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第3話:推しは安らぎ、王子は危険
しおりを挟む異世界転移から三日目。
俺、橘真(二十二歳・会社員)は、人生の真理に到達していた。
「……ハルくん、君は天使か何かなの?」
「え? 何言ってるの、橘。ただの紅茶だよ?」
放課後の寮の部屋。
同室のハルが、湯気の立つティーカップを俺の前に置いてくれた。
茶葉のいい香り。そして、テーブルには手作りのクッキー。
部屋は完璧に整頓され、俺が脱ぎ散らかした制服(あの恥ずかしいマント付きのやつ)も、いつの間にかハンガーにかけられている。
「いや、ただの紅茶じゃない。これは聖水だ。そして君は神だ」
「大袈裟だなあ。僕、寮係の補佐だからこういうの慣れてるだけだよ」
ハルは困ったように笑いながら、自分の分のカップを持って向かいに座った。
ハル・アッシュフィールド、十六歳。
年下だ。俺より六つも年下だ。なのに、この包容力はどうだ。
俺が仕事(実況と編集)に追われてコンビニ弁当とエナドリで命を繋いでいた日々が、前世のように思えてくる。
(……これが『スパダリ』ってやつか? いや、ハルは攻略対象じゃないけど)
俺はクッキーを齧りながら、しみじみと感動していた。
あのキラキラして突飛な行動ばかりする攻略対象たち(奇行種)と違い、ハルは常識人だ。話が通じる。そして優しい。
この過酷なBLゲームの世界で、唯一心休まるオアシス。
「俺、決めたよハル。この学園生活、君の背中についていく。金魚のフンと言われようとも」
「ふふ、大歓迎だよ。僕も橘といると楽しいし」
「うっ……眩しい……! その笑顔だけで白飯三杯いける……」
俺は涙ぐみながら紅茶を啜った。
よし、友情エンドルートは順調だ。このままハルと平和な学園ライフを送り、恋愛フラグを全てへし折って元の世界に帰還する。完璧な作戦だ。
——そう、この時はまだ、俺は楽観視していたのだ。
『推し』と仲良くすることが、一番厄介な『彼』の逆鱗に触れる行為だということに。
翌日の昼休み。
俺とハルは、中庭のベンチで昼食をとっていた。
学食のサンドイッチだが、ハルと一緒に食べればミシュランの味だ。
「そういえば橘、魔法の実技はどうだった? 先生に怒られてたけど」
「やめて、思い出させないで。俺だけ杖から『ポンッ』って鳩が出ただけだったんだから。手品かよ」
「あはは! でも、無属性魔法って珍しいから、きっと何か才能があるんだよ」
ハルが俺の肩を叩いて励ましてくれる。
その距離感の近さに、少しだけドキッとする。いや、BL的な意味ではなく、パーソナルスペース広めの現代人としての反応だ。
だが、周囲の視線は違った。
……視線?
背筋に、冷たいものが走った。
ゾワリ、とした感覚。誰かに見られている。それも、ただならぬ執着を持って。
「……?」
俺はサンドイッチを口に運ぶ手を止めて、視線の方角——校舎の二階テラスを見上げた。
そこに、彼がいた。
ルーク・アージェント。
手すりに頬杖をつき、無表情でこちらを見下ろしている。
遠目でもわかる美貌。そして、その頭上に浮かぶ禍々しい数値。
『 ▼ -98 』
……ヒエッ。
目が合った瞬間、俺は喉にパンを詰まらせかけた。
動かない。あのゲージ、俺が転移してきてから1ミリも動いていない。
これってバグ? それとも俺の存在自体がマイナス要素なの?
「……橘? どうしたの、顔色が悪いよ」
「あ、いや……なんでもない。ちょっと悪寒が……」
俺が視線を逸らそうとした時だ。
ルークが、スッ、と指を動かした。
何かを指示するような、あるいは魔法を行使するような、短いジェスチャー。
ドササササッ!!!
「うわっ!?」
突如、俺たちの頭上にある大樹から、大量の木の葉と木の実が落下してきた。
それも、ピンポイントで俺とハルの間を分断するように。
「ごほっ、ごほっ! なんだ!?」
「大丈夫かい、橘!?」
俺たちは慌ててベンチから飛び退いた。
幸い怪我はないが、ランチタイムは台無しだ。
見上げると、テラスにいたはずのルークの姿は、いつの間にか消えていた。
「……今の、絶対偶然じゃないよな」
「風のいたずらかな……? 変だね、今日は風なんてないのに」
ハルは不思議そうに首を傾げているが、俺の直感(ゲーマーの勘)が告げている。
あれは嫌がらせだ。
俺がハルと仲良くしているのが気に食わなかったのか? 王族の自分を差し置いて、平民同士でつるんでいるのが目障りだったのか?
『 -98 』の意味を、俺は改めて噛み締めた。
嫌われてる。マジで嫌われてる。
これ以上刺激しないようにしなければ。
その日の放課後。
俺は一人で図書室に向かっていた。ハルは寮の仕事があるため別行動だ。
異世界の歴史や常識を少しでもインプットしておかないと、ボロが出るからだ。
「えーっと、『魔力循環の基礎』……これかな」
高い棚にある本に手を伸ばす。
届かない。身長175センチはあるはずなんだが、この世界の棚は巨人仕様か?
「よいしょ……っ」
背伸びをして指先をかけた、その時。
背後から、誰かの腕が伸びてきた。
白い手袋に包まれた手が、俺の狙っていた本を軽々と抜き取る。
「あっ、すみませ——」
振り返り、俺は言葉を失った。
至近距離。
整いすぎた顔。アメジストの瞳。
ルーク・アージェントが、俺の背後に立っていた。壁ドンならぬ、本棚ドンに近い体勢で。
「……ル、ルーク様」
心臓が跳ねた。
怖い。シンプルに怖い。
頭上のゲージは相変わらず『 -98 』。点滅こそしていないが、威圧感がすごい。
「……貴様は、この本が読めるのか」
開口一番、それかよ。
馬鹿にされている。
「……一応、これでも勉強はしておりましたので。あの、その本を……」
「ふん」
ルークは本を俺に渡さず、パラパラとページをめくり始めた。
興味なさそうだ。完全に俺をからかっている。
俺は意を決して、一歩下がった。
物理的距離を取る。そして、精神的距離も取る。これが「嫌われている相手」への正しい対処法だ。
「申し訳ありません、ルーク様。私の手が届かなかったばかりに、お手間を取らせてしまいました。その本はもう結構ですので、私はこれで失礼いたします」
完璧な敬語。
完璧なビジネスマナー。
一介の生徒が王子に対してとるべき、最上級の「他人行儀」だ。
これで彼も、鬱陶しい俺がいなくなって清々するはず——。
ダンッ!!
耳元で爆音がした。
ルークが、本を棚に叩きつけた音だった。
「……ひっ」
「……なぜ、引く」
低い声。
ルークの瞳が、揺らいでいた。怒り? いや、もっとドロドロとした何か。
彼は俺に詰め寄る。一歩下がる俺を、さらに追い詰める。
「あの男……ハル・アッシュフィールドには、あんなに無防備な顔で笑いかけていたくせに」
「え?」
「私には、その張り付いたような笑顔と、他人行儀な言葉しか向けないのか? ……私が、王子だからか?」
違う。お前が俺を嫌ってる(マイナス98)からだよ!
そう叫びたいが、言えるわけがない。
ルークの顔が近づく。吐息がかかる距離。
彼の瞳の奥に、昏い炎が見えた気がした。
「不愉快だ。……貴様のその、何もかも分かったような顔をして、私を線引きする態度が」
ルークの手が伸びてくる。俺の頬に触れようとして——寸前で止まる。
まるで、触れたいのに触れられない、見えない壁があるかのように。
「……私の前から消えろと言ったはずだ。なのに、なぜ視界に入る」
言ってることとやってることが矛盾してますよ殿下!
壁際に追い詰めといて「消えろ」は理不尽すぎる!
「も、申し訳ありません! 以後、気をつけますので!」
俺は脱兎の如く、その隙間を潜り抜けて逃げ出した。
背中に、突き刺さるような視線を感じながら。
「はぁ、はぁ……っ!」
廊下の角を曲がり、心臓を押さえる。
怖かった。マジで怖かった。
あれがヤンデレ王子のプレッシャーか。
ただ怒られているだけなのに、なぜか「食われる」という動物的な恐怖を感じた。
「……ん? 待てよ」
俺はふと、違和感を覚えた。
ルークは確かに怒っていた。
でも、最後の表情。
怒りの中に、一瞬だけ——『寂しさ』のような、縋るような色が混じっていなかったか?
「……いやいや、ないない。マイナス98だぞ? 俺の幻覚だ」
俺は首を振って、その思考を打ち消した。
あんな危険人物に同情したら、バッドエンドへ一直線だ。
俺にはハルがいる。ハルとの友情エンドだけを目指せばいいんだ。
だが、俺はまだ知らなかった。
俺が逃げ出した後の図書室で。
ルークが、俺が触れようとしていた本の背表紙を、愛おしそうに、そして執拗に撫で回していたことを。
そして、その頭上のゲージが、マイナス98のまま、赤黒く明滅し始めていたことを。
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