥だらけの手で土を掻き出した。
指先が切れて血が出ても構わない。爪の間に土が入る痛みもどうでもいい。
ポロリ、と。
小指の先ほどの、小さな結晶が掌に転がり落ちた。
「あった……!」
それは、透き通るような水色をした、本当に小さな魔石だった。
クズ魔石と呼ばれるような、価値の低いものかもしれない。
それでも、それは確かに魔力を秘めて輝いていた。
俺にとっては、どんな宝石よりも美しい希望の光だった。
「優斗、あったよ……! これがあれば、もう少しだけ時間が稼げる!」
涙が溢れて止まらなかった。
泥と血と涙でぐちゃぐちゃになった顔で、俺はその小さな石を胸に抱きしめた。
たった一個。でも、ゼロじゃない。
これを優斗に与えれば、数日間くらいは楽になるかもしれない。
希望が見えた。そう思った瞬間だった。
――グルルルルゥ……。
背筋が凍りつくような低い唸り声が、すぐ背後から聞こえた。
喜びが一瞬で氷解し、全身の血が逆流する。
恐る恐る振り返ると、闇の中から二つの赤い光が浮かび上がっていた。
ランタンの光が、その姿を映し出す。
体長は大型犬ほどもあるだろうか。黒い体毛に覆われ、口からはダラダラと涎を垂らした、狼のような魔物。
『ブラックウルフ』。
第一層に現れる魔物の中では、群れをなさずとも凶暴な部類だ。
「あ……」
声が出ない。
足がすくんで動かない。
殺気。明確な「捕食」の意志が、俺に向けられている。
逃げなきゃ。アンナさんとの約束。「危ないと思ったら走って逃げること」。
でも、体は石になったように動かない。
ウルフが、ゆっくりと姿勢を低くした。
飛びかかってくる予備動作だ。
俺の手には、ショートソードがある。でも、剣道の経験すらない俺に、何ができる?
いや、そもそも腰の剣を抜くことすら忘れていた。
「……だめ、だ……」
死ぬ。殺される。
その恐怖が頭を支配する。
だが、次の瞬間、俺の脳裏に浮かんだのは、優斗の笑顔だった。
『にーちゃん、だいすき』
あのあどけない声。温かい手。
(この魔石を……取られるわけにはいかない)
俺は咄嗟に、魔石を握りしめたまま体を丸め、背中を向けた。
戦うことも、逃げることもできないなら。
せめて、この石だけは守らなきゃ。
俺が食われている間に、誰かが通りかかって、この石を拾ってくれるかもしれない。遺品の中に、これがあれば。
そんな馬鹿げた、ほとんど不可能な思考が巡る。
「うああああああああっ!!」
俺は叫びながら、亀のようにうずくまった。
直後、ドンッ! という衝撃が背中を襲った。
鋭い牙が、安物の革鎧ごと俺の肩に食い込む感覚。
熱い。痛い。
肉が裂け、骨がきしむ音が耳元で聞こえる。
「ぐっ、うぅうううっ!!」
激痛に目の前が真っ白になる。
獣の生臭い息がかかる。
もう一度噛まれたら、首を持っていかれる。
死ぬんだ。俺は、ここで死ぬんだ。
ごめん、優斗。ごめん、母さん。
約束、守れなくてごめん。
豚汁、作ってやれなくてごめん。
意識が遠のきかけたその時。
ふと、昨日の男の声が蘇った。
『諦めるか、あがくか』
(あがく……俺は、あがくんだ……!)
俺は霞む視界の中で、魔石を握りしめたままの手で、腰の剣に手を伸ばした。
抜けない。手が震えて力が入らない。
それでも、諦めたくなかった。
ただの高校生で、何の力もない俺だけど。
大切な家族のために、命を燃やすんだ。
ウルフが喉笛を狙って大きく口を開けたのが、スローモーションのように見えた。
俺は、終わりの時を覚悟して、きつく目を閉じた。
――その時。
ドォォォォォォン!!
凄まじい爆音とともに、洞窟全体が揺れた。
俺に食らいつこうとしていたウルフの気配が、一瞬にして消し飛んだ。
代わりに、強烈な熱風が俺の頬を撫でていく。
痛みが引いていくような、不思議な感覚。
恐る恐る目を開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
俺を襲っていたはずのウルフは跡形もなく消え失せ、壁が大きくえぐれていた。
そして、舞い上がる土煙の向こうから、一人の男が歩いてくる。
深々とフードを被った、あの巨躯。
「……まったく。見ていられんな」
呆れたような、しかしどこか安堵したような声。
俺は薄れゆく意識の中で、その姿を見上げた。
「……あ……な、た……は……」
そこで、俺の意識はプツリと途切れた。
最後に感じたのは、硬い岩の感触ではなく、誰かの太く逞しい腕に抱き止められる温もりだった。
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