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38 囚われの迷子
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葵は走っていた。
階段を駆け下り、校舎の外と飛び出し、捜索ルートをその最中に脳内で組み立てながら走っていた。
教室で泰介と仁科の荷物を見つけた時点で二人の不在は分かっていたが、それでも葵は無駄骨を承知で二人の姿を探していた。まずは一通り高校を一周し、それで駄目なら校外へ出るつもりだった。今は帰還していなくとも行き違いでの帰還の可能性を疑い、そこへ期待をかけたのだ。
そして陸上部の先輩と思しき生徒へ泰介を見ていないか訊ねたが、そこで返ってきた答えに、葵は唖然としてしまった。
「吉野なら、今頃走ってると思うぞ」
「……へ?」
おかしい。そう思ったがその場では口を噤んだ。葵はクラブ棟に背を向けてから、予期せず得られた答えの歪さに、顔色を青くして考える。
おかしい。やはり思う。
――泰介が、走っている?
いつものように? 校庭や校舎の外周を?
葵はクラブ棟を離れると、グラウンドへ降りる階段前で立ち止まった。冷たく吹きつける秋風が、黒髪とスカートを揺らしていく。ローファーに履き替えた靴が砂を踏んで、ざりっと乾いた音を立てた。乱れる髪を掻き揚げながら、葵はグラウンドをたった一人で見下ろした。
四方を金網に囲まれた御崎川高校の校庭には、今やたくさんの生徒の姿があった。もうすぐ始業開始五分前の予鈴が鳴る所為か、忙しなく校庭を横切って登校する姿が目立つが、のんびり歩く生徒も多い。白んだ空は時間と共に青さを増して、それでいて薄いベールを被せたような、優しい淡さを湛えていた。
葵の眼前に広がった光景は、日常だった。
その光景のあまりの普通さに、一瞬、分からなくなる。
〝ゲーム〟に参加していた事自体が、悪い夢なのではないか。そんな錯覚を覚えるほどに、この光景は普通過ぎた。込み上げてきた郷愁の熱さが、胸に迫る。
――本当に、夢だったら。
葵は、唇を噛みしめる。本当に夢だったら、どれだけいいだろう。心からそう思った。
だが、葵はもう気づいていた。
〝ゲーム〟の真実の一端を握るのは、自分だけだ。そして気づいてしまった以上、その事実から目を背ける事はできなかった。
だからこそ、見つけなくてはならなかった。
〝ゲーム〟を、終わらせる為に。〝アリス〟の正体が、分からないままでも。それでも葵にできる事があるのだと、それだけは確信していたのだ。
ただその役割が何なのかまでは、葵はまだはっきり掴めていなかった。
そして何故理解が届かないのかは、もう自分でも気づいている。
――情報の、不足だった。
考えてみれば葵は、結局仁科から話を聞けずじまいだった。〝放送〟をきっかけに行先を分断されてしまったので、葵は仁科の抱えた葛藤をほとんど何も知らない。
葵は――〝アリス〟を、仁科だと考えていた。
――それ、多分間違ってるわよ。
その推測を葵は言葉にしなかったはずだが、あの少女には見破られ、否定されている。だがそれでも葵は、この〝ゲーム〟に仁科がどれほど多大に関わっているのかは認識しているつもりだった。
そしていまだに、〝アリス〟だという考えを捨て切れずにいる。
葵にはまだ、分からない事が多すぎた。
だが同時に、微かな安堵も感じていた。
おそらく葵が必要としている情報は、仁科か、あるいは泰介が持っている気がするのだ。
宮崎侑。その名を、葵は反芻する。
〝彼女〟の事を、知る必要があった。そして仁科が〝彼女〟の鍵なのだ。
だから葵のすべき事は、仁科の事をもっとよく知る事かもしれない。ただ、それを思うと少し複雑で、少し気が咎め、そして少し、悲しくなった。
葵は気弱な方へ振れた感情を矯正するように首を振り、再度グラウンドを見下ろす。生徒の登校ラッシュの光景に混じって、グラウンドを走る運動部員の姿を見つけたが、案の定その中に泰介の姿は見当たらなかった。
「うーん……」
葵は首を捻る。何だか腑に落ちなかった。仮にも〝ゲーム〟の途中だ。全てを投げ出して陸上部の活動へ向かう泰介など想像もつかないし、不自然だ。とはいえ校舎の外周を走っている可能性もある。葵は一応思案したが、やはり腑に落ちなかった。泰介に限って、と思う。
あの泰介が、突然失踪する形になった葵を放置して、あんなにも感情の掴み方が不安定になっている仁科をも放置して、部活などするだろうか。
葵は即断する。あり得ない。こんなものは逡巡するまでもなかった。くるりと踵を返した葵は、背後の昇降口へローファーの踵を鳴らしながら駆け込んだ。この情報を信頼するには、あまりに状況が怪し過ぎた。あの先輩には悪いと思うが、葵はただ目撃情報を募っただけなのだから、真に受ける事もないだろう。
そして、気づく。こう割り切ると、泰介の目撃情報はやはり皆無に等しかった。
「……」
最初から、覚悟の上での捜索だった。あの〝校舎〟から帰還するとどこへ戻されるかは不明だが、泰介の方の心当たりは一応当たった。
そうなると次は仁科になるのだが、こちらは骨が折れそうだった。今度は校外を広範囲に回る事になる上に、放浪癖のある仁科の行先など、葵には把握しきれないからだ。元々外を探しに行く気ではいたが、それでも捜索範囲を絞り込めないという難点を、葵は泰介の姿を探しながらずっと煩悶していたのだ。
普段仁科がどの辺りをうろうろしているのかも、実は全然知らないでいる。
そういった詮索を仁科はあまり好まないだろうと思い、敢えて訊かないでいたのだが、こんな事になるのなら訊いておけばよかったと思う。後悔しても遅い上に身勝手だと分かっていたが、それでも悲しさが込み上げて、胸がいっぱいになってしまった。
思い知らされる。
葵は、こんなにも仁科を知らない。
葵でもこれだけ知らないというのに、他の誰が仁科の事を知っているというのだろう。泰介なら同じ男子という事で幾らか分かりあえる事もあるかもしれないが、葵が見る限り、二人の友情は少しばかり捻くれている。それが何だか微笑ましくて葵は会話する二人を見るのが好きだったが、いざこういう局面に立たされてみると、泰介が知る仁科要平は、葵の知る仁科要平と変わらないか、ベクトルが違うだけの同じ深さのような気がした。
御崎川での、仁科のスタンスを思う。誰とも群れずに孤高に過ごし、斜に構えた態度をあまり崩そうとしない、仁科要平の事を思う。少し人を食ったようなところはあるものの、話してみれば思っていたよりもずっと朴訥とした喋り方をしていて、時々だが素直な笑みや言葉も覗く、そんな仁科の顔を思い出す。
それでも葵は、仁科を知らな過ぎた。それを、思い知らされる。
――仁科、泰介とまだ一緒にいてくれてるかな。
葵はローファーを脱いで、昇降口の簀子を踏みながら、思う。
――喧嘩、してないかな。
思わず、苦笑が零れた。絶対、している。だが、それでも。
――泰介。仁科をお願い。
祈るような気持ちで、思う。
泰介にも仁科にも会えない今の葵にできるのは、二人を探す事と、ただ二人の無事を願う事だけだ。そんな事しかできない自分が不甲斐なくも思ったが、二人に会わなければ何も始まらないのだ。葵はまだ検めていない校舎の廊下を見回る為に、上履きを再度履き直し、歩き始めた。
その時、唐突に声が掛けられた。
「葵! おはよっ」
びくりとした。心臓が跳ねる。聞き覚えのある声だった。
だが、今ここで出会って、喜ぶべき相手なのか。葵にはその判断がつかず、瞬時にできなかった判断が、葵に泰介の不在を思い出させた。
何故か、鳥肌が立った。舟木朝子を思い出す。そして先程の、陸上部の先輩も。
――吉野泰介は、走っている。
皆が、そう言っている。その台詞が軛のように、葵をこの場へ繋ぎ止める。振り返るのが怖くなった。だが怖がる理由など一つもないのだ。葵はおそるおそる、昇降口を振り返った。
「……さくら。……敬くんも」
秋沢さくらがいた。そして隣には、狭山敬も立っていた。
二人は今しがた登校してきたばかりのようで、昇降口からこちらへ手を振っている。葵はその様子を、ぎこちなく強張った顔で見つめた。
――吉野泰介は、走っている。
声が、フラッシュバックする。泰介は、陸上部で、走っている。
「おはよう、葵ちゃん」
混乱する葵をよそに、敬が朗らかな声で言った。
「お……おはよう。二人とも」
葵は、なんとか笑顔を取り繕う。言葉尻ははっきりと震えていて、訊けば誰もが怪訝に思うようなか細い声だったが、それでも葵の挨拶を聞いた二人は、にこりと笑顔を返す。
下駄箱が等間隔に並ぶ昇降口の扉の前で、二人は並んで立っていた。木製の扉に嵌められた窓から朝日が白く降り注ぎ、二人の立ち姿は僅かだが、逆光で黒い。
こ――――ん。と。間延びした音が、沈黙する三者の間に生徒達の喧騒を伴って流れ、響き渡る。始業開始、五分前のチャイムだ。
「…………」
無言、だった。
葵は半端な笑顔を浮かべたまま、その場から動く事ができなかった。
目の前のさくらと敬の二人もまた、昇降口の戸を塞ぐように立ったまま、身動き一つ取らない。背後からの生徒の侵入を阻むように、門番のように立っている。
「……っ」
異様な沈黙は、まだ続く。葵のぎこちない笑顔が、沈黙の中でじわじわ崩れていく。威圧感を放つ二人は、ただただ笑顔でそこにいる。
――不気味だった。
いつまで続くか分からない沈黙に耐え兼ね、葵はついに、空気の塊を吐きだすように、言った。
「……え……と。どうした、の……?」
「どうもしないよ」
あっさりと、さくらが答えた。
そしてそれが――決壊の合図となった。
「葵。どこ行ってたの?」
「え?」
「手ぶらじゃん。ねえ、手ぶらで、どこ行ってたの? 葵、今ローファーに履きかえたでしょ? でも荷物は持ってないから、一度教室に来て置いてったってとこかな? ねえ、葵、教室にいたんでしょ? それなのに、手ぶらでどこに行ってたの? ……それとも、どこかに行くの? ねえ、どこかに行くの? ねえ、どこかに行くの? ねえ、どこかに行くの?」
「……っ!? ちょっと、さくら!?」
唖然とした。
すらすらと淀みなく喋り始めたさくらの語り口は鋭利だった。葵に反論する隙を与えない会話の運びは流れるように滑らかで、どこにも反論できなかった。葵の行動を逐一見ていたとしか思えない言葉の内容に理解が及んだ瞬間、肌が粟立つほどの恐怖に襲われ、葵は口元を抑えて後ずさった。
さくらは口元をうっすらと笑みの形に吊り上げたが、その目は笑っていなかった。自然体のさくららしくない、ひどく歪な笑みだった。
〝ゲーム〟。
様子のおかしいさくらを見て、頭を過る言葉がそれだった。
――まだ終わってない。
葵は今こそ、本当に気づく。〝ゲーム〟が動き出したのを肌で感じた瞬間だった。
「ああ、泰介かな? 葵ちゃん、泰介を待ってるの?」
言葉に詰まった葵に、今度は敬が言った。
「泰介なら、陸上部で走って」
「ちがう!」
叩き伏せるように、葵は叫んだ。もう限界だったのだ。吉野泰介は陸上部で走っている。誰もがそう答えた。これ以上は耐えられなかった。それを聞くだけで心が悲鳴を上げた。葵は目の前で笑う二人の級友を、きっ、と見返す。涙が浮かびそうになる。だが、駄目なのだ。まだ。葵は、決死の表情で訴えた。
「泰介は走ってなんかない! 教室に鞄があるもん! ……お願い、さくら、敬くん。知ってるなら教えて! 泰介は……仁科は、どこに」
「仁科なんか知らない」
さくらが言った。
緩慢に、声が響く。
だがその声量は、かなりのものだった。
さくらはゆっくりと、だが葵の声を潰すほどの大声で、たったそれだけの台詞を言ったのだ。その大声は何故だか感情に乏しい空っぽの声で、葵は蒼白になる。
今更のように思い至ったのだ。さくらが、仁科へ抱く感情に。
「……さくら……」
小さな罪悪感が、葵の中に生まれた。先日クラスで決めた、修学旅行のグループ割り。その席での自分の我儘を思い出して、葵は思わず目を伏せる。だが同時にこんな場面でも確執を引き合いに出すさくらに対して、小さな反発や悲しみ、そして怒りも一緒に湧き上がった。葵は複雑に混じる感情を抱えたまま、目の前の友達に掛ける言葉を刹那、迷う。
だが、それでも。今はそれどころではないのだ。
葵はさくらを諭すように、そして逆上されないよう、慎重に口を開いた。
「さくら。仁科のことは……私の我儘、きいてくれて嬉しかった。ありがとう」
でも、と葵は続けた。
「ごめんね、今は私、仁科を探してるの。どうしても会って、話さないとだめなの……」
だから、と。葵は揺れる気持ちを噛みしめながら、さくらへ言った。
「仁科と泰介の居場所、もし、知ってるなら……!」
「まだだよ、葵ちゃん」
「え……?」
敬だった。さくらの脇に控えていた敬が、無機質な微笑みを浮かべて、言った。
「まだだよ、葵ちゃん。……夕方まで、待たないと」
場が、寒々しいほど静かになった。まだ駆け込みで登校してくる生徒がたくさんいるはずなのに、異様なまでの静けさがそこに広がり始めていた。
葵は、ようやく気づいていた。
二人が塞いでいる昇降口。そこからは誰も、生徒が入れない。
そしてその通せんぼを見た生徒は、何事もなかったかのように他の昇降口を選んでいた。その顔には扉を塞ぐ生徒への苛立ちも憤懣もなく、ただただ当然のように、進路をくるりと変えている。
二人は、背後からの侵入者を阻んでいるのではない。
葵の退路を、塞いでいるのだ。
――恐怖で、思考が真っ白に塗り潰された。
「葵。教室に行こうよ」
さくらが、不意に動いた。
葵は「ひっ」と悲鳴を上げた。明らかに友人への態度ではなかったが、さくらは構わず葵の手を、ぱしっと音がするほど強く掴んだ。引き摺られ、踏み止まることも叶わず簀子から足が離れてしまう。葵の隣に、敬が並んだ。その顔が微笑んでいるのを見て、悲鳴さえも喉の奥で潰れた。
「どこにも行かないでよ、葵」
さくらが甘く、囁いた。
階段を駆け下り、校舎の外と飛び出し、捜索ルートをその最中に脳内で組み立てながら走っていた。
教室で泰介と仁科の荷物を見つけた時点で二人の不在は分かっていたが、それでも葵は無駄骨を承知で二人の姿を探していた。まずは一通り高校を一周し、それで駄目なら校外へ出るつもりだった。今は帰還していなくとも行き違いでの帰還の可能性を疑い、そこへ期待をかけたのだ。
そして陸上部の先輩と思しき生徒へ泰介を見ていないか訊ねたが、そこで返ってきた答えに、葵は唖然としてしまった。
「吉野なら、今頃走ってると思うぞ」
「……へ?」
おかしい。そう思ったがその場では口を噤んだ。葵はクラブ棟に背を向けてから、予期せず得られた答えの歪さに、顔色を青くして考える。
おかしい。やはり思う。
――泰介が、走っている?
いつものように? 校庭や校舎の外周を?
葵はクラブ棟を離れると、グラウンドへ降りる階段前で立ち止まった。冷たく吹きつける秋風が、黒髪とスカートを揺らしていく。ローファーに履き替えた靴が砂を踏んで、ざりっと乾いた音を立てた。乱れる髪を掻き揚げながら、葵はグラウンドをたった一人で見下ろした。
四方を金網に囲まれた御崎川高校の校庭には、今やたくさんの生徒の姿があった。もうすぐ始業開始五分前の予鈴が鳴る所為か、忙しなく校庭を横切って登校する姿が目立つが、のんびり歩く生徒も多い。白んだ空は時間と共に青さを増して、それでいて薄いベールを被せたような、優しい淡さを湛えていた。
葵の眼前に広がった光景は、日常だった。
その光景のあまりの普通さに、一瞬、分からなくなる。
〝ゲーム〟に参加していた事自体が、悪い夢なのではないか。そんな錯覚を覚えるほどに、この光景は普通過ぎた。込み上げてきた郷愁の熱さが、胸に迫る。
――本当に、夢だったら。
葵は、唇を噛みしめる。本当に夢だったら、どれだけいいだろう。心からそう思った。
だが、葵はもう気づいていた。
〝ゲーム〟の真実の一端を握るのは、自分だけだ。そして気づいてしまった以上、その事実から目を背ける事はできなかった。
だからこそ、見つけなくてはならなかった。
〝ゲーム〟を、終わらせる為に。〝アリス〟の正体が、分からないままでも。それでも葵にできる事があるのだと、それだけは確信していたのだ。
ただその役割が何なのかまでは、葵はまだはっきり掴めていなかった。
そして何故理解が届かないのかは、もう自分でも気づいている。
――情報の、不足だった。
考えてみれば葵は、結局仁科から話を聞けずじまいだった。〝放送〟をきっかけに行先を分断されてしまったので、葵は仁科の抱えた葛藤をほとんど何も知らない。
葵は――〝アリス〟を、仁科だと考えていた。
――それ、多分間違ってるわよ。
その推測を葵は言葉にしなかったはずだが、あの少女には見破られ、否定されている。だがそれでも葵は、この〝ゲーム〟に仁科がどれほど多大に関わっているのかは認識しているつもりだった。
そしていまだに、〝アリス〟だという考えを捨て切れずにいる。
葵にはまだ、分からない事が多すぎた。
だが同時に、微かな安堵も感じていた。
おそらく葵が必要としている情報は、仁科か、あるいは泰介が持っている気がするのだ。
宮崎侑。その名を、葵は反芻する。
〝彼女〟の事を、知る必要があった。そして仁科が〝彼女〟の鍵なのだ。
だから葵のすべき事は、仁科の事をもっとよく知る事かもしれない。ただ、それを思うと少し複雑で、少し気が咎め、そして少し、悲しくなった。
葵は気弱な方へ振れた感情を矯正するように首を振り、再度グラウンドを見下ろす。生徒の登校ラッシュの光景に混じって、グラウンドを走る運動部員の姿を見つけたが、案の定その中に泰介の姿は見当たらなかった。
「うーん……」
葵は首を捻る。何だか腑に落ちなかった。仮にも〝ゲーム〟の途中だ。全てを投げ出して陸上部の活動へ向かう泰介など想像もつかないし、不自然だ。とはいえ校舎の外周を走っている可能性もある。葵は一応思案したが、やはり腑に落ちなかった。泰介に限って、と思う。
あの泰介が、突然失踪する形になった葵を放置して、あんなにも感情の掴み方が不安定になっている仁科をも放置して、部活などするだろうか。
葵は即断する。あり得ない。こんなものは逡巡するまでもなかった。くるりと踵を返した葵は、背後の昇降口へローファーの踵を鳴らしながら駆け込んだ。この情報を信頼するには、あまりに状況が怪し過ぎた。あの先輩には悪いと思うが、葵はただ目撃情報を募っただけなのだから、真に受ける事もないだろう。
そして、気づく。こう割り切ると、泰介の目撃情報はやはり皆無に等しかった。
「……」
最初から、覚悟の上での捜索だった。あの〝校舎〟から帰還するとどこへ戻されるかは不明だが、泰介の方の心当たりは一応当たった。
そうなると次は仁科になるのだが、こちらは骨が折れそうだった。今度は校外を広範囲に回る事になる上に、放浪癖のある仁科の行先など、葵には把握しきれないからだ。元々外を探しに行く気ではいたが、それでも捜索範囲を絞り込めないという難点を、葵は泰介の姿を探しながらずっと煩悶していたのだ。
普段仁科がどの辺りをうろうろしているのかも、実は全然知らないでいる。
そういった詮索を仁科はあまり好まないだろうと思い、敢えて訊かないでいたのだが、こんな事になるのなら訊いておけばよかったと思う。後悔しても遅い上に身勝手だと分かっていたが、それでも悲しさが込み上げて、胸がいっぱいになってしまった。
思い知らされる。
葵は、こんなにも仁科を知らない。
葵でもこれだけ知らないというのに、他の誰が仁科の事を知っているというのだろう。泰介なら同じ男子という事で幾らか分かりあえる事もあるかもしれないが、葵が見る限り、二人の友情は少しばかり捻くれている。それが何だか微笑ましくて葵は会話する二人を見るのが好きだったが、いざこういう局面に立たされてみると、泰介が知る仁科要平は、葵の知る仁科要平と変わらないか、ベクトルが違うだけの同じ深さのような気がした。
御崎川での、仁科のスタンスを思う。誰とも群れずに孤高に過ごし、斜に構えた態度をあまり崩そうとしない、仁科要平の事を思う。少し人を食ったようなところはあるものの、話してみれば思っていたよりもずっと朴訥とした喋り方をしていて、時々だが素直な笑みや言葉も覗く、そんな仁科の顔を思い出す。
それでも葵は、仁科を知らな過ぎた。それを、思い知らされる。
――仁科、泰介とまだ一緒にいてくれてるかな。
葵はローファーを脱いで、昇降口の簀子を踏みながら、思う。
――喧嘩、してないかな。
思わず、苦笑が零れた。絶対、している。だが、それでも。
――泰介。仁科をお願い。
祈るような気持ちで、思う。
泰介にも仁科にも会えない今の葵にできるのは、二人を探す事と、ただ二人の無事を願う事だけだ。そんな事しかできない自分が不甲斐なくも思ったが、二人に会わなければ何も始まらないのだ。葵はまだ検めていない校舎の廊下を見回る為に、上履きを再度履き直し、歩き始めた。
その時、唐突に声が掛けられた。
「葵! おはよっ」
びくりとした。心臓が跳ねる。聞き覚えのある声だった。
だが、今ここで出会って、喜ぶべき相手なのか。葵にはその判断がつかず、瞬時にできなかった判断が、葵に泰介の不在を思い出させた。
何故か、鳥肌が立った。舟木朝子を思い出す。そして先程の、陸上部の先輩も。
――吉野泰介は、走っている。
皆が、そう言っている。その台詞が軛のように、葵をこの場へ繋ぎ止める。振り返るのが怖くなった。だが怖がる理由など一つもないのだ。葵はおそるおそる、昇降口を振り返った。
「……さくら。……敬くんも」
秋沢さくらがいた。そして隣には、狭山敬も立っていた。
二人は今しがた登校してきたばかりのようで、昇降口からこちらへ手を振っている。葵はその様子を、ぎこちなく強張った顔で見つめた。
――吉野泰介は、走っている。
声が、フラッシュバックする。泰介は、陸上部で、走っている。
「おはよう、葵ちゃん」
混乱する葵をよそに、敬が朗らかな声で言った。
「お……おはよう。二人とも」
葵は、なんとか笑顔を取り繕う。言葉尻ははっきりと震えていて、訊けば誰もが怪訝に思うようなか細い声だったが、それでも葵の挨拶を聞いた二人は、にこりと笑顔を返す。
下駄箱が等間隔に並ぶ昇降口の扉の前で、二人は並んで立っていた。木製の扉に嵌められた窓から朝日が白く降り注ぎ、二人の立ち姿は僅かだが、逆光で黒い。
こ――――ん。と。間延びした音が、沈黙する三者の間に生徒達の喧騒を伴って流れ、響き渡る。始業開始、五分前のチャイムだ。
「…………」
無言、だった。
葵は半端な笑顔を浮かべたまま、その場から動く事ができなかった。
目の前のさくらと敬の二人もまた、昇降口の戸を塞ぐように立ったまま、身動き一つ取らない。背後からの生徒の侵入を阻むように、門番のように立っている。
「……っ」
異様な沈黙は、まだ続く。葵のぎこちない笑顔が、沈黙の中でじわじわ崩れていく。威圧感を放つ二人は、ただただ笑顔でそこにいる。
――不気味だった。
いつまで続くか分からない沈黙に耐え兼ね、葵はついに、空気の塊を吐きだすように、言った。
「……え……と。どうした、の……?」
「どうもしないよ」
あっさりと、さくらが答えた。
そしてそれが――決壊の合図となった。
「葵。どこ行ってたの?」
「え?」
「手ぶらじゃん。ねえ、手ぶらで、どこ行ってたの? 葵、今ローファーに履きかえたでしょ? でも荷物は持ってないから、一度教室に来て置いてったってとこかな? ねえ、葵、教室にいたんでしょ? それなのに、手ぶらでどこに行ってたの? ……それとも、どこかに行くの? ねえ、どこかに行くの? ねえ、どこかに行くの? ねえ、どこかに行くの?」
「……っ!? ちょっと、さくら!?」
唖然とした。
すらすらと淀みなく喋り始めたさくらの語り口は鋭利だった。葵に反論する隙を与えない会話の運びは流れるように滑らかで、どこにも反論できなかった。葵の行動を逐一見ていたとしか思えない言葉の内容に理解が及んだ瞬間、肌が粟立つほどの恐怖に襲われ、葵は口元を抑えて後ずさった。
さくらは口元をうっすらと笑みの形に吊り上げたが、その目は笑っていなかった。自然体のさくららしくない、ひどく歪な笑みだった。
〝ゲーム〟。
様子のおかしいさくらを見て、頭を過る言葉がそれだった。
――まだ終わってない。
葵は今こそ、本当に気づく。〝ゲーム〟が動き出したのを肌で感じた瞬間だった。
「ああ、泰介かな? 葵ちゃん、泰介を待ってるの?」
言葉に詰まった葵に、今度は敬が言った。
「泰介なら、陸上部で走って」
「ちがう!」
叩き伏せるように、葵は叫んだ。もう限界だったのだ。吉野泰介は陸上部で走っている。誰もがそう答えた。これ以上は耐えられなかった。それを聞くだけで心が悲鳴を上げた。葵は目の前で笑う二人の級友を、きっ、と見返す。涙が浮かびそうになる。だが、駄目なのだ。まだ。葵は、決死の表情で訴えた。
「泰介は走ってなんかない! 教室に鞄があるもん! ……お願い、さくら、敬くん。知ってるなら教えて! 泰介は……仁科は、どこに」
「仁科なんか知らない」
さくらが言った。
緩慢に、声が響く。
だがその声量は、かなりのものだった。
さくらはゆっくりと、だが葵の声を潰すほどの大声で、たったそれだけの台詞を言ったのだ。その大声は何故だか感情に乏しい空っぽの声で、葵は蒼白になる。
今更のように思い至ったのだ。さくらが、仁科へ抱く感情に。
「……さくら……」
小さな罪悪感が、葵の中に生まれた。先日クラスで決めた、修学旅行のグループ割り。その席での自分の我儘を思い出して、葵は思わず目を伏せる。だが同時にこんな場面でも確執を引き合いに出すさくらに対して、小さな反発や悲しみ、そして怒りも一緒に湧き上がった。葵は複雑に混じる感情を抱えたまま、目の前の友達に掛ける言葉を刹那、迷う。
だが、それでも。今はそれどころではないのだ。
葵はさくらを諭すように、そして逆上されないよう、慎重に口を開いた。
「さくら。仁科のことは……私の我儘、きいてくれて嬉しかった。ありがとう」
でも、と葵は続けた。
「ごめんね、今は私、仁科を探してるの。どうしても会って、話さないとだめなの……」
だから、と。葵は揺れる気持ちを噛みしめながら、さくらへ言った。
「仁科と泰介の居場所、もし、知ってるなら……!」
「まだだよ、葵ちゃん」
「え……?」
敬だった。さくらの脇に控えていた敬が、無機質な微笑みを浮かべて、言った。
「まだだよ、葵ちゃん。……夕方まで、待たないと」
場が、寒々しいほど静かになった。まだ駆け込みで登校してくる生徒がたくさんいるはずなのに、異様なまでの静けさがそこに広がり始めていた。
葵は、ようやく気づいていた。
二人が塞いでいる昇降口。そこからは誰も、生徒が入れない。
そしてその通せんぼを見た生徒は、何事もなかったかのように他の昇降口を選んでいた。その顔には扉を塞ぐ生徒への苛立ちも憤懣もなく、ただただ当然のように、進路をくるりと変えている。
二人は、背後からの侵入者を阻んでいるのではない。
葵の退路を、塞いでいるのだ。
――恐怖で、思考が真っ白に塗り潰された。
「葵。教室に行こうよ」
さくらが、不意に動いた。
葵は「ひっ」と悲鳴を上げた。明らかに友人への態度ではなかったが、さくらは構わず葵の手を、ぱしっと音がするほど強く掴んだ。引き摺られ、踏み止まることも叶わず簀子から足が離れてしまう。葵の隣に、敬が並んだ。その顔が微笑んでいるのを見て、悲鳴さえも喉の奥で潰れた。
「どこにも行かないでよ、葵」
さくらが甘く、囁いた。
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あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
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