月はまだそこにあるか

鹿嶋 雲丹

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第15話 石山まひろ

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「女って、いつまでも子どもを生めるわけじゃないもんねぇ」

 鏡に映るお客様が、笑いながら言った。
 それは、心を深くえぐられるような話題だった。
 お客様のお子さんの話題よりも辛い。
 女性が、子を生むことができるタイムリミット。
 私は今までに何回、繰り返しその記事を読んだだろうか。

「そうですねぇ」

 わかってる。
 その言葉は、私に向けられたものじゃないってことは。でも。
 私は馴染のお客様の話に、なんでもないふりを装って笑顔で頷いていた。
 仕事に集中しよう。集中、集中!
    でないと、私は泣いてしまいそうだった。

 ※ ※ ※

 私は、今日の天気のようにどんよりと曇った心を抱えたまま生きている。
 この二年間、その曇り空が晴れに変わることはなかった。
 いや、それどころか、ますます雲行きは怪しくなってきて、暗くなるばかりだった。
 その原因は、私と夫との関係だ。
 結婚したのは九年前。夫タケルは二十七歳、私は二十五歳だった。

『私はねぇ、お母さんが仲良し三人姉妹だったし、私も三人兄妹だから、子どもは三人産むって決めてるの!』

 子どもは、望めばいつでも授かれると思っていた。
 だから、あんな事を平気で言えたんだ。
 あの頃は……ほんとうに輝く未来しか予想できなかった。
 可愛い三人の子どもたち。かっこよくて、大好きな夫。
 みんなで一緒に、なにをして遊ぼう?
 お弁当持ってお花見……頑張っておいしいお弁当たくさんつくるよ!
 暑くなったらプール……いろんな種類のプールがあるんだよ……私は流れるプールに浮き輪でプカプカするのが好き!
 秋には紅葉狩りに行こう! 赤や黄色やオレンジ……きれいな景色をたくさん見よう!
 私はタケルと二人で花を見るたびに、プールに行くたびに、紅葉を見るたびに、夢を膨らませていった。
 そして、子どもたちが大きくなったら、私もおばあちゃんになる。うちのお母さんみたいに、可愛いおばあちゃんに。
 私、なんて脳天気な夢を抱いていたんだろう。

 結婚して七年が経っても、私たちは子どもに恵まれなかった。
 私に原因が? それとも、タケルに?
 二年前、私たちは何度も話し合った末に、不妊治療の病院を訪れた。

『というわけで、石山さんの場合はご主人の方に原因がありました』

 検査の結果、医師の口から出た言葉。
 それを聞いた瞬間に訪れた暗闇と、強い安心感。
 タケルとの子は、どんなに望んでも授かれない。
 でも、私には問題がないんだ。
 私、子どもが生めるんだ。
 湧き上がってくる、嫌な感情。
 タケルを深く傷つけてしまうだろうその感情は、私がどんなに奥に押し込めようとしても顔を出した。

 やめて。消えて。お願い。
 そんなこと言うけど……私、ずっと悩んできたじゃない。
 もう一人の私が囁く。
 自分が原因で、子どもを授からないんじゃないかって。
 私、お母さんになれないんじゃないかって。
 私のせいで、タケルをお父さんにしてあげられないんじゃないかって。
 ずっと、ずっと不安だったじゃない。
 それが、違うとはっきりわかったんだもの、安心して当たり前よ。

 タケルの運転する車が停まった。
 窓の外は、いつの間にか見慣れた景色になっていた。
 視線を運転席に向けると、ぼんやりと宙を見つめるタケルがいた。
 夢は……変えることにする。
 大丈夫。だって、私にはタケルがいるもの。

『私……タケルを息子だと思うことにするよ。おっきい息子! それに、私にはかわいい姪っ子も甥っ子もいるし……だから、大丈夫だよ!』

 それは、強がりの混じった本心だった。
 タケルと視線がぶつかる。
 そこで、私の笑顔がいつものと違うんだ、というのがわかった。
 タケルの瞳の、かすかな揺れ。
 負けず嫌いのタケルが滅多に見せない、感情のもつれ。
 忘れよう、自分の欲なんか。
 抱きしめてくるタケルの体温を感じながら、私は欲の壺に蓋をして、そこに重しを何重にも乗せたのだった。

 ※ ※ ※

「ありがとうございました」
 私は馴染のお客様を笑顔で見送り、頭を下げた。
「にゃーん」
 ん? 猫?
「あれ、珍しい……君は見たことがないなあ……まだ子どもだね」
 私はしゃがみこんで、すり寄ってきた茶トラの猫を撫でた。
 体の大きさが、まだ大人のサイズじゃない。
「かわいいなぁ……うちもペット飼いたいな……いやいや、お別れするのが辛すぎるからやめてるんだった……あ、首輪してるから、君はどこかの飼い猫さんだね」
 首輪の色は黒で、半月の形をした金色のチャームが揺れていた。
 ゴロゴロと喉を鳴らしながら、子猫はずっと気持ちよさそうに撫でられている。
 あ、ヤバい。ほんとに連れて帰りたくなってきた。
「石山さーん!」
「あっ、いけない、お客様が待ってるんだった……はーい、今戻りまーす!」
 さすがに、店長から呼ばれてしまった。
 平日の昼間でも、うちの美容室はわりと忙しいのだ。
「また会えたらいいな」
「にゃーん」
 子猫はまるで返事をするように可愛く鳴くと、ちょこんと座って私を見た。

『行ってらっしゃい、頑張ってね!』

 なぜか、そう言われたような気がした。
「うん、行ってくるね」
 私は子猫からお店に視線を移す。
 さあ、お仕事頑張ろう!
「お待たせ致しました!」
 息を吸いながらお店のドアを開け、私は営業用のスマイルを浮かべたのだった。
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