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いよいよ明日から、小学校は夏休みに突入する。終業式の日は目が眩みそうなほどの青空で、入道雲が力強く天へと立ち上っている。
放課後の生徒たちは、図工室へ立ち寄る者が大半だ。授業で作った工作物を持ち帰らなくてはならないからだ。淳美に挨拶をしにくる子たちもいて、「あっちゃん先生、夏休みはどこに行くの?」と訊ね、次には「デートだ、デートだ」と騒がれた。このパターンを五回ほど繰り返したあとで、正午を過ぎた図工室から子どもの姿はなくなった。しんと静かな青い影が、淳美一人だけになった図工室へ海のように満ちている。潮風が鼻腔を掠め、淳美は両腕をぐっと頭上に伸ばした。子どもたちは長い休みを宿題に追われつつ満喫するが、大人はそう簡単に休めない。夏の仕事に思いを馳せていると、ぎしりと背後で床が軋る音がした。
振り返ると、梶本美里が立っていた。きっと美里だろうと予感があったが、淳美は目を丸くした。Tシャツにデニムのスカート姿の美里の髪は、少年のようなベリーショートに変わっていた。
「美里ちゃん、びっくりした。思いきったイメチェンだね」
「本当は、もっと前からこうしたかった。おさげは、ママが編んでくれてたから」
特に表情もなく言った美里は、首元がさっぱりした髪を揺らした。健康的に日焼けした項も相まって、別人のように様変わりしている。ひょっとしたら美里なりに、母親に気を使っていたのかもしれない。やっぱり淳美の教え子たちは、根は優しくて良い子たちばかりだ。ただ時々少しだけ、桜の木の根っこが出鱈目に地面を割ってのたうつように、まっすぐ綺麗にとはいかないだけで――それでも毎日、成長している。
「三つ編みも可愛かったけど、今の髪型もすごく似合ってる。格好いいね」
「……別に」
居心地悪そうに唇を結んだ美里は、意を決した様子で淳美を見上げた。
「ウサギの絵、完成させた。こないだの、途中だった絵」
「そっか」
頷いた淳美は、目を細めた。美里は、ふいと余所見をした。
「教室でウサギの絵を描いてたら、亜理紗ちゃんに話しかけられた。……上手じゃん、って」
「へえ、亜理紗ちゃんが……美里ちゃんの絵を、上手って言ってくれたんだね」
「うん……顔が怒ってたから、私がまた誰かの絵をまねしたって疑ってるんだ。……あっちゃん先生は、どう思う?」
「その答えは、もう美里ちゃんの心の中にあるんじゃないかな」
桜の絵と丁寧に向き合っていた亜理紗も、美里と同じだったのだ。譲れない感情を抱えた者同士、二学期が始まる頃には、新しい絆を育んでいるかもしれない。
つい頬が緩んだ淳美の心を読んだのか、美里はもじもじした様子でそっぽを向いた。半袖から伸びた右腕は、なぜか背中に隠されている。遅ればせながらそれに気づき、淳美は首を傾げた。
「どうしたの?」
「これ、あっちゃん先生にあげる」
ぶっきらぼうに言った美里が、右腕を突然こちらへ突き出してきた。喧嘩のように繰り出された手へ、淳美は呆れ半分、驚き半分で見入って――言葉を失くしてしまった。
美里が突き出したのは、ポストカードだった。絵具で彩色された真ん中には大きなテーブルがあり、にこにこ笑う女性と白髪の老人が描かれている。二人が囲む食卓には、ミートスパゲティの皿があった。
ここでも、赤いスパゲティなのだ。淳美は笑っていいのか、泣いていいのか、やっぱり名前のつけられない感情で胸がいっぱいになってしまい、口元を手で押さえた。この学校で淳美が涙を見せる時は、生徒たちが卒業していく時だけだと決めている。
「……先生のおじいちゃんを知らないから、想像だけど。先生とおじいちゃん以外の人には、ぜったい見せないでね」
「見せないよ。大事にする」
「おじいちゃんの好きなもの、スパゲティだったよね?」
「うん、そうだよ。合ってるよ」
「……あっちゃん先生、悲しいの?」
「違うよ、嬉しいんだよ」
ひたすらに目頭の熱をやり過ごそうとしていると、美里がしばし考えこむように黙ってから、ぴたりと淳美の腕に身体を寄せてきた。子どもの高い体温が、ブラウスとスカート越しに伝わってくる。美里は、ぽつりと小声で言った。
「うちでは、誰かが悲しい時、こうする」
寂しさの乗り越え方にも、家庭のカラーがあることを淳美は知った。すっかり短くなった美里の髪を撫でながら、淳美は菊次の瞳で見た世界へ思いを巡らせた。
この世界は本当に、数えきれないほどの色で溢れている。
放課後の生徒たちは、図工室へ立ち寄る者が大半だ。授業で作った工作物を持ち帰らなくてはならないからだ。淳美に挨拶をしにくる子たちもいて、「あっちゃん先生、夏休みはどこに行くの?」と訊ね、次には「デートだ、デートだ」と騒がれた。このパターンを五回ほど繰り返したあとで、正午を過ぎた図工室から子どもの姿はなくなった。しんと静かな青い影が、淳美一人だけになった図工室へ海のように満ちている。潮風が鼻腔を掠め、淳美は両腕をぐっと頭上に伸ばした。子どもたちは長い休みを宿題に追われつつ満喫するが、大人はそう簡単に休めない。夏の仕事に思いを馳せていると、ぎしりと背後で床が軋る音がした。
振り返ると、梶本美里が立っていた。きっと美里だろうと予感があったが、淳美は目を丸くした。Tシャツにデニムのスカート姿の美里の髪は、少年のようなベリーショートに変わっていた。
「美里ちゃん、びっくりした。思いきったイメチェンだね」
「本当は、もっと前からこうしたかった。おさげは、ママが編んでくれてたから」
特に表情もなく言った美里は、首元がさっぱりした髪を揺らした。健康的に日焼けした項も相まって、別人のように様変わりしている。ひょっとしたら美里なりに、母親に気を使っていたのかもしれない。やっぱり淳美の教え子たちは、根は優しくて良い子たちばかりだ。ただ時々少しだけ、桜の木の根っこが出鱈目に地面を割ってのたうつように、まっすぐ綺麗にとはいかないだけで――それでも毎日、成長している。
「三つ編みも可愛かったけど、今の髪型もすごく似合ってる。格好いいね」
「……別に」
居心地悪そうに唇を結んだ美里は、意を決した様子で淳美を見上げた。
「ウサギの絵、完成させた。こないだの、途中だった絵」
「そっか」
頷いた淳美は、目を細めた。美里は、ふいと余所見をした。
「教室でウサギの絵を描いてたら、亜理紗ちゃんに話しかけられた。……上手じゃん、って」
「へえ、亜理紗ちゃんが……美里ちゃんの絵を、上手って言ってくれたんだね」
「うん……顔が怒ってたから、私がまた誰かの絵をまねしたって疑ってるんだ。……あっちゃん先生は、どう思う?」
「その答えは、もう美里ちゃんの心の中にあるんじゃないかな」
桜の絵と丁寧に向き合っていた亜理紗も、美里と同じだったのだ。譲れない感情を抱えた者同士、二学期が始まる頃には、新しい絆を育んでいるかもしれない。
つい頬が緩んだ淳美の心を読んだのか、美里はもじもじした様子でそっぽを向いた。半袖から伸びた右腕は、なぜか背中に隠されている。遅ればせながらそれに気づき、淳美は首を傾げた。
「どうしたの?」
「これ、あっちゃん先生にあげる」
ぶっきらぼうに言った美里が、右腕を突然こちらへ突き出してきた。喧嘩のように繰り出された手へ、淳美は呆れ半分、驚き半分で見入って――言葉を失くしてしまった。
美里が突き出したのは、ポストカードだった。絵具で彩色された真ん中には大きなテーブルがあり、にこにこ笑う女性と白髪の老人が描かれている。二人が囲む食卓には、ミートスパゲティの皿があった。
ここでも、赤いスパゲティなのだ。淳美は笑っていいのか、泣いていいのか、やっぱり名前のつけられない感情で胸がいっぱいになってしまい、口元を手で押さえた。この学校で淳美が涙を見せる時は、生徒たちが卒業していく時だけだと決めている。
「……先生のおじいちゃんを知らないから、想像だけど。先生とおじいちゃん以外の人には、ぜったい見せないでね」
「見せないよ。大事にする」
「おじいちゃんの好きなもの、スパゲティだったよね?」
「うん、そうだよ。合ってるよ」
「……あっちゃん先生、悲しいの?」
「違うよ、嬉しいんだよ」
ひたすらに目頭の熱をやり過ごそうとしていると、美里がしばし考えこむように黙ってから、ぴたりと淳美の腕に身体を寄せてきた。子どもの高い体温が、ブラウスとスカート越しに伝わってくる。美里は、ぽつりと小声で言った。
「うちでは、誰かが悲しい時、こうする」
寂しさの乗り越え方にも、家庭のカラーがあることを淳美は知った。すっかり短くなった美里の髪を撫でながら、淳美は菊次の瞳で見た世界へ思いを巡らせた。
この世界は本当に、数えきれないほどの色で溢れている。
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