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「あっちゃん。俺と少し散歩しない?」
浩哉に声をかけられたのは、居間で佳奈子の淹れてくれたカフェオレを飲み終わった時だった。露原家ではコーヒーといえば、ミルクたっぷりの甘くて冷たいカフェオレを指すらしい。浩哉は席を外していたが、頃合いを見計らったように二階から降りてきて、淳美を外へ誘った。赤らんだ目元を見られるのは決まりが悪い淳美だったが、隠しようもないので頷いた。こういうふうに少しずつ、干渉を許し合っていくことで、進む何かもあるのだろう。
外に出ると、空は早くも鴇色の薄衣を纏い始めていた。佳奈子と話し込んでいたからか、もう時刻は四時近い。一軒家が整然と並んだ道路の先、小さな公園に向かって淳美と浩哉は歩いた。
「浩哉。予後って言葉、知ってる?」
「予後? ああ、そういえば、じーちゃんの通ってる病院で聞いた」
「予後は、手術や病気を経験した後で、これからどの程度回復していくか、その見通しを指す言葉。私って、小さい頃からおじいちゃんもおばあちゃんも、一人もいないって話してたでしょ。でもね、本当は違うんだ。小学生の頃にはまだ、おじいちゃんが一人いたんだ」
浩哉の歩調はゆっくりだが、淳美に合わせてくれているのが分かる。淳美もそんな浩哉に自然と合わせて、隣に並んで歩いている。今の淳美と浩哉だから、こうして二人で並んで歩けるのだ。三つしか歳が違わないから、互いのペースを尊重できる。それが難しい相手もいるのだということを、この夏を迎えるまで知らなかった。
「『予後が良い』って言われたら、後遺症もなく順調に回復していくことを指すの。だけど『予後が悪い』って言われたら、後遺症が残ったりする場合がある……って、ごめん。こんな時にする話じゃなかったね」
「続けてよ。あっちゃんのじーちゃんの話、聞きたいよ」
「ほとんど何も覚えてないの。予後が良いって、言われてたってことだけしか。なのに……」
あの夏が、淳美の祖父にとっての最後の夏となった。予後の良し悪しなんて、当てにならない。
「私のおじいちゃんのこと、もっとちゃんと、覚えていたかったのに。私って、ひどい孫なのかもしれない」
「あっちゃんらしくないよ、そういう思ってもないことを口にするのってさ」
「それ、私の台詞をそのまま使ってるじゃない」
「バレた? っていうか、あっちゃんはひどい孫じゃないよ。むしろ、家族愛に溢れてるね。俺がそのじーちゃんだったら、可愛いあっちゃんにこんなに思ってもらえるなんて、人生最高の一日が永遠に続くみたいな気分になるよ」
「もう、馬鹿」
悪態をつきながら、その程度のことだったのかと、肩透かしを食らった気分になっていた。浩哉にかかれば淳美の抱えた悩みなんて、ちっぽけなものに変わってしまう。浩哉には予後の色が見えなくとも、マジシャンは菊次だけではなかったのだ。
赤い砂利で舗装された公園に入り、幼い頃に二人でよく遊んだブランコの前まで来ると、浩哉は普段通りの声で、相変わらずの台詞を言った。
「あっちゃん。結婚しよう」
淳美が振り返ると、浩哉は泰然としたもので、アルデンテよりもう少し柔らかく茹でたスパゲティみたいに笑っていた。笑い方までいつも通りだ。
「実は、あっちゃんに謝らないといけないことがあるんだ」
「ちょっと、何よ」
淳美は、たじろいだ。前振りの入れ方が祖父と孫で同じだから、嫌な予感がしたのだ。
「先々週の、俺が就活で家にいなかった土曜日に、あっちゃんがじーちゃんと話してた内容、実は聞いちゃったんだ」
「聞いたって……まさか、おじちゃんから?」
「うん」
「全部?」
「全部」
「浩哉には言わないでって、言ったのに」
脳裏で菊次が茶目っ気たっぷりに笑うので、頭を抱えたくなってきた。全部筒抜けだったのだ。気まずさから視線を砂場へ逃がす淳美へ、「でも、聞かなくても知ってたよ」と浩哉は言って、あっけらかんと笑った。
「何を知ってたって言うのよ」
「あっちゃんが、俺を選んでくれるってこと」
「どうして、そんなに自信があるのよ」
「だって俺には、あっちゃんだけだし。あっちゃんと幸せに暮らす未来こそが、俺の正しい道なんだよ。もちろん大学を卒業して働いて、収入が安定してからだけど。俺はいつだって本気だよ。あっちゃんを絶対に幸せにするから、俺と結婚してください」
「いいよ」
「えっ」
「えっ、て何よ」
「いや、あと五十回くらいはフラれるものかと」
「さっきまでの自信はどこにいったのよ」
せっかく少しは格好いいと思えたのに、結局格好がつかない浩哉だった。淳美は小さく笑ってから、「でも浩哉、お願いがあるんだ」と申し出た。
「私、結婚しても教師の仕事を続けたい」
ブランコの鎖に手をかけた浩哉が、目を瞬く。淳美も隣のブランコの鎖に触れて、両足をとんと乗せた。
「学校に、気になる子がいたんだ。その子が毎日をきらきらと生きていける手助けになるような教育が、私にできたかどうかは分からない。完璧を目指しても、本当にこれでいいのかなって悩むことばっかり。悩んでる姿を誰かに見せるわけにはいかないから、常にしっかりしていなきゃって、ずっと気が張る毎日だった。――でも、私の存在が、あの子の何かを少しだけ、眩しい方向に変えられたなら、すごく嬉しくて誇らしい。私も、あの子も、まだまだ迷いながら進んでいくんだと思う。だから、まだ、現場にいたい。私は今の学校で三年目だから、来年は違う学校に赴任するかもしれないし、先のことなんて何も分からないけど……それでも」
「いいよ。あっちゃん」
浩哉の返事は、呆れるくらいに早かった。人懐こい顔で笑って、淳美に張り合うようにブランコの立ち漕ぎをし始める。
「家に帰ったらあっちゃんがいる毎日が憧れだったけど、あっちゃんが好きだと思う毎日を、二人で一緒に作っていこうよ。それが俺にとっての『好き』にもなるって、あっちゃんといたら信じられるよ」
言い終えた浩哉は、勢いよくブランコを漕いだ。二本の鎖が大きく撓み、いつの間にか鮮やかさを増した鴇色の空から大地へ向けて、日差しの梯子が掛かっている。入道雲には桔梗色の影があった。露原家の庭に咲く花の色だ。浩哉が全身で飛び込むように向かっていった夕空は、今までに淳美が見たどんな空より、悲しいくらいに美しかった。
「ありがとう。浩哉」
囁くようにそう言って、淳美も快活に笑った。そうして遅れを取り戻すように地面を蹴って、ブランコを勢いよく漕ぎ出した。
*
二人で露原家の庭まで戻ると、窓越しに菊次が居間の一人掛けソファに座っているのが見えた。菊次は肩を並べて帰ってきた淳美と浩哉に気づくと、分かりやすい感嘆の息を吐いてから、目元をぎゅっと細めて微笑して、しゃがれた声で「おかえり」と言った。嬉しそうな声だった。淳美が泣いたことは、忘れているようだった。
忘れてくれてよかったと、淳美は天に感謝した。菊次の手に残る飴玉は、この飴玉がいい。茜色に染まり始めた空の下で、可愛い孫と隣家の娘が、手を繋いで帰ってきた。受け継がれていく家族の記憶の飴玉を、その温かな手のひらに包んでほしい。淳美は全てを忘れたような笑顔で手を振りながら、祈りを込めてそう思った。
その翌々日の朝、菊次は目を覚まさなかった。
佳奈子が呼んだ救急車で再度病院へ運ばれたが、今度は間に合わなかった。
海にも夢にも似た緩やかに流れる時の中へ、菊次は連れていかれてしまった。
浩哉に声をかけられたのは、居間で佳奈子の淹れてくれたカフェオレを飲み終わった時だった。露原家ではコーヒーといえば、ミルクたっぷりの甘くて冷たいカフェオレを指すらしい。浩哉は席を外していたが、頃合いを見計らったように二階から降りてきて、淳美を外へ誘った。赤らんだ目元を見られるのは決まりが悪い淳美だったが、隠しようもないので頷いた。こういうふうに少しずつ、干渉を許し合っていくことで、進む何かもあるのだろう。
外に出ると、空は早くも鴇色の薄衣を纏い始めていた。佳奈子と話し込んでいたからか、もう時刻は四時近い。一軒家が整然と並んだ道路の先、小さな公園に向かって淳美と浩哉は歩いた。
「浩哉。予後って言葉、知ってる?」
「予後? ああ、そういえば、じーちゃんの通ってる病院で聞いた」
「予後は、手術や病気を経験した後で、これからどの程度回復していくか、その見通しを指す言葉。私って、小さい頃からおじいちゃんもおばあちゃんも、一人もいないって話してたでしょ。でもね、本当は違うんだ。小学生の頃にはまだ、おじいちゃんが一人いたんだ」
浩哉の歩調はゆっくりだが、淳美に合わせてくれているのが分かる。淳美もそんな浩哉に自然と合わせて、隣に並んで歩いている。今の淳美と浩哉だから、こうして二人で並んで歩けるのだ。三つしか歳が違わないから、互いのペースを尊重できる。それが難しい相手もいるのだということを、この夏を迎えるまで知らなかった。
「『予後が良い』って言われたら、後遺症もなく順調に回復していくことを指すの。だけど『予後が悪い』って言われたら、後遺症が残ったりする場合がある……って、ごめん。こんな時にする話じゃなかったね」
「続けてよ。あっちゃんのじーちゃんの話、聞きたいよ」
「ほとんど何も覚えてないの。予後が良いって、言われてたってことだけしか。なのに……」
あの夏が、淳美の祖父にとっての最後の夏となった。予後の良し悪しなんて、当てにならない。
「私のおじいちゃんのこと、もっとちゃんと、覚えていたかったのに。私って、ひどい孫なのかもしれない」
「あっちゃんらしくないよ、そういう思ってもないことを口にするのってさ」
「それ、私の台詞をそのまま使ってるじゃない」
「バレた? っていうか、あっちゃんはひどい孫じゃないよ。むしろ、家族愛に溢れてるね。俺がそのじーちゃんだったら、可愛いあっちゃんにこんなに思ってもらえるなんて、人生最高の一日が永遠に続くみたいな気分になるよ」
「もう、馬鹿」
悪態をつきながら、その程度のことだったのかと、肩透かしを食らった気分になっていた。浩哉にかかれば淳美の抱えた悩みなんて、ちっぽけなものに変わってしまう。浩哉には予後の色が見えなくとも、マジシャンは菊次だけではなかったのだ。
赤い砂利で舗装された公園に入り、幼い頃に二人でよく遊んだブランコの前まで来ると、浩哉は普段通りの声で、相変わらずの台詞を言った。
「あっちゃん。結婚しよう」
淳美が振り返ると、浩哉は泰然としたもので、アルデンテよりもう少し柔らかく茹でたスパゲティみたいに笑っていた。笑い方までいつも通りだ。
「実は、あっちゃんに謝らないといけないことがあるんだ」
「ちょっと、何よ」
淳美は、たじろいだ。前振りの入れ方が祖父と孫で同じだから、嫌な予感がしたのだ。
「先々週の、俺が就活で家にいなかった土曜日に、あっちゃんがじーちゃんと話してた内容、実は聞いちゃったんだ」
「聞いたって……まさか、おじちゃんから?」
「うん」
「全部?」
「全部」
「浩哉には言わないでって、言ったのに」
脳裏で菊次が茶目っ気たっぷりに笑うので、頭を抱えたくなってきた。全部筒抜けだったのだ。気まずさから視線を砂場へ逃がす淳美へ、「でも、聞かなくても知ってたよ」と浩哉は言って、あっけらかんと笑った。
「何を知ってたって言うのよ」
「あっちゃんが、俺を選んでくれるってこと」
「どうして、そんなに自信があるのよ」
「だって俺には、あっちゃんだけだし。あっちゃんと幸せに暮らす未来こそが、俺の正しい道なんだよ。もちろん大学を卒業して働いて、収入が安定してからだけど。俺はいつだって本気だよ。あっちゃんを絶対に幸せにするから、俺と結婚してください」
「いいよ」
「えっ」
「えっ、て何よ」
「いや、あと五十回くらいはフラれるものかと」
「さっきまでの自信はどこにいったのよ」
せっかく少しは格好いいと思えたのに、結局格好がつかない浩哉だった。淳美は小さく笑ってから、「でも浩哉、お願いがあるんだ」と申し出た。
「私、結婚しても教師の仕事を続けたい」
ブランコの鎖に手をかけた浩哉が、目を瞬く。淳美も隣のブランコの鎖に触れて、両足をとんと乗せた。
「学校に、気になる子がいたんだ。その子が毎日をきらきらと生きていける手助けになるような教育が、私にできたかどうかは分からない。完璧を目指しても、本当にこれでいいのかなって悩むことばっかり。悩んでる姿を誰かに見せるわけにはいかないから、常にしっかりしていなきゃって、ずっと気が張る毎日だった。――でも、私の存在が、あの子の何かを少しだけ、眩しい方向に変えられたなら、すごく嬉しくて誇らしい。私も、あの子も、まだまだ迷いながら進んでいくんだと思う。だから、まだ、現場にいたい。私は今の学校で三年目だから、来年は違う学校に赴任するかもしれないし、先のことなんて何も分からないけど……それでも」
「いいよ。あっちゃん」
浩哉の返事は、呆れるくらいに早かった。人懐こい顔で笑って、淳美に張り合うようにブランコの立ち漕ぎをし始める。
「家に帰ったらあっちゃんがいる毎日が憧れだったけど、あっちゃんが好きだと思う毎日を、二人で一緒に作っていこうよ。それが俺にとっての『好き』にもなるって、あっちゃんといたら信じられるよ」
言い終えた浩哉は、勢いよくブランコを漕いだ。二本の鎖が大きく撓み、いつの間にか鮮やかさを増した鴇色の空から大地へ向けて、日差しの梯子が掛かっている。入道雲には桔梗色の影があった。露原家の庭に咲く花の色だ。浩哉が全身で飛び込むように向かっていった夕空は、今までに淳美が見たどんな空より、悲しいくらいに美しかった。
「ありがとう。浩哉」
囁くようにそう言って、淳美も快活に笑った。そうして遅れを取り戻すように地面を蹴って、ブランコを勢いよく漕ぎ出した。
*
二人で露原家の庭まで戻ると、窓越しに菊次が居間の一人掛けソファに座っているのが見えた。菊次は肩を並べて帰ってきた淳美と浩哉に気づくと、分かりやすい感嘆の息を吐いてから、目元をぎゅっと細めて微笑して、しゃがれた声で「おかえり」と言った。嬉しそうな声だった。淳美が泣いたことは、忘れているようだった。
忘れてくれてよかったと、淳美は天に感謝した。菊次の手に残る飴玉は、この飴玉がいい。茜色に染まり始めた空の下で、可愛い孫と隣家の娘が、手を繋いで帰ってきた。受け継がれていく家族の記憶の飴玉を、その温かな手のひらに包んでほしい。淳美は全てを忘れたような笑顔で手を振りながら、祈りを込めてそう思った。
その翌々日の朝、菊次は目を覚まさなかった。
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